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強い人 (後編)

 ある日、栄養士から話があった。
「調理部に新しくスズキさんが入ります。皆さんスズキさんに仕事を教えてあげてください。」
Aの園調理部に新しい人が入ったのである。
 スズキ氏は30代前半くらいの女性。現在子育て中だが、夫の収入だけでは生活がギリギリなので仕事をすることにしたらしい。
「前職は製造の仕事をしていました。しっかり仕事を覚えて早く皆さんの役に立てるよう頑張ります。よろしくお願いします。」
スズキ氏は控えめでおとなしい声音で挨拶した。
「サトウさん、スズキさんの教育係よろしくお願いします。」と栄養士は言うと、彼女はさっさと厨房を出て行った。
(あいつ、本当に気に入らない。厨房内でろくに仕事しないくせに。)
サトウ氏は心に中で栄養士の愚痴を言う。そのあと満面の笑みを作りスズキ氏に向かって挨拶した。
「調理長のサトウです。独り立ちするまで私が教育係だから、よろしくお願いね。」
張り上げた大きな声で、スズキ氏だけでなく周りにいた調理員にもその声は充分すぎる程聞こえた。

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 厨房内にずっといると、自分が醤油や油の匂いまみれになっていることに気づきにくい。外に出て初めて気づくことがある。
「カットの大きさはこれでいいわ!でも野菜カットの速さが遅いわね。もっとスピードあげてーーー。」
 厨房内外にサトウ氏の語尾が伸びた大声が響き渡っている。換気扇の音がうるさいせいか、それとも教育係に熱を込めて取り組んでいるのか、サトウ氏の声はいつもより一回り大きかった。
 スズキ氏が働き始めてから一か月が経とうとしている。スズキ氏は仕事の流れを覚えてスムーズに動けるようになっていたが、サトウ氏の指導はまだ終わっていなかった。
「流れは大丈夫よ。でも細かいところがまだね!スズキさん、昨日のごみ袋の掛け方雑だったわよ。」と誰にでも聞こえる大声を出している。
(この人、ちゃんとわかっているのかな。一緒に働き始めた時から思っていたけど、声小さいのよね。理解しているのかどうかわからないじゃない。)
サトウ氏はそう思うと、次はもっと声を張り上げて大きな声で強くこう言ってみた。
「スズキさん!声聞こえないわよ!本当にわかったの?」
「はい、わかりました。気を付けます、すみません。」
スズキ氏も彼女自身ができる精一杯の大きな声で答えた。だがサトウ氏には届かなかったようだ。

「あなた子どももいるんでしょ!もっとシャキっとしなさい!そんな感じだと育てられないわよ!」

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 それから三か月が経った頃、異変が起きた。スズキ氏が体調不良を訴えたのである。スズキ氏の左顔から首にかけて蕁麻疹が出て、さらには手の痺れが酷く、出勤したものの仕事ができなくて早退することになった。サトウ氏が休みだったのでタナカ氏が対応し、栄養士に報告した。それから、スズキ氏は体調不良が続き仕事を休むことが多くなった。

 ある日の休憩時間、タナカ氏とイシイ氏が話していると、サトウ氏が入ってきた。サトウ氏が通った後は油の匂いがふわりと舞う。
「お疲れ様です、サトウさん。スズキさん今日も休みですね。」
とイシイ氏が言った。
「そうね~。真面目に働いていたと思っていたのだけど。ここで働くのが嫌になったのかな?まさかねぇ!うちらはいつも通り仕事して教えていただけ。スズキさんが何を考えていたのかは分からないからね~。結局は本人の問題かな。」
ただ教えていただけで本人の問題なのだ。それだけの話。そう思いながら、サトウ氏は有志でおいてある休憩室のお菓子箱の中からビスケットを取り、厨房の油の匂いを身体からぷんぷんさせながら、バリバリと音を立ててビスケットを食べた。

 ほどなくして、スズキ氏が職場に姿を見せた。それはタナカ氏がちょうど休憩室に入った時だった。
「どうしたの?今日はスズキさん休みでしょう。体調は大丈夫なの?」
「はい、体調は落ち着いてきました。お気遣いありがとうございます。私、休んでばかりなので、今日はお詫びをしに来たんです。」
スズキさんは穏やかな口調で続けて話した。
「これほんの気持ちですが、皆さんで食べてください。体調には気を付けていきます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。」
「いいのよ、いいのよ、気にしないで。まずは自分の体調を最優先にしてね。」
タナカ氏は優しく気遣った。すると、話し声を耳にしたイシイ氏もやって来て「大丈夫?」と心配そうな顔をしながらスズキ氏に歩み寄る。気遣ってくれた二人に対して込み上げてきた思いがあったのだろう、スズキ氏は涙を浮かべながら感謝を伝えた。

 タナカ氏とイシイ氏が仕事に戻った後、サトウ氏が入れ替わりで休憩室に入った。スズキ氏はサトウ氏にもお詫びの挨拶を丁寧にした。そしてこう付け加えた。
「サトウさんにはいつもご指導頂きまして感謝しています。でも期待に応えられず、休んでばかりになってしまって申し訳ありません。サトウさんのご指導についていけるよう努力して参ります。」
この時、スズキ氏の声は少し震えていたかもしれない。サトウ氏はいつものように大きな声で言う。
「本当に期待に応えていないわよね。」
こう言ったのはちょっとしたいたずら心だった。楽しい会話をしようといういたずら心。でも人として少しばかりの気遣いはみせなくてはならない。
「まあ、体調回復するまでゆっくり休めばいいじゃない。うち人手不足なんだから、スズキさんの力も必要なのよ。」
サトウ氏はにっと笑ってみせた。
スズキ氏は緊張した顔つきで「お菓子も持ってきたのでほんの気持ちですが」と言った。スズキ氏の声を聞き、サトウ氏はちょっと空気がピリついてしまったと直感で感じたのでスズキ氏の持ってきたお菓子に話題を変えようとお菓子を見る。そのお菓子はどら焼きだった。
「ねぇ、今度は洋菓子持ってきてよ。カップケーキとかさ。私そっちの方が好きなのよ。」
いつもの大きな声で、表情は何も悪気のない笑顔で。


 それから間もなくして退職の意がスズキ氏から栄養士の元に届けられた。

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 休憩時間、調理員専用の休憩室でタナカ氏とイシイ氏が話をしている。食事を取る利用者の傍らで、介護士が片付けをしながらテーブルを消毒をしているのだろう。食事と消毒の混ざったような施設独特の匂いが調理員専用の休憩室まで漂っていた。今日はサトウ氏の休みの日だ。
「スズキさんやめてしまいましたね。せっかく私と年近い人来て嬉しかったのに~。絶対サトウさんの口調が強すぎるせいですよ!」
イシイ氏がぷりぷりとした口調で言った。
「イシイさん、今日はサトウさんいないから言うね~。」
タナカ氏はおもしろがるように言う。
「何笑ってるんですかぁ。タナカさんだってそう思っているでしょう。今日はサトウさんいないからタナカさんも羽伸ばしたらどうです?」
とイシイ氏がからかうように言うと、タナカ氏は笑いを堪えきれないといった様子で言う。
「あぁー、可笑しい!笑うしかないでしょ、だってスズキさんで…、」


 Aの園調理部で短期間の間に、退職や長期休暇となった者はスズキ氏で20人目である。



終わり。
*最後まで読んで頂きありがとうございました。

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