半眼


先日、あるお寺に行った時仏像をみながら何故半眼の仏像が多いのだろうかと疑問が湧いてきた。

【半眼】について調べてみた。

半眼とは、目を開けているのでも閉じているのでもない状態のことをいう。座禅をするには半眼がいいとされていますが、目を開けてしまうと心が乱れ、閉じてしまうと眠気が襲ってくることから半眼が良いとされているようである。座禅と仏像には何か通ずるのもがあるのかもしれない、という事。

仏像を見ていた時、疑問と同時に自分の中から私なりの一つの答えみたいなものも湧いてきていた。

あくまでも、私がそう感じたという感覚的なもだが、この世の中での生き方みたいなことを表しているのかなと思った。

二元性で成り立っていこの世界。

私たちの周りには必ず相反するものが存在する。

陰と陽・善と悪・光と闇・始まりと終わり・上と下・右と左・生と死・裏と表、等々。

少し前に、DA PUMP/USA の歌詞で
『どっちかの夜は昼間』というフレーズがあった。

本当にその通りだなあと思う。

この世界は、昼間の時間でない地域は夜なのだ。私の一日も昼でない時間は夜だ。

昼に活動して、夜は休む(生活スタイルが逆の人もいるだろうが)。

昼活動するために、夜は美味しいものを食べてお風呂に入り温まり、好きなことをして緊張をほぐしリラックスする。フワフワの布団に包まれてぐっすり体を休める。 そしで、また昼の時間を迎える。

毎日、この当たり前にしていることこそ真実に思う。

日々の中にも、昼と夜があり、人生にも昼と夜がある。そして、自分自身にも昼と夜がある。それを光と闇ととらえることもできる。シンプルに言えば長所と短所。

自分を含めたこの世の中には必ず、昼と夜(光と闇)が半分ずつ存在する。

つまり、半分は自分にとって望まない現象や出来事・思いを感じる事があるという事だと思う。

私の感じた半眼は、『人生における半分の事には目を閉じて生きなさい』。なのかなあと感じた。自分に対して・世の中に対して、思い通りにならないと感じることは半分はある。それに対して目を閉じる、つまり失敗や過ち、気に入らない事を許して生きなさいということではないだろうか?
きっと、私の夜の部分も許させて生きているから。

自分の心や自分の人生においての夜の時間が訪れた時は、当たり前に繰り返している毎日の夜の時間と同じように、自分に栄養を与え、温め、許し、リラックスし、好きなことをして、目一杯自分に愛を与えて、昼の時間を迎える準備をしてあげればいいのではないのだろうか?  

きっと、夜がなければ昼もないのだろう。どっちかがいいのではなく、どっちも必要なんだと思う。夜の休む時間がなければ昼活動できない。
むしろ、夜の時間の方が自分を成長させてくれる時間なのかもしれない。

この世界も人間も不完全で完全に創られている。だからもし自分に完璧を求めるなら50点で満点だ。自分が100点と思っても、きっと誰かの目からは不完全だから。

きっと、私に出来ないことは誰かが、誰かが出来ない事は私が出来るのだから、足りないところはみんなに補ってもらって、それでも完璧に生きられることはないから、まあ30点くらいの自分で満足しながら生きていきたいな。






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