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喫茶店の匂い

行きつけの喫茶店が急に店を閉めた。
そこは不思議な空間だった。

店主のママは高齢だが品が良く、笑顔が素敵で、
彼女の淹れる珈琲は抜群に美味しかった。

数年前からどうも様子がおかしかった。
注文がなかなか取れなくて、何回も聞き直したり、間違えていたり。
行きつけだったし、仲良しだったのに、
ある日、私をはじめての客を見る目で
いらっしゃいませ!といわれたときはさすがに
ショックだった。

でも珈琲の味だけはいつも完璧で、揺らぎがなかった。
甘さと酸味のバランスが絶妙で、ナッツの様な芳ばしい香りの余韻が最高だった。

ママは髪をいつも束ねていて、ほつれ髪が妙に
色っぽくて同性ながらドキリとした。
時折、ふっと土の匂いのような草のようなスモーキーな匂いがして私の知らないママの心の中を覗いた気がした。

メニューもあるにはあるが、無いに等しかった。
でも、ママはよほどの事がない限り無い!とはいわないのだ。商売人としての長年のプライドがそうしているのかもしれない。

最初はカレーも手作りしていたようだが次第にレトルトになったり、サンドイッチやケーキの注文が入ると近くの商店街に小走りして買いに行く。

あるとき、お客さんがジュースを注文したら自販機に買いに行ってまさか缶ごと出すのじゃないかとハラハラしたが、グラスに移したのでホッとした。注文したお客さんはそれを見て見ぬ振りをしてたのが微笑ましかった。

不思議だが、どんな場面でも文句を言う人を見たことはない。

店をそのままにしてママが出て行っても皆んなそれが日常の景色のように彼女の帰りを待っていた。というより、ちゃんと無事に店に戻ってくるんだろうか。そんな心配をしていたに違いない。


天井には豪華なシャンデリアやステンドグラスが
異様な存在感を放っていた。BGMはいつも心地よいクラシックやシャンソンが流れていた。
そんな空間のなか、珈琲の匂いが染みついたソファでママの淹れた一杯を飲む時間が私は好きだった。


忙しくて数ヶ月行かなかったが、
店の前に閉店の張り紙がしてあった。

ママが何故急に辞めたのか、近所の人に聞けば
その理由はすぐに解るはずだが聞かなかった。
人の優しさで満ちていた穏やかな時間、ママにしか出せなかった至福の珈琲は確かに存在したから。

私の香りの引き出しにちゃんとしまっておくからね、と入り口のドアを見つめた。




#喫茶店 #レトロな空間 #想い出 #珈琲の香り #珈琲が好き

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