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自己啓発本はむしろバカのための大嘘たれという話

この記事を読んでいる皆さまは、自己啓発本というやつを買ったことがあるるでしょうか?

え?無い?

それはいけない。ぜひ買ってみるべきです。本屋でちらっと立ち読みするだけでもよろしゅうございます。


最初の数ページだけでも、いえ賢い皆さまなら表紙を読んだだけもきっと、その真水のごとき味の薄さに驚愕されることでしょう。

情報の取得こそが本質であったはずの読書において革命的ともいえる情報量の少なさ、馬鹿にも分かるを通り越して馬鹿にしか分からないレベルの幼稚な論理展開、無責任を隠さずにむしろ押し出す勢いで断定を避けた当たり障りの無い結論

加えてただでさえ少ない情報をさらに削るために大した意味もなく挿入されるイラストと図によって、読み手の思考は限りなく停止に近い速度まで遅くなっていきます。

これらは文化人であらせられる皆さまにはおよそ未知の読書体験でしょうが、四捨五入すれば白紙と変わらないこのような書籍がこの世には本当に実在するのです。


ええ、ええ、おっしゃりたいことは分かります。千円近く払って白紙を眺めるなんてど変態ではないかと、半額以下で自由画帳と鉛筆を買った方がましではないかと、そうおっしゃりたいのでしょう?

私もそう思います。

しかしそう思わない人間も世界にはいるのです。書籍が出版されているからには、買う物がいるということです。


ではこのような本を買う人間は、白紙を眺めて興奮する精神異常者なのかというと、これもそうではありません。文字列と情報の区別のつかない馬鹿というわけでもありません。(少しはいるかもしれませんが)


彼らがしているのはそもそも、読書ではないのです。


本を買っておいて読書をしないということはどういうことだとお思いでしょう。
アイドルの握手券がついていたり、著者へのお布施代わりになったりするのかと、そうではありません。


彼らは自己啓発本を用いて、つまり読むふりをすることで瞑想をしているのです。

自己啓発本の目的は、情報の入手ではなく、読んだ後、ハッピーな気持ちで行動を起こすことです。



読後感ではなく読後行動が自己啓発本の果実なのです。


一般的に本のジャンルはその本が載せている情報のカテゴリーによって分かれます。小説、歴史書、哲学、科学、図鑑。何の情報を載せているかがカテゴリー名になっているのです。

しかし自己啓発本は違います。内容自体は様々です。良く言えば網羅的、悪く言えば手あたり次第、しっちゃかめっちゃか、雑種雑多の支離滅裂でなんでもござれな展開をしていますが、いづれも自己啓発本と分類されています。


「自己啓発」、そう、自らを啓発するという読者の目的によって分類されているのです。
ほかのジャンルの本は内容のために購入されますが、自己啓発本は読後の効能のために購入されているのです。


勿論理解に苦しむでしょうが、決して彼らを馬鹿にしてはいけません。
博学たる現代人でいらっしゃる皆さんからしたら、情報を軽んずる自己啓発者たちはさぞ愚かに見えることでしょう。よくわかります。


しかし、この社会ではすでに情報は飽和しています。インターネットでほぼ無料であらゆる情報が集められる現代では、読書はすでに情報収集の手段としての絶対的地位から陥落しているのです。


であれば、読書に情報以外の無いかを求めるのは決して不自然ではありません。自己啓発者たちは読書の新たな用法として、ヨガや座禅のような自己催眠装置としての道を見つけ出すことで、インクの付いたただの紙を十字架にも数珠にも変えることを可能にしたのです。



情報源としての従来の役割をインターネットに大きく奪われている現状を鑑みると、読書をある種の精神統一のための儀式へと変えた自己啓発者たちは、今まさに読書の新地平を切り開いている最中であり、読書界の開拓者といっても過言ではありません。



彼らの熱きフロンティアスピリットこそ、今の出版業界が思い出すべき初心なのではないかとも私は思うのです。


え?結局どっちの味方か?


それは勿論、皆様です。自己啓発本なんて馬鹿の買う本です。

知的な価値を捨てた自己啓発本は知的階級であらせられる皆様には間違いなく必要のない本です。


自己啓発本は知識を求める者のためではなく、行動したくても自分で始められない者のための本であり、つまるところは馬鹿のための本です。それは本当に間違いない。


そしてタイトルにもある通り、内容は嘘の方が良い。事実は小説より奇なりと言いますが、自己啓発本を読む馬鹿者は現実の奇を楽しむのに十分な感性なんて持ち合わせていないことがほとんどですから。できるだけわかりやすい、かつ印象的な嘘の方がより大きい「効能」を示すことができるでしょう。


ええ、真実かどうかも知的かどうかも関係がないのです。行動さえできれば。


所で、皆さんはどちらなのでしょう?

知識を求める賢者か、行動できない愚者か。
賢者を名乗るみなさんは、本当に知識を必要としているのでしょうか?
皆さんは本当に自ら行動できていますか?


豊富な知識を持つことが人生の最重要事項だと考える方も多いかもしれませんが、先ほど申し上げたように、もはやネットの世界に情報は飽和しています。人間の脳よりも数段優秀な機械たちが、莫大な量の情報を瞬時に運び続けているのです。


圧倒的に性能の劣るあなたの脳が、同じように情報を蓄積する必要が本当にあるのでしょうか?


知識の収集が意味をなくしてしまったのなら、賢者の役目は何なのか。それは知識を使い、何かを生み出すこと。すなわち「行動する」ことではないのでしょうか。


知識が無駄とは言いません。膨大な情報も使いこなすには理解と反芻が必要です。しかし、「行動する」ことの価値が高まっていることもまた否定できるものではありません。

そのための起爆剤として自己啓発をする者たちを、無知な愚か者と一蹴することは少し暴力的かもしれません。


行動には勇気が必要です。それは太古の昔から変わりません。人の歴史には行動だけが刻まれていますが、その影には常に大きな勇気が求められてきました。


だからこそ、人は十字架を胸に抱き、仏に拝み、神に跪いて、ほんの少しの勇気を授かろうと必死になったのです。


神も仏も信じない者が行動を起こすためのお祈りが自己啓発本なのです。


皆様はご賢人でいらっしゃいますから、そんなものがなくとも迷わず行動に起こせるのかもしれませんが、多くの人間はそうではありません。

世間に生きる大抵の人間はどちらかと言えば馬鹿者ですから、本当です。
石を投げれば馬鹿に当たります。馬鹿が気づくかはわかりませんが。


ですから皆様も、書店で自己啓発本を手に取る間抜け顔を見かけたときは、嘲りではなく、むしろ賞賛をもって見守ってやっていただきたいのです。

彼は行動に向かって前進する、勇敢な開拓者なのです。



最後に、
ほとんどの馬鹿者は、自分が馬鹿だとは気づかないのが世の常です。
どうかご自分を過信なされないように、お気を付けください。




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