短編小説「夏の影」・後編

 次に目を覚ました時、外はまだ暗かった。とはいえ、時間について後から知ったことで、実際に窓の外を確認したわけではない。起きた時は、窓はおろか時計を見ることすら考えなかった。そんな暇もなかった。理由は俺が目を覚ました原因にあった。

 俺を起こしたのは、声だった。男がすすり泣いていたのだ。それも俺の隣で。

 俺はベッドに対して、横向きに座った状態から体を倒して寝ていた。つまり足を床に着けたままで、体を起こせばベッドに腰かけている状態になる。俺の横で泣きべそを外でいる男はまさにその恰好だった。

 男の存在に気づいた俺は声も出せず、ただベッドの上へ後ずさりをし、壁に背を付けて停止した。この上なく寝ざめの悪い起こされ方だった。さっきまで穏やかだった心臓が暴れるように跳ね、冷や汗が一気にふきでた。あまりの驚きで放心状態というか、状況を思い出すことにも手間取った。しかし、俺が頭を真っ白にしている間も男はただすすり泣くばかりで、俺を見向きもしなかった。声は出さずとも、どたばたと慌てふためいて、我ながら結構なリアクションをしていたはずなのに。

 この感じ、この完全に無視されている感覚で悟った。こいつは影だ。いままで靴と音しか見せなかった影が、どういうわけかいきなり全身を現したのだ。

 やっと姿を見せた怪人は、しかし見慣れた姿だった。俺のスーツ、俺の髪型、俺の声。瑞嶋の言う通りだったわけだ。影は確かに俺の姿をしていた。見慣れたといったが、自分の後ろ姿は初めて見た。録音した自分の声は気持ち悪く聞こえたりするが、それは鏡や映像ではない自分の姿についても同じだった。どこが間違っているわけではないのに、受け入れ難い違和感が拭えない。誰よりも知っているその姿に不信と不安を感じてしまう

 正直言ってかなりビビっていた。今までと違い、少なくとも成人男性一人分の危険性を持っていることは固かったからだ。勿論幽霊みたいに触れはしない可能性もあったが、わざわざ確かめるのは気が引けた。今回の異変の核心に近づいていることは確かだったが、俺はうかつに動けずにいた。

 しかし次第に冷静になってくると、影がすすり泣きながら何か喋っていることに気がいた。押し殺すような泣き方で、絞り出すように小さく何かをつぶやいていた。

「・・・なんで、・・何がこんなに?・・・」

 かすれた声でうまく聞こえない。俺は危険を承知で影に近づき改めて耳を澄ませた。

「大丈夫なはずじゃないか。・・飯だって家だってあるじゃないか。みんなそれで十分なんだから俺だって十分なはずだろう?・・・なのにどうして、俺はこんなに!」

 なのにどうして、俺はこんなに泣きそうなのだろう。言葉にならない言葉の続きがその時の俺には分かった。

 必要なものはちゃんとある。世の中にはそれも満足に手に入らない人がいて、俺は恵まれている方なのだと知っている。このまま普通に働いて普通に生きていれば、不安も心配もありはしないのに。それなのに、何故かどうしようもなく居てもたってもいられない。ただ何となく、何かが不満で、何かが削れる感覚に我慢できずにいる。そんな気持ちがよくわかる。

 影が映すのは、姿ばかりではなかったらしい。

「俺にはもう何もできない。これ以上どこにも行けない。この先に何も残っちゃいないんだ。」

「・・・飽きちまっただけだろうが」

 腹が立った。気持ちが理解できる分、余計に我慢ができなかった。傍から見るとどれほど幼稚な愚痴なのか分かってしまい、それをいかにも悲劇的に吐き出している自分が恥ずかしくなったのだ。痴態をさらしている自分を見ていられなくなり、つい声を出してしまった。自分自身に、偉そうに。

「仕事も生活も、期待していたほど楽しくなかったってだけだろ。どっちも自分で選んだ癖に、お前の甘ったれた期待が裏切られたって話を、自己中心的に悲観してんじゃねえよ。」

 なぜだろうか。説教じみた言葉を口にする度に、自然と語気が強くなった。

「真剣じゃなかったんだよ、お前は。自分の将来について、考えたつもりになってただけなんだ。その怠けたツケが結果がこれだろ? 周りが平気そうに見えてるのは、真剣に考えて生きてるからだ。」

 影に意思などないのだから、こんな言葉に意味はない。鏡に向かって話しかけているようなものだ。どんな罵倒をしようとも返事は来ない。自問自答にすらならない、一方的な自己否定と憂さ晴らしに過ぎない。そう思っていた。

「・・・考えたよ。真剣に。」

 最初はまた独り言だと思った。影は以前下を向いていたし、泣き声と混じって聞き取りづらかったからだ。

「考えて選んだ未来だよ。俺が怠けたって?そんなわけないだろう?俺なりに一生懸命考えたよ。つもりなだけかどうかなんて、後からしかわからないじゃないか。」

 驚いたが、恐怖はもうなかった。自問自答が完成した。俺なりに、という言葉に自己陶酔が見え隠れし、また腹が立ったが、しかしやはり影の言葉にも一理ある。結局自分の考えなのだからそれも当然ではあるが。

 今の自分の行動や決断が正しいのかなんて、後から振り返ってみなければ分からないのだ。だから俺の言葉は結果論でしかない。影に腹が立つのも、自分が本気で考えた結果がこの惨めな嘆きだということを認めなくなかったからなのかもしれない。だから真剣でなかったということにして、自分の自尊心を守ろうとしたのだ。しかしかといって慰めてやろうという気にはならない。

「後からわかるだけマシじゃないか。確かに選んだときは真面目だったんだろうさ。全力だったんだろうさ。でも足りなかったんだよ。お前はもっと考えなくちゃならなかったんだよ。今分かったことだけど、今更分かったことだけど、でもそれが事実だろう? それが苦しい理由なんだよ。仕方ないじゃないか。」

「仕方ないだって? 冗談じゃない。足りないとわかっていればもっと考えたさ。でもわからなかった。俺は悪くないじゃないか、それこそ仕方のないことだ。やれるだけのことをやっても、それが正解を選べるかどうかは運次第だなんて。・・・こんな気持ちで、泣きそうなまま生きるのも仕方がないことなのか? そんなの・・・俺は耐えられない。」

「仕方がないんだよ。お前が耐えられるかどうかなんて関係ない。たとえ理不尽でも、それは認めなくちゃダメなんだ。」

 自問自答というものは、意外と重要なのかもしれないと俺は思った。頭の中だけでは、結論を出すのが早くなりすぎる。自分で抱えた問題や悩みを咀嚼し反芻することを怠ってしまい、すぐに頭の中で回答を出してしまう。しかし、頭の中で即答できるような結論では問題の解決には至らない。問題はもっと複雑で、理屈だけでなく感情も重要になる。だからこそ正しく問題を捉えるのには時間がかかる。自分自身のものでも、脳内だけでは感情はイメージしづらいものだ。それをこうして目の前で情緒たっぷりに吐露してくれると、解読と解釈に時間をかけ、言外の感情までも汲み取ることができる。

 そうしてようやく、言いたいことも見えてくる。

「だけどさ。今更になっちまったけど、間に合わなかったけど、わかってよかったじゃないか。お前は自分の間違いに今やっと気づけたんだ。そう思えばいいじゃないか」

「それを認めてどうなるっていうんだ。諦めがついてかえって清々するなんて、そんな風に思えるとでも考えてるのか?」

「考えねえよ、お前は。俺はそんな風に考えられない。諦めた分、ちゃんと傷つく。自信はなくなるし、間違え分の遅れは二度と取り返せない。間違えなかった奴らへの劣等感は一生消えないし、後悔だって残る。でもな、諦めなければ何とかなるなんて考えるほど馬鹿でもないだろ。諦めなきゃ前に進めないってことぐらいはわかるだろ?」

 いつの間にか影は、俺と目を合わせていた。頼りない目だった。俺はこんな顔をして生きていたのかと思った。毎日鏡を見ていても、ちっとも気づいてやれなかった。

「今から考えるしかないじゃないか。やり直すことはできないんだから、やり続けることしかないんだろ。仕事とか生き方とか、また考え続けて、また選び続けて。繰り返すたびに選択肢が減って、満足できるものに出会える可能性はどんどん少なっても、答えが見つかるまで諦め続けろよ。みっともないけど、情けないけど、その方がずっと生きる意味がある。たとえ最後まで満足のいく生き方が見つからないまま死んだとしても、その方がきっと、・・・きっと死にたくないって思える。それって、割と上等だろ?少なくとも今よりは。」

「でも、幸せかどうかはわからない。結局今の生活の方が幸せかもしれない。もしかしたら食うことにすら困るようになるかもしれない。そもそも満足できる生活なんてないかもしれない。どんな生き方をしたところで、俺が期待してる楽しさとか、生きる意味とかなんてありはしないかもしれない。それは、・・・やっぱり怖い。」

 会話が成立していても影に意思はない。だからこそ、その言葉は疑いようもない本音だった。怯えているのも、怖気づいているのも本音だった。むしろ嘘をついているのは俺の方だった。怖がる本心を希望的観測と理想論でごまかしていた。

 しかし、それが悪いこととは思わない。何かに騙されでもしない限り、行動できない人間はいる。騙されようが騙そうが、それで何かが変わるなら悪くない。

「俺も怖いよ。先がわからなくなるのは怖い。でも、苦しくはなくなる。」

「・・・お前にできるか?」

「・・・やるよ。俺は。」

 できるとは言えなかった。まだ怯えたままだったから。しかし、それでもやると言えたのは、目の前で泣いている自分に見せた強がりだったかもしれない。説教をしていたつもりが、いつの間にか俺の方が説得されていた。

 黙ったまま下を向いている影を、俺も黙って見つめていた。

 すると影の顔に日の光が差した。ふと窓の外を見るとが夜明けが近づいていた。なんだか夢からいきなり現実に戻された気分だった。

 窓に顔を向けたのは一瞬だった。しかしその一瞬の間に影は消えていた。窓から視線を戻すと、さっきまで影がいた場所を朝陽が明るく照らしていただけだった。
 
 その後、俺はしばらくして会社を辞めた。今の仕事については説明が少し複雑なので省くが、あれ以来影が現れないところを見ると、それなりに満足しているのだと思う。

 ちなみに後から分かったことだが、影の現れた日はあの年で一番気温の高い日だったらしい。もしかしたら突然影が現れた理由はそのあたりにあるのではないか。

 あいつが影といったからすっかり影のつもりでいたが、あれは影と呼ぶにはあまりに鮮明すぎる。輪郭しか映さないはずの影に、顔や声までトレースできたとは考えづらい。自分の姿を自問自答ができるほど鮮明に映し出す。その特性はむしろ鏡に近い。

 真夏に現れる鏡像、あれはおそらく蜃気楼のようなものだったのじゃないのか。照りつける太陽が生む光の屈折。その幻に俺はまんまと化かされただけなのかもしれない。

 とはいっても、今さら真相など分かるわけもなく、知りたいとも思わない。それほど大事な思い出とも思っていない。

 ただ強いて、こんな思い出からも何かを学ぼうというのなら、一つだけ。自問自答は一人でするべきだということだけ覚えておけばいいだろう。

 夏が来るたび思い出し、夏が過ぎるたび忘れ去る。大した教訓なんてない、憶えてるだけの記憶だけれど。多分俺は人生最後の夏にだって、この思い出を思い出す。なんとなくそんな気がする。これは、ただそれだけの話だ。

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