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短編小説「夏の影」・中編

今回の異変は「音」だった。それも足音だ。

昨日の靴なんか比にならないくらいに直接的に何者かの存在を主張していた。靴はあくまで何者かがそこにいた痕跡に過ぎなかったが、足音なんてものはもはや証拠不要の現行犯だ。
二日連続でこんなことが起これば、幻覚や幻聴ということもあるまい。

しかし今回はドアを開ける覚悟を決めるのにはそれほど時間はかからなかった。

勿論恐怖も緊張も十二分に感じていた。部屋の中から聞こえる足音からは、生身の人間を鮮明に感じる。体格や体重、そして何より感情を。目を凝らせば表情まで見えてくる気がする。「いるかもしれない」ではない。確実にいる。明らかに昨日より危険だ。

だが足音に気づいた時点で、俺はもう諦めがついていた。覚悟というのは諦めることで生まれるものだ。俺は既に尋常じゃないことに巻き込まれてしまっている。もうこの玄関先は日常の延長線上ではなくなってしまったのだと。

逃げることはできない。それは諦めるしかない。しかしだからこそ、戦う決心がついた。

俺は昨日棒に振った闘争心を再び奮い立たせ、ドアを開ける。サラリーマンの帰宅にはおよそ似つかわしくない表情で、足を踏み出した。

結果から言えば、部屋の中にはまたしても誰もいなかった。あれほど克明に想像できていた人影に、実像は伴っていなかったのだ。

だが拍子抜けという感じはしない。肝心の足音は以前変わらず聞こえているからだ。音の発生源に近づいたからか、振動すら感じ取れるようになっている。姿は見えずとも、存在感はむしろ増していた。
そうなってから気づいたが、聞こえていたのは足音だけではなかったようだ。床からだけでなく壁やドアからも何かがぶつかる音がする。

俺は部屋に上がり、音の発生源を探してみることにした。といってもそれほど広い部屋ではないから、すぐに突き止めることができた。音の発生源は移動し続けていたのだ。

廊下、洗面所、トイレ、リビング。足音は家中を歩きまわっていた。壁やドアの音も常に足音の近くから聞こえている。隣の部屋の生活音や自然現象では絶対にありえない。
この時点で俺は「何か」がいるということを確信した。一応音のする近くで手を振り回してみたが、何の感触もない。姿もなければ形もない。音だけだ。だがしかし、確実に「何か」はいる。

しばらく観察、もとい鑑賞してみたが足音は部屋を右往左往するだけで特に変化はなかった。足音にはある程度の意思を感じるが、こちらを認識している様子はない。
同じような速度で同じような場所を移動し続けている。普通に歩くより少し遅く、よたよたとした感じで、風呂場からトイレへ、トイレから玄関へ、玄関からリビングへ、テレビの前や俺の腰かけるベットに近くを通り、また風呂場へ。

このまま鑑賞を続けても、重要な情報は得られそうになかった。一応昨日と同様に部屋の中を捜査してみたが、昨日と同様に音以外の身の危険と異変がないことが確認できただけだった。

意気揚々と部屋に乗り込んで、早々にやることがなくなってしまった俺は、とりあえず腹ごしらえをすることにした。足音に対してこちらからの干渉が不可能な以上、俺にできるのはひたすら見を維持することのみである。今夜の決戦は長丁場になるだろうことが予想できた。

晩飯を食っている間も足音に変化はなく、食い終わったら再び暇を持て余すことになった。得体のしれない客人がいる中で、リラックスすることもできない。せっかくだから、姿のない足音について何かしらの情報がないかネットを調べてみたが、ヒットしたのはありがちな怪談や怪奇現象についてのサイトのみだった。一応サイトをのぞいてみたが、載っていたのはだれでも知っているような情報と実話を自称するたいして面白くもない怪談のみであまり参考にはなりそうもなかった。

怪奇現象に近いものだとは思うが、幽霊とか怨念が原因だとはあまり思えない。そういったものが原因だとしたら、あまりに主張がなさすぎる。死者の念というものは意思や目的はなくとも、感情だけはあるはずだ。その感情を伝えるためだけに、肉体を失ってなお現世にとどまっているのだから。

そう考えると今回の足音はむしろ逆といえる。その規則性と人間味からは明らかな意思が読み取れるが、それがこちらに向く気配は全くない。この足音には感情と主張が感じられなかった。

インターネットが敗れた以上、俺は別の手段で情報を集める必要があった。真っ先に思いついたのは文献を漁るか、あるいは専門家や有識者に直接話を聞くかだが、もうとっくに図書館は閉まっているし、こんな奇妙な現象に造詣の深い人間なんてそうそういない。ネットで調べて判らなかった途端に手詰まりというのは何とも情けない感じだが、それが現実であった。仕方がないので渋々足音の監視に戻ろうとしたその時。

「♬♪」

突然、携帯の着信音が鳴った。テレビもつけずにあれこれ考え事をしていたから必要以上に驚いてしまったが、人工的な電子音を聞くのはずいぶん久しぶりな気がして、俺は少しだけ安心した。

だが、画面に表示された発信者の名前を確認した瞬間にその安心は消え去ってしまった。

瑞嶋葦哉

瑞嶋は俺の甥にあたる。年は十七で関西の高校に通っていた。奴がどんな人間なのかといえば、なんてことはないろくでなしだ。家庭の事情で小中学は全国を転々としており、その先々で問題を起こしたために親しい友人はできたことが一度もない。
気性が荒いわけではないが、人を歩く案山子くらいにしか考えていない。とにかく集団生活に向かない。わかりやすいくらいのはみ出し者だ。

瑞島から連絡が来るときは大抵面倒ごとに巻き込まれる。それも明確な役割があって巻き込まれるわけじゃない。流れのままにトラブルに放り込まれ、散々振り回された挙句、振り返ってみれば自分がいる必要なんて全くなかったということばかりだった。

瑞島が高校に入ってからは全く連絡が来なくなったおかげで忘れかけていたが、スマホに映った名前を見て奴との忌々しい記憶たちがよみがえった。

しかし同時に、奴が奇妙な事件やうわさ話にやたらと詳しかったことも思い出した。体質的にそういうものを引き寄せているのか、彼が自ら近寄っていくのか。会うたびにそういう話を嬉々として聞かされていたことを覚えている。

奴なら何か知っているかもしれないという期待も込めて俺は電話に出ることにした。

「もしもし?」

「やあ叔父さん、久しぶりですね、僕ですよ。」

「ああ、久しぶりだな。」

「あれ、元気がありませんね。もう少し明るく話したほうがいいんじゃないですか?サラリーマンなんですから。」

 高校生になり少しは成長しているのではないかと期待したが、たった10秒の会話でその期待は裏切られた。別に悔しくもないが。

「次からはそうするよ。それより何の用だ?こんな時間に電話なんかかけてきて。」

 聞きたい事だけさっさと聞いて電話切ってしまいたい一心で、俺は話を急かした。

「急かさないでください。少しは雑談を楽しみましょうよ。人間性ってのは雑談が養うもんですよ。」

「だとしたら雑談に励むべきなのはむしろお前のほうだろう。」

「ひどいこと言うなあ、かわいい甥っ子に。まあいいや。」

叔父からの小言をさらりと受け流し、ふふん、と人を馬鹿にするように笑ってから、可愛くない甥っ子は本題を話し始めた。

「何の用ってこともありません、ただの野暮用ですよ。わざわざこんな時間に電話しなくても、いつでも済ませられる用事ですよ。」

「それじゃあ、なんでわざわざこんな時間に電話なんかかけてきたんだ?」

「さあ。なんとなく今電話したいと思ったんですよ。虫の知らせってやつですかね?別に好き好んでおじさんのくたびれた声を聴いてるわけじゃありませんよ。」

とりあえず最後の一言は大人らしくスルーして。俺は虫の知らせという言葉が気になった。
さっき言った通りこいつはいわゆるそういう物や現象とひかれあう体質で、虫の知らせというのもあながち馬鹿にできない。どうやらその体質は今も健在らしいと知り、俺は一層期待を膨らませた。

「何かあったんじゃないですか?叔父さん。むしろ用事があるのはあなたのほうだと思っているんですけど。」

 自分の体質についてこいつ自身もある程度自覚があるらしかった。虫の知らせは今回が初めてではないのかもしれない。

「まあ、当たりだよ。ちょうどお前の知恵を借りたい状況なんだ。」 

俺は昨夜からの体験を一通り説明した。

「無視して生活できるほど小さな足音でもないんだ。」

「か細いんですね神経が。」

とりあえず、こいつには一度どこかでしっかり説教をしなければなるまい。子供向けではない、大人が大人を叱るときの愛なき説教を。社会で習得した数少ない技術のうちの一つをいつか存分に味わわせてやろうと俺は心に決めつつ、ひとまず話をつづけた。

「なんでもいいんだ。何かわからないか?」

「うーん、そうですねえ。」

あまり興味をそそられなかったようで、つまらなそうな口調だったが、彼は話を始めた。

「おじさんはきっと影をみているんですよ」

「・・・影?」

「ええ。ちなみに言うまでもなく叔父さん自身の影ですよ。だから多分その足音だって、おじさんの普段の生活音だと思います。」

言っている意味が全く分からない。俺の知っている影というものは黒一色で、平面で、音も出さない、今も部屋の明かりに照らされる俺の足元から床へ壁へと伸びているこれのことだ。昨日は靴も今日は足音も、どう考えても影とはかけ離れている。

「飲み込めないのも無理はないですがね。」

俺の反応を察してか、彼はそういって解説を始めた。やはり面倒くさそうに。

「影っていうのは要するに、光が遮られた痕跡なわけです。影が地面に映るんじゃなくて、何も映し出されなかった場所こそが影になるんですよ。つまり影の正体というのは、遮られ、照らし出されないという『現象』の方にあるわけです。」

「・・・まあ、なんとなく意味はわかったが。だが俺が知りたいのは影とは何かとかじゃなくて、どうしてその影が靴やら足音やらに化けるのかってところなんだよ。」

「・・・」

俺が文句を言うと、彼は少し間をおいてから、さっきまでと変わってあからさまに不愉快そうな態度で答えた。

「そんなことはわかってますよ。それを話す上で大事なところだからわざわざ説明しているんでしょう?叔父さんのために一からね。」

ご機嫌を損ねてしまったらしい。およそ十七になる高校生がすることではない。しかし背に腹は代えられない。このままでは話が進まない上に今は教わる立場な以上、俺は仕方なく下手にでることにした。

「悪かった。わかってる。ありがたいよ。でも俺は不安なんだ。怖いんだ。そりゃあ知識も経験もあるお前からしたら焦るようなことじゃないかもしれないが、俺はまるで素人なんだ。早く安心したくてつい先を急いじまっても仕方ないだろ?口を挟んだのはわるかった。何が起きてるのか続きを話してくれよ。頼む。」

「いいでしょう。高校生相手に迷わず遜るその素直さに免じて許してあげます。」

意外と寛容で助かった。単純というべきかもしれないが。

「つまり何が言いたいかというと、影というのは何も光によってのみ生まれるものではないということです。照らすものと遮るものが揃えば自然と影はそこに生まれるんです。それが光ならば黒く姿が写りますが、光でないのなら写り方も当然変わります。」

「それが靴であり足音だと。」

「そのとおりです。」

「なるほどなぁ。」

一応理解はできたが、話が唐突すぎてどうにも現実味がなかった。
実際に起きてる以上認めるほかないが、やはりフィクションにしか聞こえない。

しかし他ならぬ自分自身が証人では言い訳ができなかった。恐らくこいつの話は正しいのだろう。
逃げないと決めたのだ。現実は現実として認め、現状を脱する術を探さなくてはならない。俺は改めて腹をくくり、話を進めた。

「・・・分かった。信じるよその話。」

「意外とすんなり納得しますね。」

「納得なんかできちゃいない。ただ身の安全の方が大事ってだけだ。」

「別に身の危険はないんじゃないですか?ただの影なんですから、意思はありませんし、触ることもできませんよ。」

「睡眠の妨げは立派な危機だよ。とにかく足音が影だってことはわかった。それでこの影を消すために俺はどうすればいいんだ?」

「さあ、知りません。」

「・・・知らないのか。」

「はい。」

「影のことは知っているんだろ?」

「変わった影が現れたという話を知っているだけですよ。消し方までは知りません。ご自分で考えるしかありませんね。」

一緒に考えるなどという発想が、こいつにあろうはずもなかった。

「考えるたって、俺はお前以上に何も知らないんだ。上手い方法が考え付くと思うか?」

「僕だって同じですよ。今話したこと以外は、大したことは知りません。むしろ実際に目の当たりにしている叔父さんの方が可能性はあると思いますよ?」

「そういうもんなのか」

「そういうもんです。」

助言を出し惜しみするタイプではない。おそらく本当にこれ以上の情報はないのだろう。

解決こそしなかったものの状況は進展したのだし、彼には深く感謝するべきだろう。
しかし、これ以上話しても得るものがないとわかってしまったら、一刻も早くこいつと会話から解放されたくなってきた。

「わかったよ、そういうことなら仕方ない。後は自分で何とかしてみるよ。悪かったな、いろいろ助言してもらっちまって。」

「ええ。存分に感謝してください。」

「・・・ありがとな。」

 どういたしましてを待たずに俺は電話を切った。切ってから気づいたが、向こうの用件について全く忘れてしまっていた。
どんな用件だったのか気にはなったが、もう一度電話する気力は残っていなかった。そんな気力があるのなら、この後の影退治のため温存しておかなくてはならなかったからだ。

 しかしその後、宣言通りに単身で影退治に挑んだ俺は己の素人度合いを痛感させられた。ベタに塩をまいたり、影ならばと部屋の明かりを消してみたり、瑞嶋に見せれば冷笑を買うだろう奮闘も空しく、午後零時を回っても影は元気に歩き回っていた。

考えられることは全て試したが、手応えはなかった。この時点でひどくやる気を削がれていた俺は、一時休戦のつもりでベットに寝転がった。
そしてに休憩がてらに視点を変えて、影を消す方法でなく、影がなぜ現れたのかについて少し考えてみた。

そもそも俺は、つい一昨日まで何の変哲もない平和な日常を送っていたはずだった。幸せだったかどうかはともかく平和ではあった。

そう一昨日だ。一昨日に何かあったことはまず間違いがない。そう思って俺は一昨日の家を出てから帰ってくるまでの記憶をたどることにした。

そして、思い出そうとして初めて、憶えていることなどほとんどないことに気づいた。それは何も一昨日のことばかりではない。一昨日より前、昨日もことでさえ断片的な記憶しかない。
それも昼に何を食べたとか、誰と会ったとかそれくらいをぼんやりと憶えているだけで、それだっていつ、どこかまではわからなかった。

記憶喪失などではない。確実に日常を重ねてきたという実感はあった。実感だけがあり具体的な記憶が伴っていなかったのだ。

必死に生きてきたはずだった。長く感じたはずだったのに。休まずに息を切らせて歩いてきた道のりに俺は見覚えがなかった。
前も後ろも知らない道で、どこへ行きたかったかも忘れた。ながら見で見たテレビのように、俺はこの数年を、いつの間にか、知らぬ間に過ごしてしまっていたことに、この時初めて気づいた。


これが今回の影と関係あるのかどうかはわからなかったが、それとは関係なく、ため息がでた。

いったい俺は何をしてきたのだろうと思った。もう二十数年も生きてきて、人生の短さぐらい学んでいるだろうに。
今生きている時間の貴重さなんて少し考えればわかることなのに。いつの間にか無駄にしたこの数年には一体どれほどの価値があっただろうか。

俺はそれを捨ててしまった。いや、捨てたことにも気づかなかった。何も考えていなかったのだ。足元ばかり見て、転ばないことに気を取られ、周りの景色もすれ違う人々にも目を向けてこなかったということだ。仕事に、自分の人生にどれほど興味がなかったというのか。自分がこの世で一番の馬鹿に思えた。

作戦を練るつもりが、俺はすっかり戦意を喪失してしまった。そしてベッドに倒れたまま、どうしようもなくうなだれている内に俺はそのまま寝入ってしまった。

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