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『ぼく自身のための広告』

古書店をはじめて一ヶ月たった。たったひと月で、うれしいことに、おかげ様でぽつりぽつりと売れている。
正直、充分満足している。当初、一冊も売れなんんじゃないかと思っていたくらいだから。
そもそも現代において本を読む行為というのは成立するのだろうか。通勤電車の車内ではほぼ九割の人がスマホを見ている。まれに学生の方が参考書を広げているのを見るくらいだ。家に帰っても、スマホは手放せないだろう。ようやく、就寝の時間になってベットに愛読書を持ち込むものの疲れからか最初の一行目でダウンという方がおおいのではないだろうか。

だがだ、それでも、紙の本はしぶとく生き残っている。なんらかの形で読まれ続けている。そう、このぽつりぽつりの大事なお客様の存在こそがその明確たる証である。

古書、その古さは新しさを秘めている。私も長い間、そのことに気づかなかったが知れば知るほどその事実を知ることとなる。リチャード・ブローティガンの小説には詩情のなかに奇妙さと軽妙さ心地よい浮遊感を秘めている。何かヘンだなと思いながらもその世界に知らず知らず惹きこまれていく。そして、しばし、浮世を忘れることができる。これを村上作品を愛する我が国民がリスペクトしないはずがないと思うのは私の単なる思い上がりだろうか。さらに読み込んでみれば、なぜか、どうしてか、この感覚は、ボブ・ディランやザ・バンドの詩的感覚、呼吸を思い起こさせたりもするのだ。それもそのはず、村上春樹が登場する以前、日本ではブローティガンという作家はこれらの感覚が分かる人々によって新作を待ち望むほどの堂々たる人気作家だったのだ。

ノーマン・メイラーの評論ともエッセイとも小説ともつかぬ作品群は、今、読んでもチンプンカンプンだが、嗚呼、この感覚、手法を持ってして、現在、才能ある誰かが何かを書いたら面白いものが出来上がるだろうという大いなる可能性を秘めている。

日本の小説に目を向ければ、山田風太郎の忍法帖ものに出てくる若い忍者が暗躍する非情たる世界、使命に疑いを抱き人間的に深く悩むということにおいて、現代の会社組織のなかで生きる残ることと同じ悲哀を重ね合わせずにいられない。この小説が書かれた当時以上にそれと同じ思いはさらに加速しているはずだ。
宇能鴻一郎の官能小説の文体は、それこそ、今のSNS的感覚を重なる何かを感じずにはいられない。もし、センスある文系の才女がこの文体から影響を受けて何かを書いたら、きっと文芸界のadoのような存在になること間違いない。

1960年代の米雑誌「PLAYBOY」の広告のデザインのなんと素晴らしいことか。あのミッシェル・ルグラン「ルグラン・イン・リオ」リオの浜辺で戯れる男女の世界を彷彿されるような。
デザインはともかくとして、この印刷の感じはこの現代、再現出来るのだろうか。今、あるピカピカ・テカテカの印刷物より、むしろ、落ち着きと洗練、センスを感じてしまうのは私だけか。むしろ、求められる新しい時代の感覚って、若い人にとって未知のこの古さなのではなかろうか。まさに、故きを温ねて新しきを知るである。
米雑誌「PLAYBOY」はそのような広告が、延々と続くのだ。もちろん、著名人のインタビュー等、単なるお色気雑誌でないことの明確たる事実。村上春樹の言葉を借りるなるば、そうそれは”知的な雑誌”だ。


ジャン・リュック・ゴダールの特集を組んだ仏の映画雑誌の素晴らしきことよ。確かにフランス語だ。だが、ここは、あえて読まなくていいのだ。その紙に刷り込まれたフランス語のレタリングの並びに心動かせられ、ゴダールの映画スティールの美しさに共感できればそれで充分な価値を生む。貴殿のインテリア、ルーム・チェアにそれら雑誌をさりげなくおいてみれば雑誌を超えた調度品としてさらに輝きをますことになる。

そう、これら古書、古雑誌には、その古さのなかには現代が忘れている新しさを秘めている。故きを温ねて新しきを知る。もしかしたら、その新しさは現代があえて求めている新しいかたちなのかも知れない。

そして、ふと思うことがある。
植草甚一が現代に生きていたら、今もなお、新しきものを追い求めているであろうか・・・。と、いうことだ。

そう、黒人文化に深い造詣をもっていた植草甚一であるから、当然、植草さんはヒップホップも聴いたことだろう。そして、あのニューヨークの街並みを独特のセンスで写真を撮り、街、時を切り取ったように、きっとインスタグラムもやられていたに違いないと思うのだ。だが、もしかしたら、植草さんはこんなことを言うような気がしてならないのだ・・・。

「最近は、新しい映画や雑誌を読んでもどうもピンとこないんです。このところは、古い映画、ゴダールやカサベティス、吉田吉重の映画なんか観返してます。なにか、現代が求めているような新しさがあるような気がするんです。古い雑誌、捨てなきゃよかったかしらん・・・。」

世の片隅で、埃をかぶっているこれら可能性を秘めた古書たち、その汚れをきれいに拭きとりピカピカにして、現代の俎上、SNSにのせる。一冊づつ丁寧にキャプションを書いて・・・。これが商売にならないだろうかというのが、ぼくの浅はかな思いのはじまりである。
だが、こうしてぽつりぽつりと売れている以上、それは間違っていなかったと思いたい。

そう、もちろん、これはまだ始まったばかりだ。


正直書けば、今、本当に必要としているのはPCついて初歩的でもいいので知識がある人、古書についてアドバイスをしてくれる人がそばにいてくれればどんなに助かることか。

もしかしたら、共感して下さる方がいらっしゃるかも知れないという思いから。店のサイトのリンク先を貼っておきたいと思います。
古書ベリッシマ (stores.jp)

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