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どうしても食べたい卵かけご飯

 夜更かしがたたって遅い朝を迎えた。陽光に照らされたカーテンは昼間のように明るい。枕元に置いた時計代わりのスマホを見ると昼に近い午前11時5分。それでいて食欲はあまりない。深酒が過ぎたようだ。
 このような時に決まって食べるものがある。梅茶漬けもいいのだが少し物足りない。
 考えるよりも先に行動に移す。布団を抜け出し、床にうずくまっていたドテラを羽織って階段を下りる。
 1階に着くと薄暗い廊下の左端に目をやる。30キロ入りの玄米の紙袋の奥にビールケースが置いてある。主役のビールは入れておらず、ワインや日本酒の瓶が収められていた。その上にあるはずの紙の卵ケースが無くなっていた。
 私は居間に入ると右手の窓を開けた。駐車場に車がなかった。どうやら卵が尽きたことに気づいた老齢の母が養鶏場に買いに出かけたらしい。
 待つこと数分で母が車で帰宅。読みが当たり、家の外から私を呼ぶ声が聞こえてきた。
「卵運ぶの手伝って」
「わかった」
 声を張り上げて外に出ると、助手席のドアが開いていた。床に卵ケースが置かれていて、その量に目を見張る。卵ケースが2段になっていた。
「何個、買ったんだ?」
「60個だけど」
「多すぎないか?」
「大丈夫よ。うちの分は40個だから」
 20個はプレゼント用で卵ケースごと渡すという。そこで私は40個を家の中に運び入れた。母はそのまま知人の家に車で向かった。
 所定のビールケースの上に卵ケースを置いた。今日、産み立ての卵はスーパーのようにサイズが揃っていない。私は大きめの卵を手にしてキッチンにおもむく。
 食卓の端に鍋敷きはあるが肝心の土鍋がない。嫌な予感がしてシンクをのぞくと定位置とばかりに置かれていた。側には茶碗と箸がある。母の朝食で無くなったのだろう。冷蔵庫に一縷いちるの望みをかけたが冷や飯は入っていなかった。
 他にも食べる物はある。うどんや蕎麦の乾麺の備蓄を怠っていない。カップラーメンは熱湯を注ぐだけで5分と経たずに食べられる。
 卵かけご飯は夕飯に回せばいい、とはならない。猛烈な欲求に突き動かされて土鍋を洗った。2合の玄米を7分づきで精米して米を研ぎ、手早く仕掛ける。通常であれば水に40分は浸すのだが待てそうにない。25分で炊き始めた。
 帰ってきた母は、なにしてんの? という顔で私を見やる。その視線に気付いていながら土鍋に集中した。蓋に空いた穴を見つめては耳を近づける。薄い湯気と内部の呟きのようなものが聞こえ、瞬時に弱火へ変えた。僅かに吹き零れる加減が程よく、湯気が薄まるのを待つ。焦げないように鼻で匂いを確認して14分程で火を止めた。
 さすがに蒸らしの時間を削ることはできない。歯軋りしそうな20分を過ごし、土鍋の蓋を開けた。ふっくらと炊き上がったご飯の表面に多くのカニ穴が見られた。シャモジで手早く引っ繰り返して混ぜ込む。一度、蓋をして食器棚から茶碗と竹の箸を取り出した。
「卵かけご飯ね」
 納得した母の声に、そう、と一言で済ませて茶碗に適当な量のご飯をよそう。自分の席に着いてご飯の中央に箸で穴を作る。卵は横向きにして食卓に軽く打ち付けた。円形のヒビが入ったところに親指を差し込み、からが混入しないように両手で慎重に割った。
 白身をまとった黄身が落ちる。白身の弾力で黄身が穴から押し出された。盛り上がった状態を眺めているだけで喉が勝手に鳴った。すぐさま上からシンプルに醤油をかける。艶やかな表面を滑って隅に押し流された。
 もう、待てない。箸で黄身を突き刺す。その程度では崩れない。乱暴に掻き混ぜた。匂い立つ醤油と卵を胸いっぱいに吸い込み、ひたすら掻っ込む。

 震えるような感動に言葉を忘れた。食卓に置かれた茶碗には一粒の米飯べいはんも残されていない。満ち足りた思いで一言、美味かった~、と吐き出すように口にする。
 鼻腔びこうに卵かけご飯の味が微かに香った。
 

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