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『家族ダンジョン』第19話 第十八階層 大海原

 降りる階段は普通で特段に長い作りにはなっていない。一行は数分も掛からず、新しい階層に到着した。
 通路を原生林に囲まれた。突き出た細長い葉を茜が触る。
「本物っぽい」
「それより前を見てよー」
 冨子の声に全員が従う。ゲートのような物で仕切られた先が青い。目測で二十歩の範囲を遥かに超えていた。
「ここはチュトリアのような街なのか?」
 直道は衝撃で止まっていた足を動かす。
 横手にいたハムは下草の匂いを嗅いだ。
「この植物の臭いは嗅いだことがないぞ」
 用心とは別の興味で一行は足早に先へと向かう。
 木製の柵の中央は一メートルくらいの間隔で開いていた。誰かに制止を求められた訳ではない。三人は同時に足を止めた。
 柵の向こうには輝くような白い砂浜が見える。打ち寄せては引き返す波音がはっきりと耳に聞こえた。
 蒼穹そうきゅうの空の下、大海原が広がっていた。
 真円に近い目で茜がぽつりと口にする。
「ウソみたい」
「ダンジョンの中に異世界があるみたいだねー」
 冨子は大きな伸びをして言った。
「いらっしゃい」
 しゃがれ声は横手から聞こえた。目にした瞬間、全員に緊張が走る。
 禿頭とくとうの老人は気に掛けない。ひょこひょこと歩いて柵の中央に立ち、一行を穏やかな顔で見つめた。足元には白い子犬がいて、お座りの姿で制止した。
「あのー、上の階でお会いましたよねぇ?」
 冨子が微妙な笑顔で問い掛ける。老人は艶やかな頭を撫で回し、ああ、と何かを思い出したように言った。
「それは商人の五郎ですな。ワシ、いや私は四郎で海の管理人をしております」
「爺、びっくりさせるなよ。また子犬に襲われるかと思ったぞ」
「はい?」
 冨子は即座にハムの正面に立った。目を見開いた状態で腰を屈めて、なーに、とあどけない声を出した。
「ハムちゃん、子犬が怖いの」
「そうよねー。前に吠えられたからねー。それから子犬が怖くなったのよねー」
 凍てつく眼に晒されたハムは、怖い、と再び震える声で言った。
「そうでしたか。こいつは大人しい性格で他人様に吠えることはありませんよ。安心してください。早速ですが入場料と水着使用料でお一人様、金貨一枚を頂きます」
「え、お金取るの?」
 茜の声に老人は、はい、と微笑んで答えた。
「こちらも商売でして。良心価格だと思いますよ。どうします?」
 子犬を一瞥いちべつした直道が老人に尋ねた。
「降りる階段があると思うのだが、ご存じか」
「海を越えた先にありますよ。その為の水着になります」
「考える余地はないようだ」
 直道は冨子を見た。渋々と言った態度でエプロンのポケットから皮袋を取り出し、人数分の金貨を支払った。
「お亡くなりになりましたー」
 皮袋を引っ繰り返してぷらぷらと振って見せる。
「仕方がない。ところでハムの料金は」
「そちらはサービスさせて頂きます。人ではない上に元々が裸なので」
「俺様の肉体美を隠すような衣服は必要ないのだ」
 ハムは砂浜に足跡を残し、颯爽と海に向かう。
 他の三人は老人に案内された個室の更衣室で水着に着替えた。
「直道さん、どうかしら」
「似合っているとは思う」
 トランクスの直道は早々と目が泳いだ。冨子は黒のチューブトップを選んだ。胸の先端は隠れているものの、上と下の白い肉は微妙にみ出ていた。下半身は際どく、煽情的な魅力に溢れている。
 茜はワンピースタイプの水着姿でほっとした。
「……無理しなくて良かった」
 目のやり場に困っていた直道は老人に言った。
「脱いだ衣服はどうするつもりだ?」
「ここに置いていくわけにはいかないしー、もしかしてワンちゃんが変身して泳いで運んでくれるとか?」
「いえいえ、そのようなことはできませんよ。ただの子犬です」
 老人の言葉に冨子の糸目が僅かに開いた。
「本当に?」
「はい、その代わりとして荷物持ちを呼びます」
 老人は親指と人差し指を輪にした状態で口に咥える。胸を大きく膨らませると鋭い笛のような音を立てた。
 海の彼方から巨大な翼竜が飛来した。白い砂塵を巻き上げて着陸すると老人を首に乗せた。
「私が衣類や小物を丁重に運びます。皆様は海を堪能して対岸までお越しください。それではお先に失礼します」
 翼竜は大空に向けて吠えた。一回の羽ばたきで宙を飛び、優雅な羽ばたきで見えなくなった。
 冨子は糸目に戻って息を吐いた。
「金貨を取り戻そうとしなくて正解でしたー」
「あのねぇ、本当にやめてよね」
「ここでは常識が危ういな」
 三人は言いながら砂浜を渡り、海へと入った。自然に笑みが零れ、各々が頭から飛び込んでいった。
 楽しい海水浴の時間は過ぎ去った。過酷な遠泳に変わる。
 茜は平泳ぎで前を見た。
「対岸が見えて来ないんだけど」
「腕がだるいー」
 冨子は仰向けとなってバタ足を続けた。
「ハムの姿が見えないが、まさか到達したのか」
 クロールを中断して直道は立ち泳ぎで見回す。
「あるかもねー。体力は底なしみたいだからー」
「それならハムに引っ張って貰えばよかったんじゃないの」
 茜は腹立ち紛れに海面を叩いた。飛び散る飛沫が真珠の輝きを放つ。
「俺様を呼んだか?」
 すぐ近くの声に茜が声を荒げた。
「いるならいるって言いなさいよ!」
「それが人にものを頼む態度なのか」
 ハムは突き出した鼻の穴から海水を空に向かって噴き出す。茜は頭から被り、ずぶ濡れとなった。
「わ、悪かったって! ハムちゃん、お願いしますっ! 私達を向こう岸まで連れていってください」
「お安い御用だ」
 ハムは対岸に背を向ける。
「あのー、ハムちゃん。向きが違うんだけどー」
 冨子の声にハムは口の端で笑った。
「俺様の独自の泳法だ。心配しないで後ろにしがみ付くがよいぞ。直道も遠慮するな」
「私が先で次は」
「もちろん私に決まってるでしょー」
 冨子は直道の背中に胸を押し付けた。茜は顔の海水を拭って母親の腰に手を回す。
「あーん、もっと優しくー」
「ヘンな声を出さないでよ!」
「用意はいいな。では、俺様の泳法に見惚れるがいい!」
 ハムはガブガブと海水を呑み出した。取り込んだ物を鼻の穴から猛烈な勢いで噴き出す。無限の推進力を得て一行は海を裂いて驀進ばくしんした。
 凄まじい風と海水を背中に受けた茜は声の限りに叫んだ。
「全然、泳いでないじゃない! どこが泳法なのよォォォ!」
「俺様の超絶泳法に胸を焦がすがいいぜェェェ!」
 その勢いはとどまることを知らず、砂浜まで突っ込んだ。全員が尻に焼けるような痛みを覚えてようやく止まった。
 そこに老人がにこやかに声を掛ける。
「大いに楽しまれたようで何よりです。着替えはあちらになります」
「お尻が焦げたかもー」
 冨子は食い込む水着を指で戻して立ち上がる。他も似たような状況で尻を摩った。
「俺様に感謝するがよいぞ」
 ハムの物言いに三人は凄みのある笑みを浮かべた。


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