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口裂け女は今日も憂鬱

 西日が窓から入り込む。六畳のワンルームがほんのりと色付いた。
 長い黒髪の女性は窓辺近くで項垂れている。横座りのまま、三十分の時が過ぎようとしていた。
「……出かけようかな」
 その声には覇気がない。色褪せた畳の上を手が這うようにして伸びる。白いマスクを掴むと大きな溜息が漏れた。また動きが止まる。
 夕闇が迫る頃、女性は勢いよく頭を上げた。長い髪を払い除けると清楚な顔が現れた。まつげは長く綺麗な二重瞼。すっきりとした鼻筋には品があった。ただし口角は切れ上がっていた。口を閉じた状態で奥歯が見える。
「気が進まないけど……」
 口裂け女は愛用している白いマスクを装着した。部屋着から夏に相応しい白いノースリーブワンピースに着替えた。身だしなみを手早く整えると重々しい足取りで出かけていった。

 口裂け女は通りを歩いて繁華街に向かう。
 脇道から腰の曲がった初老の男性が現れた。マスクを着けた状態で苦しそうな息をしている。少し歩く速度を落として見ていると男性は立ち止まった。軽く咳をして民家の塀に寄り掛かる。
 口裂け女は目を伏せた状態で足を速めた。
 左手に小さな公園が見えてきた。走り回る小さな子供達のくぐもった声が聞こえる。全員がマスクを装着していた。大量の汗を掻いても決してマスクを外そうとはしなかった。
 周囲から民家が消えた。逆に店舗が多くなる。
 口裂け女はマスクを着けた状態で溜息を吐いた。
 繁華街にしては人通りが少ない。半数近い店がシャッターを下ろしていた。見掛ける人々は迷うような足取りで頻繁に立ち止まる。スマートフォンの画面を不機嫌な顔で眺めると速足で行き先を変えた。
 声を掛けようにも選ぶ程の人がいない。口裂け女は一人の若々しい男性に目を向けた。上下のスーツを着てせかせかと歩いている。
 口裂け女は小走りで追い掛けた。
「わたし綺麗?」
 男性の背に向かって言うと足を止めた。後ろを振り返ると怪訝けげんな顔になった。
「マスクを着けた状態でわかると思うのか?」
「もう少し近づけばわかると思いますが」
「待て。その厚みのあるマスクは布製ではないのか?」
「たぶん、そうだと思いますけど」
 戸惑う口裂け女に厳しい声が飛ぶ。
不織布ふしょくふでないのなら、それ以上、近づくな」
「……わたし綺麗?」
「何度、言わせるつもりだ。マスクを着けた状態でわかる訳がないだろう」
「そう、ですよね」
 口裂け女は泣きそうな目で笑った。手順を省くことになるが仕方ないと、半ば諦めの境地で自らマスクを外そうとした。
 男性は怒りの表情を露にして怒鳴り付ける。
「非常識にも程があるぞ! お前のようなヤツを相手にしている暇はない!」
「あ、あの、ちょっと」
 引き留める間もなかった。男性は肩を怒らせて歩き去った。
 口裂け女は俯いた状態で立ち尽くす。
「こんな日も、あるよね……」
 力ない言葉で自身を励まし、見つけた薄暗い路地をとぼとぼと歩く。
 通りに出た瞬間、俯き加減の頭を上げた。道路を隔てたところに名の通った学習塾があった。眩しい程の光を放ち、周囲を白く照らしている。道路際には黒塗りの高級車が縦列駐車をして我が子の帰りを待っている。中には徒歩で帰る者もいた。
「……あの子なら」
 口裂け女は足を速めた。横断歩道を渡って男の子を待ち受ける。細い歩道の真ん中にいる為、声を掛けずに足を止めさせることに成功した。
 男の子は掛けていた眼鏡の中央を人差し指で軽く押し上げる。
「ぼくに用事ですか?」
 冷静に言いながら二メートル以上の距離を取る。
「わたし綺麗?」
「見える部分で推測すると綺麗だと思います」
 口裂け女はにんまりと笑ってマスクを外した。
「これでも?」
 男の子は薄目となった。
「口が大きいみたいですが、よくわかりません。ぼくはかなり目が悪いので」
「それなら」
「近づかないでください。それと立ち話は五分以内と決めているので」
 男の子は軽く頭を下げた。口裂け女に背中を向ける姿勢でガードレールすれすれを通り抜ける。その後は一度として振り返ることはなく真っすぐに歩いていった。
 口裂け女は外したマスクを元に戻した。弱々しい笑みで何度も頷く。
「そう、今はね。緊急事態だし」
 十分に言い聞かせたあと、思い切って繁華街の中心部に向かう。
 若者の姿が多く見られた。一杯引っかけた後なのか。大きな声で喋りながら歩く者達もいた。
 口裂け女はそれとなく周囲の様子を窺う。出会う全ての人々がマスクを着用。最低限の常識を備えていた。
「もう、怒られたくないのに……」
 情けない声が漏れる。
 その時、目にした。驚きで口裂け女の目が丸くなる。
 金髪に近い茶髪の若者が一人で歩いている。鼻と口を露出させて平然とした態度でいた。
 口裂け女の表情が一変した。非常識な相手ならば近づいてマスクを外せる。その心情が駄々漏れになった笑顔で駆け寄った。
「わたし綺麗?」
「いきなり近づくなよ」
 若者は顎にあったマスクを素早く上げる。瞬く間に鼻と口は塞がった。
「で、なによ?」
「……なんでもないです。人違いでした」
「めんどくせぇな」
 睨みながら通り過ぎた。離れた途端、若者はマスクを下ろして顎に引っ掛ける。
 口裂け女は恨めしそうな目で見ていた。
「……なんなのよ」
 若干、涙声になっていた。口裂け女は肩を落として来た道を戻っていく。
 最初は気にならなかった温かい光に目が引き寄せられた。小ぢんまりとしたスーパーを見て、なんとなく足を運んだ。
 中に入って奥を見る。店員の一人に睨まれた。横手にある簡易テーブルの上にはポンプ式の消毒液が置いてあった。
 口裂け女は目で笑い、俯き加減で手の消毒を済ませた。買い物カゴを持つと改めて奥へと向かった。
 真っ先に手が伸びたのは酒だった。アルコール度数の高い缶チューハイを選び、八本をカゴに収めた。おつまみのナッツ類を入れてレジに急ぐ。
 そこには見慣れない機械が置いてあった。液晶画面があって精算機の文字が見て取れる。
「え、これ?」
 恐る恐る前に立つと画面に操作方法が表示された。読んでいると後ろに列ができた。苛々した人々が口裂け女に非難の目を向ける。
 近くにいた店員が足早にやってきた。怒ったような口調で説明の言葉を浴びせて清算を済ませる。
「あの、ありがとうございました」
 店員は目礼で会話を終わらせた。別の客に呼ばれると大股で歩いていった。
「早くしてよ」
 列の先頭にいた中年女性が苛立たし気に言った。
「ごめんなさい……」
 口裂け女は追われるようにして店を飛び出していった。

 街灯が夜道を仄白ほのじろく照らし出す。その中を口裂け女は猛然と歩く。買い物袋が激しく揺れた。
「今日は飲んでやる!」
 目に涙を溜めて叫ぶ三十路の口裂け女であった。

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