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ちひろさんと珈琲屋の店主

昨日は近くのネットカフェで「おお振り」の4~6巻と「ちひろさん」の6~7巻を読みました。おお振りは同居のパートナーの勧めでアニメを2期まで見終わり、マンガで2巡目を楽しんでいるところです。

野球の楽しみ方はいまいちわかっていなくて、プロ野球を見にいってもぼうっと芝のしましまを眺めてしまうくらいだから、キャッチャー心理も「なるほどわからん」なのだけども、よくできたマンガです。もはやノンフィクションです。
野球部員1人1人がコマの中で生きていて観察しがいがあります。そして今のところ、マンガに忠実なアニメだなあと思います。
手書きの小さなセリフまで声優さんの声がちゃんと当てられている。
アニメを見て違和感を抱いた「パブロフの犬」はマンガには登場しない。
おいしいプロテイン争奪戦はアニメにはない。
そういう不一致とか、陰にいる子がどんな表情をしているのかをつぶさに見ていくのが楽しいです。

「ちひろさん」は余白の多いマンガです。
社会人になってから何度も手に取ってきました。
きっかけは、新卒で入った会社の昼休み、隣のビルのネカフェでランチがてら読んだことです。その時なぜ目に止まったのか、棚を眺めてて表紙のシンプルな絵が好みだった気がします。

私がネカフェに行きまくっているかというとそうではなくて、年に2、3回くらい。なんとなく「ワルイこと」をしている気持ちがあるからあまりリラックスして入り浸れません。大体、悩んだ時に行きます。
マンガという作品を通して何かをインプットすることが、解決の糸口になるかもしれないという期待を込めて向かっています。

中でも、ちひろさんはヘビロテのマンガです。
中島みゆきの歌詞のように、読み応えがあります。読むたび、私のコンディションとか置かれた状況次第で、ぐさっと心に突き刺さるセリフがあって涙が出ます。
前に流し見したページのとあるセリフがいきなり、私の悩みに対して核心をついてきたりする。ちひろさんは変わっていないのだから、つくづく受け止める私自身が、変わりゆく存在なのだと思わされます。

そんなに巻数がないので多分とうに読み切っています。連載が終わっているのかどうかは知りません。ただ、以前読んだことがあっても、変わりゆく私のおかげで毎回新鮮な気持ちで読めます。昔はわからなかったことがわかるようになっていることに気づくし、今は前よりもちひろさんに共感することが増えました。

ちひろさんは、小さな弁当屋で働く女性です。彼女のもつ等身大の魅力(そしてエロティックな魅力)に、客や高校生、小学生のおチビまでが惹きつけられます。そしてちひろさんとの対話の中で、自分の人生について新たな発見をしていきます。それを読者も体験します。

「ちひろ」は源氏名です。風俗に身を置いていたときの名前で、小さい頃に憧れた女の人の名前を使っていて、本当の名前は綾だそうです。
読み始めた当初、例に漏れず私もちひろさんに憧れました。水商売の人、と蔑む輩もいる中で、凛とした佇まいで自分を大事に生きる姿。その内側から発するエネルギーに吸い寄せられました。
「ちひろさんはそうあれていいよね、私はそんなふうになれない。」
そう思って読んでいました。憧れは妬みでもあります。

今は、少し違う受け止め方をしています。私は綾さんが、ちひろと名乗ることで、彼女なりの「理想の自分」を作っているんだと理解しました。
先程「等身大の魅力」と書きましたが、決して元から彼女はああでなかった。小さい頃一方的に憧れたあの”ちひろ”と名乗った女性の背中を思い出して「”ちひろ”さんならこんな時どうする?」それを1つ1つ体現して見せているのが今のちひろさんじゃないだろうか、と思っています。

ある日居酒屋で、"結婚しない女が日本をダメにする"という趣旨の暴言をぶつけてきた漁師に向かって行って、キスをして股間を握り一蹴したちひろさん。綾さんは、憧れの”ちひろ”さんを名乗ることで、周りの人がギョッとするようなこともした。・・という取ってつけた感は決してなく、生き方を真似していたらそのうちそれが本物になった。そういうふうに見えます。

ただ、これはどうも真似したわけじゃなさそう、というのが、ちひろさんが自分自身の感性をとても大事にしているところです。感性に従って生きている。それは元々持っていた部分じゃないでしょうか、私はその部分に非常に憧れを持っています。

私にとって、自分の感性の赴くままに発言したり行動することは難しい。
この点では、ちひろさんは憧れの”ちひろ”さんと最初から近しいポジションにいたんだと思います。

私は、たまに出てくる心細そうな小学生の女の子に似ています。「子供は子供らしくいていいのよ」とちひろさんに言われた彼女がわかったようなわかってないような顔をするのを見ると、ああ、あなたは私だよ、と思います。

そしてちひろさんにも共感します。小さい頃母に手を繋いでもらうことがほぼなかったちひろさんは、弁当屋の奥さんである盲目の女性を「母」と呼び(珍しく)慕うのですが、その母に車の中で抱きしめられて温かさに包まれるちひろさんの感想が、そのままに私も味わったことのあるものでした。私もその瞬間を思い起こして涙が出ました。
体が大人になっても、母と子の関係は変わらないはずです。子供の時十分に甘えられなかったことが、大人になってもそのままの寂しさで残っているものです。

そんなちひろさんを読んだ昨日は、最小限の明かりをつけたキッチンでじっくり時間をかけて料理をしました。自分の感性を大事にすることに重きを置きました。そして食べ過ぎたカロリーが体の中でパンパンになっているので、今日はコーヒーを飲みに歩きました。

1軒目の雰囲気を見て入るのをやめ、2軒目はまだ開店しておらず、歩き続けて見つけた3軒目。ジャズとコーヒーとなんちゃらのお店。
古い看板が出た外観は若者が入るには少し勇気を要するものでしたが、中は本当に落ち着く場所でした。つぎはぎのあたたかい照明、カウンターの薄暗さ、木の椅子と机、ささやかで中音の効いたジャズ、そして何より店主のもつ空気。

彼女はちひろさんのような側面がありました。相手がどんな人であろうと自分らしさを忘れない、そこにある確かな存在。
選り好みせず、子供にも大人にも老人にもホームレスにも彼女らしさを持って接することができる強さ。
相手を見てどんなコミュニケーションを取ればいいかが直感的にわかっている、でも大袈裟なことはしない。口調もトーンも変わらない。
話すスピードや待ちの姿勢でバランスをとっている。嫌味も甘ったるさもない。清らかな水の流れにどんな人も身を任せられる。
ああ、これは戦略ではない、天然物だ。すごく惹かれる人でした。

私はこれまで、居心地のいい店というものを知りませんでした。なぜかいつも私が接客してあげている気になってきてしまう。間合いの取り方をこちらが考えている。お店にいる時は楽しい気がするのに、出るとはあっとため息がでる。でも、この人には全て預けられました。そういう点で、居心地がとても良かったです。

1時間半ほど、本を読んで退店しました。ため息が出ました。でもこれはいつものとは違う。ああ、私はああはなれないなという諦めと、憧れと嫉妬。

私は、人のことを部分的に真似することを繰り返して自分のものにしようと生きてきました。自分の感性を蔑ろにしてまで。そうして出来上がったのは、果たして自分と言えるでしょうか。まるでメタモンです。いつも自分を透明だと思っていました。
でもこうして書いているのは私、これは私らしさのはず。遠目に見ると嫌な感じがするけど、それが私らしさ。

私はちひろさんにもあの店主にもなれない。
そう思えると、ずいぶんほっとするものです。




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