小説の余韻を味わいに②村山たか女、その後
見出し画像:村山たか女による長野義言宛の文(金福寺蔵)
村山たか女(1809-1876)は、密偵として育ち、彦根藩13代藩主の井伊直弼を支えた女性でした。
彼女の生涯が書かれたおすすめの小説です↓
『奸婦にあらず』諸田玲子/著、2006年
前半記事はこちらをどうぞ↓
今回は小説の後半、たか女の後半生を追いました。
井伊直弼は彦根藩主となり、幕府の大老にまで上り詰めたが
32歳にして彦根藩の継嗣となった井伊直弼。幕府では大老職へと上り詰め、黒船来航から混迷きわまる幕政の舵取りに奮闘しました。
一方、村山たか女は京へ向かい、直弼に対抗する尊王攘夷派の動きを探り江戸へ知らせました。
この時点で幕政の懸案事項は二つ。日本の開国と次の将軍指名です。
直弼は幕府の権力を示して開国を押し進め、次の将軍は自らが推す徳川慶福(=14代将軍徳川家茂)を強行指名しました。
このために反幕府の動きが高まると、直弼は厳しい弾圧を行いました。
始まりは幕政に反対する大名への謹慎処分でしたが、ついには反対派の主要人物とされた14名が刑死や獄死、さらには公家の家臣や関係者の家族にも捕縛はおよび、総勢120名以上が処分されたのです(安政の大獄)。
「桜田門外の変」を機に、たか女自身も狙われる立場へ
しかし大老井伊直弼がどれほど幕政を牛耳っても、もはや反対派を抑えることは無理でした。
大獄の恨みを買った彼は、とうとう江戸城への登城中に尊攘派から襲撃され亡くなりました(桜田門外の変、1860年)。
桜田門外の変を機に、流れは一気に幕府衰退へと向かいます。
村山たか女は井伊の密偵として知られており、彼女もまた尊攘派から狙われる身となるのです。
彦根における井伊直弼、長野義言、村山たか女の立場は真逆に
直弼亡き後、彦根藩では「勤王派」が台頭していました。藩の方針は、直弼が目指した幕府中心政治から「天皇親政」へと転換していきます。
そして、直弼が大きな信頼を寄せていた家臣の長野義言(よしとき)も粛清されました。義言は罪人として捕えられ、その数日後に斬首となるのです(1862年)。
なんという手のひら返しでしょう。彦根藩による、前藩主の側近に下された冷酷な仕打ちでした。
しかしこれは、事態が急変した彦根藩が生き残るための最終結論のようにも見えてきます。
彦根城下、長野義言最期の場所を訪れた
長野義言の牢屋跡は、彦根城下の町並が残された一角にありました。義言の門人が安置したお地蔵様が祀られています。
村山たか女にとって、彦根は味方ではなくなった
ここまで読んで、私は小説の前半を思わずにはいられませんでした。
かつての井伊直弼、長野義言、村山たか女。三人は同志でした。彦根の天寧寺に集い、未来を思い、心を開いて語り合ったのです。
そして今。直弼は暗殺され、義言は刑死。もうこの世にはおりません。
生き残ったたか女にとっても、彦根はわが身を守ってくれる土地ではなくなっていました。
村山たか女、最後の試練。京都三条大橋
たか女は尊攘派から逃れ京に潜んでいましたが、とうとう捕えられてしまいます。
どうにか死罪は免れたものの、鴨川の三条大橋で「三日間の生晒し(いきさらし)」の刑となりました。寒さに凍える11月の三条河原で杭に縛られ、人々の前に晒されました。三日の後、奇跡的に生還することができたのです。
たか女終焉の地、金福寺で見られる遺品の数々
京都の金福寺は、村山たか女が晩年を過ごした場所です。
京都駅から銀閣寺方面の市バスに乗り、40分ほどで到着しました。
金福寺は、京都の町を眼下に見渡せる高台にあります。
三条河原から奇跡的に生還した彼女は、尼となり、金福寺で名を「妙寿」とあらためました。
ここで井伊直弼を弔い、同じようにして亡くなったわが息子を弔いながら、江戸から明治へと変わりゆく時代を生き続けたのです。
小説『奸婦にあらず』のラストシーン、金福寺の芭蕉庵です。
ここには、かつて俳人の松尾芭蕉(1644‐1694)が滞在しました。のちに芭蕉を敬慕する与謝蕪村(1716‐1784)によって庵が再興され、現在に残されています。
たか女ゆかりの品は必見
やはり必見は、村山たか女の遺品類です。
文や揮毫に見られる筆跡や、美しい刺しゅうなどを見ていると、彼女がさまざまな芸事や教養に通じた人であることが感じられました。
本当に彼女はここにいたのだ…と実感します。
村山たか女(1809-1876)。
彼女は多賀大社の密偵として生まれ育った宿命に向き合いながら、愛する者と我が志を信じ、波乱の時代を生き抜きました。
この人もまた「幕末の志士」の一人であるといえるでしょう。