明治期の大宮公園は、文豪たちが集う保養地だった。遺構を見に行く。
明治期の開設当初は「氷川公園」。「大宮公園」と呼ばれたのは戦後。
武蔵一宮と言われる氷川神社と、その奥に広がる緑地が大宮公園です。
さいたま市の大宮駅から徒歩10分、氷川神社の二の鳥居に着きました。
お正月は初詣。春は桜の名所。緑の濃い参道はとても美しい。
みんなの憩いの場所、氷川神社と大宮公園です。
隣の野球場では、夏の甲子園埼玉代表の決勝戦がおこなわれます。
氷川神社のご利益は、縁結びと家庭運と仕事運。
しかしここでの願い事はあらゆる方面、オールマイティな感じがする。大きくて頼もしい神社だから。
明治維新後、政府の欧化政策による公園開設
江戸時代の氷川神社はこんな感じでした。(画像をクリックして詳しく見られます)
大宮公園(氷川公園)開設の歴史
◯1873年(明治6) 明治政府は西欧諸国にならい、公園開設を始める。
埼玉では、岸村(現・さいたま市浦和区岸町、調神社、偕楽園)、成田町(現・行田市、旧忍城諏訪廓、成田公園)、与野町(現・さいたま市中央区本町、天祖神社、与野公園)を公園開設地とした。
◯1883(明治16) 上野〜熊谷間の鉄道開通
これを機に「大宮駅設置と氷川神社の公園開設請願活動」が始まる。
(旧氷川神社領は官有地となっていた)
◯1885(明治18) 3月大宮駅開設、9月氷川公園開設
◯1898(明治31) 県による公園管理となる
◯1948(昭和23)「埼玉県立大宮公園」となる
近代文学史の文豪たちがこぞって訪れました。
1885年(明治18)の大宮駅開設、公園内の割烹旅館の開店を契機に、埼玉の地元だけでなく東京からたくさんの人々が訪れました。
当時、上野・大宮間の所要時間は55分。
大宮と氷川公園は、東京から気軽に行ける保養地として人気になったのです。
樋口一葉も、1892年(明治25)に大宮を訪れています。
彼女の25年という短い生涯は、ほとんど東京から出ることがなく、生活と金策と執筆に明け暮れるものでした。その一葉さんでさえも、大宮には関心がありました。
当時のメディアがいかにここを声高く宣伝していたかがわかります。
正岡子規が試験勉強をしようと訪れたが、超快適なので、親友(夏目漱石)を呼び、ただの夏合宿になる。
だって。
最後の一文の『しかしこの時の試験もごまかして済んだ』。
ここに、彼の全てが現れていますね。
ほんと正岡子規みたいに、好きに力強く潔く生きられたらいいと思う。
頭脳明晰はもちろん羨ましいけれど、彼には、人を食ったような、憎めない、いい加減さがある。お国から(謎の)費用を受けて学問研究に取り組もうとしたが、大宮公園の自然と宿と美食に浸り、あっという間に浪費しちゃった。
こんないい場所は楽しまないと、と友を呼びつける。「漱石、来てよ!」
勉強はサボったけれど、俳句を詠むのはきっと弾んだと思われる。
寝ても覚めても、子規は俳句の人という感じがします。
子規は東京大学を中退後に記者となり文筆活動も行いますが、彼の書いた小説は、気負いすぎていまいちだったそうです。
それよりも、俳句の才能がきらめいていた。
彼の文芸は即興が魅力。音楽でいえばジャズっぽいのかもしれません。
子規が大宮の自然を楽しんだ『万松楼』跡地へ
大宮公園を作品に書いた文豪たち
明治期
正岡子規 、永井家風、国木田独歩、森鴎外、正宗白鳥
大正期
寺田寅彦、田山花袋
など
帰り道、歴史ある料亭前を通過
「一の家」は1885年(明治18年)、大宮駅と氷川公園の開設当初に創業しました。
現在は創業当時の場所から移転し、氷川参道沿いで営業されています。
一度、ゆっくりと食事をしてみたいお店です。
参考文献
『企画展 大宮公園と文学者たち』さいたま文学館、1999年
『墨汁一滴』正岡子規著
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