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山田風太郎『戦中派不戦日記』を読む

『戦中派不戦日記』は、昭和20年(1945)の1年間に記された山田風太郎(1922年-2001年)の日記です。山田風太郎は昭和30年代に書いた『忍法帖シリーズ』で忍法ブームを巻き起こし、『警視庁草紙』の明治シリーズなど、探偵や推理小説で異彩を放ちました。

山田風太郎は、20歳から日記をつけています。風太郎20歳の昭和17年から19年は『戦中派虫けら日記』、昭和20年は『戦中派不戦日記』、そして終戦後の昭和21年のものは『戦中派焼け跡日記』です。

山田風太郎(1922−2001)とは


山田風太郎は、兵庫県の出身です。旧制中学(5年制)卒業後、高校受験に失敗、2年間の浪人生活ののち昭和17年に上京します。

山田家は代々医者の家系でしたが、実の父は早くに亡くなりました。

叔父が開業していたものの、親族との仲が合わなかった風太郎は、家出同然で上京します。
そして品川の沖電気工場で働きながら、東京の医大受験を目指しました。

その間に軍からは召集令状がくるものの、患っていた肋膜炎により入隊不可となりました。その直後に受験した東京医学専門学校(現在の東京医科大学)に合格し、医学生となったのです。昭和19年4月、風太郎22歳のことでした。

そして日本は、太平洋戦争の終末期に突入します。彼の昭和20年の日記が『戦中派不戦日記』です。

なんと理不尽だろう。戦争なんて。『戦中派不戦日記』

1945年の戦況と社会的事件、筆者をとりまく環境、筆者の心情、見聞きする生活や人々の様子をまとめました。
(日記の日付は「3/10=昭和20年3月10日」として表しています)

1945年1月

⚪︎南方作戦不利
・連日の空襲警報
・銭湯でシャツを2枚盗まれる
・歌舞伎を観に行く
・歯痛
・発熱
・医学校では試験期間

・自分がもし遺書を書くなら『無葬式』。葬式は要らないと遺言する
・物を買う行列に割り込む人、中年女は憎いが、女学生を入れてやろうかとも思う
・銭湯が汚い
・空襲警報に慣れてきている
・人々はB29のことを『B公』空襲警報を『ポー助』などと呼ぶ
・目黒は貸本屋か配給店しか開いていない
・唐辛子を買うのに40人余行列

1945年 2月

⚪︎南方作戦不利 
・米国人についての講演聞く
・空襲の規模拡大
・医学校で解剖授業
・叔父や親戚(みな軍医)の戦死を知る
・新宿駅で空襲遭遇
・医学校春休み

・新聞論調の変わりように(戦況報道の嘘くささ)に不信
・十年後、百年後の世界を想像
・学校宿直で深夜まで恋の話をする友人たちに辟易
・友人宅も空襲遭う『明日はわが身』
・学校の級生たちは軍や政府へ不満あり
・卒業生のうち、すでにもはや戦死とげたるもの二.三にとどまらずと
・物価高騰

1945年3月

⚪︎空襲頻発
・試験の朝に空襲警報、試験が無試験合格となって喜んでしまう

⚪︎東京大空襲
・(3/10、東京大空襲の様子は、記述が一気に口語体になる)

・学年進級する
・3/21されど祖国は芸術よりさらに重大なり

・3/17東京都民、仕事も何も上の空なり
・3/10を機に、一斉に人の移動が始まる
・3/30床屋がとても混んでいる

1945年 4月

⚪︎沖縄戦は悲劇的の模様
⚪︎4/12ルーズベルト大統領死去

⚪︎小磯内閣総辞職

・4/1エイプリルフール
・建物取り壊し作業
・4/14学校周辺はほぼ焼け跡
・高須さんが山形へ行き、一人留守番

・4/15京浜西南部空襲
・4/19心が疲弊
・智能をしぼりつくして優れたものを生み出して、それが何になるんだろう

・4/22小さな平凡な平和な空想…バカな!

・強制疎開の跡地をみんなが物取りしている

・確実でない噂に人々がもちきりになる。誰々がスパイなど
・B29からのビラまき
・緊張感と心の荒み

・天気のいい日は若者らしく寝そべって笑い合う

1945年 5月

⚪︎5/2ヒトラー死との報道
⚪︎独軍降伏

・5/12松柳と筆談
・5/15阿片についての授業、ちょっと味を知りたくなる

・5/18塩味噌醤油、ほとんどなし

・5/24目黒空襲、焼け出される
・山形へ行く
・ヒトラーの歴史的意義、人物評価は百年の後に知らるべし
・塀を壊して薪作り
・5/3民衆の顔みな憂う
・5/7緑萌ゆが、見渡す限り焼け跡の骸骨のような樹木
・電車は大混雑
・駅には張り紙
・B29がビラまき

1945年 6月

⚪︎沖縄戦、最悪の様子
・6/5帰郷 列車内で中学の同級生に合う
・6/14医学校の疎開(長野県飯田市へ)が決まる。それまでは図書室暮らし
・医学校疎開前に学校への訣別の辞

・愛国の情、嘘ではない、勇ましく死んでゆこう6/17
・6/27飯田の景色や雰囲気に、少し心が和んでいる様子
・久保食堂の娘のこと
・駅の切符切の少女のこと

1945年 7月

・7/15飯田の立石祇園祭
・農耕、下宿先の手伝い、
・7/25天竜峡へ行く
・7/27沖電気の人と再会。酒盛り
・7/31校長の講義、演説にみな緊張感とやる気増す
・7/20出征見送りを見ている、センチメンタルになる。

・7/8教授より『余の学生時代には酒も女も青春の楽しみもあった。君たちは全く可哀想だ。東京で焦土の中でいるよりもせめて自然の中で学んでほしい』
・7/25駅の切符切りが美少女である
・『滑稽なる』運命

(疎開して少しは心が晴れて元気が出ている模様)

1945年 8月

⚪︎広島と長崎に原爆投下
⚪︎8/9ソビエトが宣戦布告

⚪︎敗戦

・連日同級生と話し合う
・8/13飯田市郊外に避難せよの命令

・愛国心はあるが、日本人教育の未熟さや無知さを嘆く。しかし『不撓不屈』は優れていると思う。

8月16日以降

・帰郷
・8/20日本人は憐れだ、惨めだ、誰の顔を見ても、数日この感じがして、たまらない
・8/28『負ければ賊軍』歯を食いしばって耐えるよりほかない
・今後の日本はどうなるか、連合国が入って来るだろうなど
・もう兵隊はいばれない
・投げやり、諦め、怒り、
・8/30新聞より、厚木飛行場で米将校を迎える。感想「みっともない姿」

1945年 9月

⚪︎日本軍の上層部、次々と自決

・押しつけの平和論への疑念
・米国による武士道的精神をなくす再教育への反対

・9/1新聞が軍閥を叩き始めた
・米軍のジープを子供が追いかけてチョコレートをもらっているらしい

1945年 10月

・学生による芝居音楽会 素人の芸能大会が大喝采を受ける。
みんな、こういう楽しみを欲していたのだと知る。

・医学校、疎開から東京へ戻る

(日記の文章表現に口語体が増える)
・食糧不足
・10/8音楽会が大盛況、「市民いかにかかるものに飢渇せるかを見るべし」

1945年 11月

・東京での授業再開
・教員たちの平和論
・夏物のシャツで過ごす。寒い

・生活困窮と敗戦後の思想の変化が交互に

・生活困窮
・物価高騰、闇物資で生活
・進駐軍がいる

1945年 12月

⚪︎12/2進駐軍から、59人(=第三次戦犯指名)の逮捕命令が出る

・帰郷
・実家に薬局の検分がくる(医者への査察か)
・炭作りをする
・米兵の豊かさ、明朗さ、さっぱりしたところに参っている人々、筆者これを『愚衆』と呼ぶ

・天皇制の絶対的な意義もわからない、過去の教育のせい?
・12/9戦争中と違って、金さえあれば、飢えはしないのだ

・手紙の検閲あり
・12/31「いまだすべてを信ぜず」

・遊郭では進駐軍がモテるらしい
・商売を始める人
・物を盗まれる人
・満員電車  “戦慄すべき地獄電車“と表現

・復員兵への冷遇あり
・進駐軍に日本人の女
・星条旗があちこちに
・孤児たち乞食たち多数

『戦中派不戦日記』ー解説

<昭和20年の世相>

筆者は日々の生活を細かく記しています。その点は物語とは違い、当時の人々の言動や街の様子が、日を追って生き生きと、あるときは生々しく浮かび上がっています。
以下のような調子です。

・1/7 銭湯が汚く、環境もひどいこと

“去年大阪帝大の医学部で検査してみたら、夜七時以後の銭湯の細菌数、不純物は、道頓堀のどぶに匹敵したそうである“
“まず下駄箱というものが不気味なものになった。とにかくふつうの履物を履いてゆけ ば絶対に盗まれるのである“

・1/31 行列に並ぶ

“新宿駅前の露店にて七味トーガラシを買う。四十人余りも延々たる行列。並んで十分ほどたちてしまったと思えど、あとは助平根性出してついに買う“

これも筆者の客観性のなせる技でしょうか。書き方が上手いのか、困難な生活さえも読んでいて滑稽に感じてしまいます。

しかし、3月に起きた東京大空襲を境に、人々の生活の荒み、精神の疲弊は深まっていきました。読書を好み芸術を愛する筆者も、さまざまに思いを巡らせるようになります。

“4/2 文芸言論などは蔑視する。生死を分ける切迫時にはこんなものはほとんど効力なし。(中略)しかし言論の力はさほど軽蔑すべきものにあらず。“

<日記に見る筆者の個性>

日記には、筆者の個性がよく現れます。

・書くことへの執着

日本が敗戦に向かう年、日々の生活に精一杯という状況で、風太郎はよくぞここまで毎日の様子を記したと感心させられます。さすがは未来の作家です。そしてそれは単なる出来事の書き留めではなく、つぶさな観察眼と魅力的な客観性を備えています。読み手を惹きつけるような描写が多数あるのです。

6月に医学校が長野県の飯田市へ疎開しますが、そこで目にした自然を描写する文章は秀逸です。読んでいて、うっとりするほどです。

“ 6/24 初狩という駅にとまっていた。晴れやかな麦秋である。空は晴れて夕立のあとのようなきれいな碧空に、白雲が光のかたまりとなって浮かんでいる。野には明るい、もの哀しいほどの静寂が満ちている。“

“美しい夕であった。碧く澄んだ空、ばら色の雲がむらがってその縁は黄金色にかがやき、それがそっくり田植えを終わったばかりの水田に映っている “

まもなく敗戦という荒んだ生活の中で、このような美しい表現を日記に記す人が、山田風太郎という人なのです。

・性格は生い立ちの不幸から

筆者はとにかく読書家です。医学校の同級生が感心するほど、いつも本を読んでいたらしい。そして前述したように観察眼と客観性に優れていました。つまり裏を返せば当事者よりは傍観者であり、ときには冷ややかであるともいえます。

これは生い立ちの不幸であると本人が言っています。

“5/12 余の、口から出まかせの諧謔と、刺すがごとき皮肉と、冷たさと虚無と憂鬱と(中略)、余の過去の担うところなり“
“余のごとく幼にして父母を失い、身体弱く、心曲がりたる者にして、(中略)余は憎むべきエゴイストなるに、“

幼いころに父親を亡くし、父の弟と再婚した母。その母を14歳のときに亡くした風太郎。叔父との仲も合わず、家出同然に上京、身体も弱く、どうにか学費を出してもらって学生となっている。回り道をした分、同級生よりは2歳ほど年上です。こういった境遇が、彼を読書や思索に耽りがちな、社交的でない、ともすれば孤独な性格にしてしまったようです。

空襲が激しくなった昭和20年1月にはこのように書いています。

“1/15 空襲のため今日明日の命わからず。高須さんまでが遺言を書いておこうと言う。余の遺言はただ一つ『無葬式』。“

『無葬式』とは、葬式の読経も人々の列も御免こうむりたいと言うのです。これは、お葬式は家族葬で簡単になどという現代の話ではありません。昭和20年に、22歳の青年が遺言で望んでいるのです。とても厭世的な青年です。

“而してこのごろ他と情に於いて交渉するが煩わしければ、ことさらにとぼけ、飄然とす。(中略)見ざるまね、聞かざるまね、(中略)二十四歳にして耄碌せり(=老いてボケること)といわば、人大いに笑うべし。“

頭のいい若者にありがちな、ふざけた態度にも見えますが、その生い立ちを思うと、やはり少し寂しい姿が見えてきます。

<孤高な筆者も戦時下の“当事者“。周囲との関わり>

・高須さん一家と暮らす

高須さんは、風太郎の上司です。奥さんと下目黒に暮らし、近くには奥さんの弟の勇太郎君もいます。風太郎を気にかけてくれる面倒見の良い上司のようです。筆者は医学校受験に際して、その費用も高須さんから借りています。

昭和19年になると、風太郎は高須一家の家へ同居することになりました。このころは常に空襲の恐れがあり、『留守宅が焼けないために守る』人手が必要だったのです。高須さんに誘われ、風太郎も高須家を守る一員になりました。戦況極まる東京で、22歳の山田風太郎は、下目黒の住人になりました。

今まで孤独で厭世的、傍観者を気取っていたように見える風太郎も、この戦争の緊急事態におよんで、ようやく人との真の交流を成したように思えてきます。命の危険とは隣合わせ。物資不足は極まり、電車の切符も手に入れるために大行列です。知り合い同士が自然と協力しないと生きてはいけません。ここで彼もとうとう戦時下の“当事者“となったのでした。

<8/16 以降、敗戦のショックと怒りと諦め、思いは行ったり来たり>

日本の敗戦によるショック、アメリカへの恐れと怒り、政府や報道への不信感と原因追求は、日記の大きなテーマとなっていきます。

“8/20 日本人は憐れだ。惨めだ。だれを見てもだれの顔を見ても、この数日この感じがしてたまらない“
“9/20 (戦時下の精神主義をふりかえって)僕はこのことを考えると、教育というものの恐ろしさを痛感する。僕はそんな過去の教育を払拭して、自由な、裸の人間として考えてみたい。後天的なヴェールを払い落としたい“

“9/20 今、僕には信念がないのだ。(中略)何が何やらさっぱりわからないというのが正直だろう“

そう、戦時下のこれまでに風太郎が教育されてきた価値観が崩壊していくのです。

<若者の楽しみ>

昭和20年には、風太郎のような若者が楽しむことができる美食や恋、おしゃれやきらびやかな交流は、ありませんでした。

そんな中でささやかな喜びだったのでしょうか、医学校の疎開先では、駅の切符切りが美少女であることを、仲間との会話の中に書いています。

敗戦後の10月に、疎開先で学生が市民を招待して開催した「芝居音楽会」。

これは大盛況で凄まじいほどの満員御礼でした。終戦後、人々がいかにこのような楽しみに飢えていたかがわかる、学生も市民も大満足の文化祭となりました。

<風太郎の読書日記>

風太郎は、相当な読書家でした。
彼の日記には、読んだ本のタイトルが頻繁に出てきます。筆者のかたわらにはいつも本があったようです。
物資不足の時代ですが、貸本屋や医学校の図書室から借りたものでしょう。
筆者の読書日記として読むのも興味深いですね。

例えば
1月 菊池寛の短編集 『医家の蔵書』『仏教学入門』など
2月 幸田露伴の作品多数、『屍体貯存法』『生死の問題』 など
4月 ルナール デュマ バルザック トルストイ スタンダールの作品 など

『戦中派不戦日記』ー感想

<未来の作家活動を予測させる表現がたくさん>

医学校を卒業したものの医者にはならず、そのまま作家デビューする山田風太郎。
この日記からは、大ヒット『忍法帖シリーズ』のような、人間のリアリティを下敷きに奇想の創作を生み出した作家の萌芽を見ることができます。

次の一節などは、まるで『忍法帖』の一節のようです。

“6/1 自分は幸福な家庭を見るとき、いつも胸の中で何者かが薄暗く首を垂れるのを感じる。そしてその首が薄暗くもちあがるのを感じる。その首がつぶやく。この不幸がやがておれの武器になる、と“

また風太郎は、敗戦前後の日本の様子を、みずからの体験と優れた観察眼で書きあらわしました。

物資不足に困窮し、連日の空襲にすさんでいく東京の様子を、暗く美しく淡々と、ときには憤りながら書いています。
絵も上手かったという山田風太郎の、その着眼点と表現力には圧倒されます。

『戦中派不戦日記』で、作家の青年時代をぜひ味わってみてください。

参考文献

『戦中派不戦日記』山田風太郎/著 1995年 講談社文庫
『戦中派虫けら日記 滅失への青春』山田風太郎/著 1994年 未知谷
『戦中派焼け跡日記』山田風太郎/著 2011年 小学館文庫

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