与謝野晶子の作品と人生を追う①
渋谷道玄坂からパリまで
東京都内には、与謝野晶子のゆかりの場所がたくさんあります。関西に生まれ、上京してから、あちらこちらに転居したためです。
彼女の歌碑は全国各地にあります。夫婦でよく吟行(歌を詠むために旅行に行くこと)にも出かけました。
そして、ロシアのウラジオストクにも晶子の碑はあります。
1912年。彼女は福井の敦賀から船で大陸へ渡り、ウラジオストク発のロシア鉄道に乗ったのです。半年前にパリへ遊学した夫を追いかける一人旅でした。
7人の子は夫の妹に預け、旅費は原稿料を前借しました。言語はもちろん日本語しか分かりません。
この人すごいぞ。
※見出し画像は、晶子の「百首屏風」。
夫の渡仏資金を作るために、自作の和歌を100首書いた金屏風を一隻百円で受注販売しました。
与謝野晶子をとことん味わう 〜明治の文学を切り拓いた歌人〜
・与謝野晶子(1878年(明治11)−1942年(昭和17))
堺県堺区(現在の大阪府堺市)生まれ。
幼いころから古典文学に親しみ、10代で和歌を詠み、地元の文学会に参加する。
雑誌『明星』を創刊した与謝野鉄幹と恋愛し、1901年6月に上京。
同年8月には歌集『みだれ髪』を発表した。
『みだれ髪』は、当時の道徳観・女性観ではあり得ない、大胆かつ斬新な恋愛讃歌であった。批評家からは賞賛と批判の嵐が巻き起こり、若者たちは熱狂した。
晶子の歌集『みだれ髪』を知っていますか
与謝野晶子のデビュー歌集『みだれ髪』(1901年)とは、晶子23歳ころまでの歌をまとめた歌集です。
『みだれ髪』の発行当時、彼女の名前は「鳳晶子(ほう、あきこ)」。旧姓の「鳳」を名乗っていました。同棲相手である与謝野寛、彼の離婚がまだ成立していなかったからです。
しかも名は「晶子」でなく「昌子」と印刷されていたらしい。
誤植も直さないまま、1901年「鳳昌子」の『みだれ髪』が発表されました。
歌集『みだれ髪』から有名数首をご紹介
・やは肌の あつき血汐にふれも見で さびしからずや 道を説く君
(私の熱い血が通った柔肌に触れずにあなたはもっともらしい道徳を説いてばかり。寂しくないのですか)
・なにとなく 君に待たるるここちして 出でし花野の 夕月夜かな
(なんとなく恋人に待たれている気がして外へ出ると、花が一面に咲く野原とそれを照らす月夜でした)
・春みじかし 何に不滅の命とぞ ちからある乳を 手にたぐらせぬ
(短い青春に永遠の命なんてない。今がすべて。この若く張りのある乳房をあなたの手にたぐらせたのです)
・道を云はず 後を思はず名を問はず ここに恋ひ恋ふ 君と我と見る
(道徳もこの先も、人の噂も関係ない。ここには恋し恋されるあなたと私がいるだけなのです)
・罪おほき 男こらせと肌きよく 黒髪ながく つくられしわれ
(罪多き男たちをこらしめよ、と、肌は清く黒髪は長く作られた美しい私!)
どうでしょうか。
現代人から見ても、力強く、みずみずしく、高揚感を感じさせる恋の歌です。晶子自身の胸の鼓動と息づかいが聞こえてくるような気がします。
ちょっと全体的に前のめり気味ではある。さすがは20歳の恋ですね。
歌に用いられている言葉で、読み手の目をハッと射る「やは肌」「不滅」「乳」「罪」などは、どれも鮮やかで大胆不敵です。そこに恥ずかしさや媚びは少しも感じられません。
若さと恋。己の肉体に自信を持ち、相手をロマンティックに想い、必死に、積極的にアプローチする。
恋する君に首ったけな私。どうぞ私に触れてほしい。そんな心をまっすぐに高らか詠んでいます。
『みだれ髪』を読んだとき、私は椎名林檎の曲「ここでキスして。」を思い出しました。
どちらの歌も、相手は「モテ男でよそ見ばかりしている」という状況が同じです。
♪(歌詞)「現代のシド・ヴィシャスに手錠かけられるのは只あたしだけ」
『みだれ髪』は与謝野鉄幹(与謝野寛)によるプロデュース
ところで、恋に燃える若い娘からこんなにもグイグイ来られたら、相手の男性はちょっと引いてしまうのではないでしょうか。
大丈夫です。
晶子が恋した相手は、それくらいの押しに尻込みする男ではありません。
むしろ、もっと!こいよ!って感じです。
彼女の恋心に火をつけて、才能を一気に開花させた人物は、歌人・与謝野鉄幹。
歌集『みだれ髪』のプロデューサーでもありました。
文芸誌『明星』を主宰した与謝野鉄幹
・与謝野寛(1873-1935)
京都出身。「鉄幹」は号。明治25年(1892)上京。歌人の落合直文に師事する。詩歌の革新を目指し、明治32年結社「新詩社」を立ち上げ、明治33年(1900)に文芸誌『明星』を創刊した。
寛は『明星』にふさわしい歌人をスカウトして同人を増やすため、精力的に地方各地の文学会を訪れ、講演や歌会を行いました。
そして、晶子がいた大阪の「関西青年文学会」に舞い降りたのです。
この後『明星』は与謝野晶子という奇才を得て、明治後半のロマン派文学※を牽引する雑誌となりました。
※ロマン派文学
西欧ロマン主義の影響を受け、旧い因習にとらわれた自我の解放と確立を目指し、個人や自由を重視するもの。文学は恋愛や自然賛美、過去への憧れなどをテーマに、感受性豊かに表現する。
歌人・与謝野晶子が翔ベたのは、与謝野寛あってこそ。だけど…
明治33年春、晶子は『明星』へ歌を送り始め、夏に初めて寛と会いました。その秋には京都で寛と再会。
寛と会ってから、彼女は歌が急速にうまくなっています。他の同人たちと競うようにせっせと歌を作り、選歌をする寛へ送りました。
・清水へ 祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人 みな美しき
『みだれ髪』より
晶子の代表歌です。
寛と巡った京都を思い出しているのでしょうか。気持ちは高まり、景色も人も、すべてがキラキラ。そわそわします。
寛は、晶子にこんな歌を詠んでいます。
・あめつちに 一人の才とおもひしは 浅かりけるよ 君に逢はぬ時
(この天地に私は1番の才能だと思っていたが、浅はかだった。まだ君に逢う前だったのだから)
与謝野鉄幹歌集『紫』(明治34年)より
くーっ。最高の賛辞ですね。
憧れの与謝野鉄幹先生。その人が同じ歌人として、プライドを晶子に譲り、彼女の情熱にも応じる気配をそれとなく匂わせている。
嬉しかっただろうなあ。彼女はもっともっと、歌を送ったはずです。
しかし。
寛という男は、初心な女に対して、自分に憧れを向けさせ、その気にさせる天才でした。見事な女たらしです。
寛を慕う女性歌人は他にもいたのですから。
そして与謝野の家では、郵便物に埋もれながら『明星』の事務を片付ける妻と、生まれたばかりの男の子がいました。
晶子の恋心は、それらすべてを承知の上だったのです。
恋は秘め事だけど。『明星』誌上は公開恋文のように
『明星』誌上は、晶子や女性歌人たちの公開恋文のようになっていました。
晶子が詠んだ歌
・むねの清水 あふれてつひに濁りけり 君も罪の子 我も罪の子
(胸にあふれた清水は、恋の罪のためについに濁ってしまいました。あなたも私も恋の罪を負う人なのですね)
『明星』(明治34年1月)初出、『みだれ髪』収録
寛の歌
・われおのこ(男の子) 意気の子名の子 つるぎの子 詩の子恋の子 あゝもだえの子
(私は男、意気盛んで名を立てるべき男、剣で闘う男だ。詩を愛し恋に燃える男だ。ああ悩み多き男だ)
鉄幹歌集『紫』より
晶子も寛も「〜の子、〜の子」と繰り返す同じ技法を用いていますね。アンサーソングかな。
寛にとって、こんな展開になることはむしろ期待通りです。
恋の喜びも苦しみも、もっともっと歌い上げてくれ、盛り上げてくれ。私たちはみな『明星』に集う星の子、詩の子※なのだからと。
※『明星』の表紙にはシンボルの星が描かれ、「星」の語は好んで使われました。詩の世界は「星の世界」。同人を星の子、詩の子としたのです。
晶子ゆかりの地へ
晶子の故郷である堺を訪れました。続く🚩
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