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10年越しの夢を捨てる時が来た #7

 調子が悪い。看護師長との一度目の面談以降、どんどん調子が悪くなっているのが分かる。その理由だって夏菜子はちゃんと理解している。自分と向き合うために、過去を思い出し過ぎているからだ。

 自分が大切に扱われなかったことを象徴するような事実の数々に目を向けるのは辛いことだ。疑似体験ですらストレスとなって身体化して現れているのに、体験そのものを思い出して不調が起こらない訳がない。増してやその時抱いていた感情が蘇ってしまったら、そのままズルズルと当時に引き戻されそうな気がして怖い。感情だけは思い出さないようにと、脳が制御してくれている気がする。お陰でちょっと忘れ物が増えて、ちょっとした言葉が思い出せなくて、何だかいつもぼんやりしている。

 そんな不調は花粉か黄砂のせいだと思い込もうとしたが、内服薬は効かず遂には扁桃腺まで腫れ始め、家に帰れば微熱では済まない程体温が上昇してくる生活が1週間も続けば、それがストレスの身体化だということは確信めいてくる。心も身体も絶不調。それでも夏菜子は仕事を休まなかった。

 気合いで何とかなる程度の不調は、誰にも打ち明けずに乗り越えてきた。実際のところ、面談で看護師長に指摘された以外にも小さな不調がいくらかあったが、業務に支障を来さなければわざわざ打ち明ける必要はない。そうやって隠して我慢してやっているから、不調は大きくなってしまうのだろう。

 1週間も発熱していたら、もういつどんな不調が起こって仕事を休んでしまってもおかしくないと覚悟を決めながら、不安な日々を過ごした。何も起こらずに平日を乗り切れることだけを祈っていたが、金曜日にそれは起こった。朝寝坊をしてしまったのだ。もう病院の駐車場に車を停めていなければいけない時間に目が覚めた。スマホの時刻表示を見た夏菜子は、一瞬で血の気が引くのを感じた。体調を崩すことはあっても、寝坊だけはしたくなかった。

 夏菜子の病院では、緊急時は看護師長に直接連絡する規定になっている。一刻も早く連絡を入れなければならない。震える手でスマホを握りしめ、看護師長の電話番号を探し出し、ダイアルマークを押す前に大きく息を吸って心を落ち着けた。夏菜子が寝坊をするのはこれが初めてのことではない。うつ病時代から微かに残る睡眠障がいがストレスに呼ばれて顔を出すことがあり、この病院で働き初めてからこれが3回目の寝坊となってしまった。

 前回寝坊して電話連絡をした時の、看護師長の心底呆れたような声が忘れられない。夏菜子の手がガタガタと震え出し、目から涙が溢れた。それでも電話をしない訳にはいかない。意を決してダイアルマークを押すと看護師長はすぐに電話に出た。
「おはようございます、どうしました?」
 看護師長の声は想像していたより穏やかで夏菜子の罪悪感は一層増した。
「申し訳ありません、寝坊して、今、起きてしまいました。すみません、申し訳ありません。出勤時間に間に合いません、申し訳ありません」
 声を出し始めた途端、涙は嗚咽に変わっていった。泣いて許してもらおうだなんてこれっぽっちも思っていないのに、止めることができない。半ばパニック状態の夏菜子に、看護師長は穏やかな声で呼びかけた。
「大丈夫だから落ち着いて、こちらのことはいいからまずは落ち着いてください」
「申し訳ありません、アラームもかけて夜もちゃんと眠れたのに、うぅっ」
話すと余計興奮すると判断した看護師長は、穏やかな口調のまま続けた。
「大丈夫だから落ち着いてね。一度切るけど、気持ちが落ち着いたらまた電話してくれる?その時に今日出勤できそうか教えてくださいね。できますか?」
「はい。わ、分かりました。落ち着いたらまた、電話します。うっ、本当に、申し訳ありませんでした」

 電話を切ってからもすぐに落ち着くことはできず、泣きながら部屋の中を行ったり来たりした。情けない、不甲斐ない、申し訳ない、悔しい、だらしないダメ人間……!
 負の感情が入り乱れ、夏菜子の心を刺激する。醜態を晒して人に迷惑を掛けどんどん情けなっていく、こんな惨めな自分にはもう会いたくない。頭を抱えて気が済むまで泣き続けた。

 30分程してから再び看護師長に電話をし、遅刻して出勤した。
 
 仕事は普段と変わらない状態で冷静に行うことができた。抑うつ症状が再発している訳でも、不安発作が起こっている訳でもないことを感じる。もっとずっと前から夏菜子は『そこ』に居る。張り詰めた緊張感の最前線、いつプチンと切れてもおかしくないところ。

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