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私を変えてくれた女子高生

 自分以外の全ての存在を敵だと思っていた思春期に、自分の価値観を完全にぶち壊された衝撃的な出逢いがあった。

 高校3年生で初めて同じクラスになった有花のことを、私はそれまで認知していなかった。それは決して有花が目立たないタイプだからという訳ではなくて、1学年10クラスある規模の高校で、クラスや部活動や余暇時間の使い方のベン図においてたまたま重ならない存在のうちの1人だったということだ。

 有花は私からはとても変わった人に見えた。

 当時の私たちにとって髪を明るく染めることはオシャレの基本だったが、有花は一貫してヴァージンヘアーを貫いていた。男子より短いベリーショートヘアーをワックスで遊ばせたスタイルは、目鼻立ちがハッキリした有花の快活さを際立たせた。

 流行りに乗っていないこともさることながら、有花の特筆すべき点はその屈託のない素直さだ。

 何かのタイミングで自己紹介をし合って、よろしくと言うも束の間、有花は私の顔を覗き込み目を輝かせながら「セクシーな目をしていてすごく素敵!」と言った。ほぼ初対面で女子高生が女子高生から言われにくい言葉を受け取った私は、褒められているのか貶されているのかすら一瞬ピンと来なかったが、有花は「羨ましい!有花もそんな目になりたい!」と続けた。

 人を羨む表出の裏には大抵自己卑下が隠れているもので、それを否定されたくてあえて感じてもいない羨望を他者に押し付けることもあるくらいだ。有花の発言がそれだとしたら、この場合私が言うべきなのは「そんなことないよ。有花の方が目が大きくて睫毛が一本一本長くて、とても素敵」だ。実際、有花はアーモンド型のつぶらな瞳をしていて、マスカラを塗らなくても睫毛には爪楊枝が乗りそうだった。

 私の返答を聞いた有花は、満足そうに自尊心を高めるでもなく、無意味な謙遜を繰り広げるでもなく、「えー、確かに有花は目が大きくて睫毛もめっちゃ長いけど、でもセクシーじゃないんだよね。目が大きすぎると、何か子供っぽいでしょ?有花、つり目の女性ってセクシーで色っぽいと思うんだ。ほら、椎名林檎とか!」と嬉々として説明した。

 その一連の有花の言い方ときたら、とにかく思ったことを素直に言葉にしただけという風なのだ。

 容姿を褒められたことなんてほとんどない私が返す言葉を失っていると、有花はまた屈託なく笑い、「有花はめっちゃ良いと思って褒めたんだけど、でも言われて嫌だったらごめんね!」とハツラツとした様子で言った。

 その嫌味のなさ、後腐れのなさ。まるで夏の暑い日に首元をスッと風が通り抜けたかのような爽快さ。そして、私の中に残る唯一無二の賛辞。

 思春期特有の照れのせいか、日本人特有の謙遜文化のせいか、私はそれまで人を褒めるということを全くしてこなかったように思う。いや、厳密に言えば褒めることはあったが、それはあくまで誰かが何か功績を残した時だ。テストで100点を取ったとか、部活動の大会で優勝したとか、そう言った時には少なからず褒めていたと思うが、それも結局は嫉妬が入り混じった不純な感情の産物だった。

 しかし有花は、ただ私の目が彼女好みで素敵だという、それだけのことをわざわざ労力を使って私に伝えてくれた。他に何の感情も絡めず、湧き上がった想いにサッとリボンをかけてプレゼントしてくれ、しかも気に入らなかったらごめんねという配慮まで添えてくれたのだ。

 こんなに気持ちの良いコミュニケーションの方法がこの世に存在したのかと、目から鱗が落ちた。

 それから私は有花のコミュニケーション方法を観察するようになったが、有花はいつも誰に対しても変わらなかった。持っているハンカチのセンスが良いだとか、髪を切って格好良くなっただとか、価値観や考え方に対しても、自分にはないものやより良いと感じたものに対して、迷いも惜しみも一切なくどんどんと褒めた。

 かと言って、有花が人に媚びていると感じたことは一度もなかった。なぜなら有花は、良いと思わないものは無理に褒めたりせず、むしろあまり良くないと感じていることを前述のような無邪気さのままにきちんと相手に伝えられるタイプだったからだ。

 そんな有花のコミュニケーションスタイルを取り入れるようになって、私は人の良いところを探すようになり、それを伝えられるようになった。

 いつか有花に、「有花の、人の良いところをたくさん見つけられるところ、それを相手に伝えられるところ、とっても素敵。私もそうなりたくて、今真似をしてるの。これ、私は全力で褒めてるつもりだけど、もし嫌な気持ちになったらごめんね」と言ってみた。すると有花は、両手を頬に当て顔を真っ赤にして照れ、小さな声で「ありがとう」と言った。

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