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『我が家の新しい読書論』4-1

ESくん
 (3-1)のあと、顔ブームが来てさぁ、職業柄かな。で思ったのが、何でボクらって自然と、誰かを思い出すときに顔から思い出すんだろうってこと。ボクが思い付いたわけではなくて、鷲田先生の本で読んだんだけど。たしかにそうかもって。

EMちゃん
 
あぁ、あらためて言われてみると、たしかに。顔とか表情の印象が強いわ。その印象に連ねて、その人との出来事をあれこれと思い出すわね。ワタシは声とか手も個性だと思うから、顔以外で思い浮かべることもあるかもしれない。

ESくん
 よく手とか声の「表情」とか言うけど、あれは顔のメタファーだね。

EMちゃん
 
あらまた顔。何でも顔でつなげられそうね(笑)

ESくん
 そりゃ何度図書館に足を運んだことか。でさ、斎藤環先生の『文脈論』にも顔の話が載っている箇所を見つけてさ、

 たとえば精神病とは、「顔」を失うことではないだろうか。「顔」において分裂病の徴候を読みとりうるとするなら、そこに見い出されるのは、顔を所有しつつ「顔」を失うことへの畏れではなくて何だろうか。さしあたりそのように問うことは、臨床的にまったく正しいだろう。もちろんそれは、問いのはじまりに過ぎないけれども。
 そして精神病が「顔」を失うことであるなら、損なわれるのは「顔」のさまざまな特徴などではない。そこではただ一つの「顔」、「このもの」としての顔、あるいは「顔の固有性」、そういったものが失われているのではないか。おそらくこのように問うことによってはじめて、「顔の臨床」の端緒が開かれる。

『文脈病』斎藤環

 この「顔」の考え方って、前にみんなで中島義道先生の本を読みながら話してた「言葉」の捉え方にどこか似てない?

網口渓太
 本当だよく似てる。「顔」の箇所を「言葉」に言い換えてもしっくりくるね。どっちもよく目立つし。言葉の振る舞いを意識することは社交に欠かせないし、顔の表情管理もしていないとあらぬ問題を引き起こしかねない(笑)
でもどちらももともとは私たちにとって異物である。「顔」も「言葉」も一瞬たりとも私たちと同一化しない、ただの記号だからね。ちなみに平川克美さんは「言葉」と「お金」が似ているって書かれてたな。

ESくん
 「顔」と「言葉」と「お金」に共通するのは他所性か。自分の顔を自分だけが肉眼で見れないっていうのも、同一化したいけどできないもどかしさを感じるね。常に欠けているからこそ、この欠如を埋めたいという欲望が働くんだね。

EMちゃん
 
「自分」と「他者」もね。つまり、違和感はあって当然なわけだ。

網口渓太
 
そうなのよ。あやしいもんなのよ。言葉はただの記号だし、紙幣はただの紙切れだし、顔面はただの何だろう。でも人はそのただの何かに意味を付けて、価値を発見し続けてきた。私たちはその遺産を受け継いでいるんだね。         『文脈病』だったら“顔という言語”の章が、別の価値観を問うていて、面白かったけどね。

 たとえば「言語としての顔」は、隠喩的に、あるいは換喩的に扱うことができる。ここで隠喩とは「鳩」が「平和」を象徴するように、直接は関係のない語によって、ある語を置き換えることだ。また換喩とは、「帆」で「帆船」を意味するように、部分的に関係のある語によって、ある語を置き換えることである。そうであるなら、例えば動物や自動車などに「顔」を見るのは隠喩的認識だし、耳や口などのパーツを強調する似顔絵は換喩的である。よく似た顔が笑いをさそうのは、われわれが駄洒落を笑うことに近い。外国人の顔をうまく判別できないのは、「顔の外国語」に習熟していないためだ。こうしたことの一切は「記号」については起こりえない。つまりここでも、われわれは「顔」を言葉と同等に扱っているのだ。

『文脈病』斎藤環

ESくん
 この世は夢世ただ狂えだ。
 元気出るなぁ、論理的に整った文章もスポーツドリンクみたいにゴクゴク読めるから嫌いじゃないけど、比喩に凝った言葉遊びの方がやっぱり好き。ZONEとかKREVAの韻みたいなさ。

EMちゃん
 HIPHOP の言葉遊びは、ただの言葉を遊びの言葉に変えているよね。ライブでもワンフレーズでお客さんがぶち上がってるもん。だから近さよね、
同じ空間にいる人たちが、同じ状況や知識を共有できていると、違和感や異物やズレは場を盛り立てるスパイスとか隠し味になる。お洒落な人ってちょっと外すんだよな。そのちょっとがすごく格好いいの。

網口渓太
 ちょっと外れるって、まるでエピクロスだな。

ESくん
 
おぉ、だいぶ外したな(笑)

網口渓太
 すまん。確かに、ちょっとした部分とか部品の見せ方を変えることで、ちゃぶ台返しできる技術って憧れるよね。隠喩換喩。じゃあ、ついでにESくんが言ってくれた、中島先生の脱自己中心化の話も再読しておこうか。

 以上の実在と不在の関係を明らかにするためには、本書では、まず大がかりな図式を導入する。それは、われわれ人間は有機体として①もともと自己中心化しているが、②その有機体が言語を習得することによって脱自己中心化し、さらに③二次的自己中心化する、という単純な図式である。

『不在の哲学』中島義道
文庫本と珈琲と赤と青のVコーン

 実在と不在の関係がすっきりする名フレーズだね。斎藤先生の本に書かれている顔を失うと精神病や分裂症になるというのは、中島先生の本に書かれている言語を失うと他者を中心として振る舞う社交性が失われるということと通じる。言語を見失うと自己中心的で人目を気にせず本能的で生物的な私へ退行していくらしい。さっきはただの記号って言ってたけど、ただものではなさそうだね。ボクは100年くらい前に、ダダとかシュールレアリズムのアーティストがこの実在と不在の関係を問い直した実験が大好きでよく読んでるよ。あとはジョルジュ・バタイユの”蕩尽”とか。セックス・ピストルズの“パンク”とか、ヴィヴィアン・ウエストウッドの洋服とか。

ESくん
 連想を聞いてるとやっぱり、渓太くんは松岡正剛さんの影響が濃いね(笑)

網口渓太
 20代を賭けたからね(笑) 難しくし過ぎたらよく分からなくなるけど、松岡さんにはかつての日本人が継承してきた日本人らしさとか、遊び心とか、享楽を感じるのよね。それと宇宙人らしさ。松岡さんがよく、「客を遊ばせることによって自分が遊ぶ」客神をもてなすのが遊びの本来だというお話をされるけど、松岡さんご自身がマレビトだから。ふたりも稀な人になってくれることを期待してる。世界は広いし歴史は長いからスタイルの違いはたくさんあるけど、自分の振る舞いと他人の振る舞いをうまく交えて解放に向かいたいよね。ESくんだったら、折口信夫とか世阿弥とか岡倉天心を読みたくなるかも。

ESくん
 そうそうそういう感じ。何か能登半島のアエノコトを、もう一度ちゃんと観ておかないといけない気がしてきたな。図書館行くか。

EMちゃん
 外からやってくるものを遊ばせる感じね。山口小夜子さんも、ランウェイでの振舞いは服が教えてくれるって言ってたわね。

網口渓太
 隠喩と換喩の話とか、中島先生の脱自己中心化とか、ちょっと知ると読書は楽しくなる。あちこちつながるからね。こういう未知との出会いが読書の醍醐味だよ。それは本にとっても同じで、読者が持っている鍵が、本に隠されていた鍵穴を開くわけだから。読書はやっぱり多読で、たくさんの本をジャンルの垣根を越えながら読んでいくのが面白いと思うよ。

EMちゃん
 異論なし。ところでジッとみてると、やっぱり渓太くんはラッパーのKOHHに似てるよね。

ESくん
 前からよく言うけど、急に何よ。ジャンルの垣根を越えたかったの(笑)

網口渓太
 本当、急に何よ。そうだね、顔の系統は似てると思うよ。メジャーリーガーの吉田正尚選手とか、アタック洗剤のCMに出てる俳優の賀来賢人さんも時々言われるけど。共通点は馬顔かな。自分では似てるとは思わない(笑)

EMちゃん
 ただの思い付きよ。なんか顔相学みたい。

網口渓太
 ふたりもよく似てるよ、双子みたいで。でも、みんな憧れている人に近づきたいから、洋服とか化粧を真似たり、喋り方やしぐさを変えてみたりするじゃん。物の真似だけじゃなくて、本当に好きになってきたら振舞いとか、その人の生きてきた歴史も真似てみたくなる。そうして、どんどんハマっていくよね。その人や物が欠けている部分を補ってくれる存在ならなおさら。もちろん相手も自分も人だから、思った通りとはいかなくてガックリくることもあるだろうけど、そうやって「私」というものを発見していくんだろう
ね。

EMちゃん
 
山口小夜子さん、岡崎京子さん、レベッカ・ソルニット、お友達のイニちゃん、『マッドマックス』のフュリオサ大隊長に、『パルプフィクション』のミア・ウィレス……

網口渓太
 
すぐ名前を挙げられるところがいいよ。家の座右の銘はアニー・ディラードの言葉だけど、「読書で費やした一日を、良い日という人がいるだろうか。だが、読書をして過ごした人生はいい人生である」。是も非も天晴れと思える日が一日でも増えるように、長い目で自分たちの人生を眺めながら、本を読んだり真似をしたりして、鳥のようにノビノビ生きていたいね。

ESくん
 逃走家ですねぇ。

網口渓太
 ですです。日常生活も同じようなものだから、見聞きしたものは、どんどん言葉にして読書していこう。日本人はシャイだから溜め込みがちだけど、意識して言語化して残滓を払っていかないと、何だか淀んでしまうしね。じゃあ、カラオケでも行こうか。

EMちゃん
 うふふ。今日はいい日なのかも。   

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