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『我が家の新しい読書論』9-2

EMちゃん
 テイクアウトしたこのバナナジュース美味しい。最近ESくんずっと
YouTubeのそれ観てるね。

ESくん
 有難いことに、まとめてアップしてくれている方がいてさぁ。本人の喋り
方の特徴と、著書の書きぶりがすごく似ていて、面白いんよ。ブルーベリー
も美味い。

網口渓太
 何、誰々? ははぁ、ジジェクの動画ね。へぇ、尺が短いのもいいね。

ESくん
 たとえばこれとか。

 今日資本主義は最終的な危機に突入しようとしている。これは左翼にとっ
てだけの悪夢や夢のような状況というわけではない。イーロン・マスクやマ
ーク・ザッカーバーグ、ビル・ゲイツのような進歩的な企業家だってそんな
ことは知っている。しかし、資本主義が終焉した後の生について、なんらか
の実行可能なヴィジョンや代替案を持った左翼はいない。私たちには、長引
かされた衰退しか残っていない。偉大なドイツの思想家ヴァルター・ベンヤ
ミンが、1930年代にこんなことを言っている。あらゆるファシズムの勃興
は、失敗した革命のあかしである、と。この言葉は今こそ最も重みを持つだ
ろう。
 急進左派連合政権が有能にも(皮肉)緊縮財政を実現したギリシアにおい
て、ラディカル左派は、その無能さをさらすことになった。イタリアの選挙
結果や(右翼の台頭)、ドイツにおける分断はまた、穏健な社会民主主義的
な左派勢力が、徐々に弱体化していっていることを示している。穏健な左派
穏健な右はという伝統的な対立軸は、今、新たな別の対立軸へと置き換わり
つつある。それは既得権益を持つリベラルと、その反動として現れた右派ポ
ピュリズムとの対立だ。ヨーロッパ中を覆っているポピュリズムの爆発的な
勃興は、左派の機能不全による空虚を埋める形で現れたものにすぎない。
 私たちは今、新たな左派運動を作り上げることでしか抜け出せないような
悪循環に囚われている。そして不幸なことに、そのような左派運動が現れな
いであろうことも、私たちはみなよく知っている。今や権威的資本主義は世
界中を席巻しつつある。トランプからプーチン、トルコから中国まで。
 私たちの社会的運動はすでに活動し始めている。あらゆる場所で抗議活動
が起っている。それらの活動は新たな左派的ヴィジョンを活性化できるのか
? それともまた盲目的な運動に収縮してしまうのか?

EMちゃん
 ウケる。何でコックさんの格好なの(笑) ジジェクの享楽ってわけかしら。

シェフ姿で資本主義を語るジジェク

網口渓太
 深読みするもよし、切ってしまうもよし。

ESくん
 ジジェクの言葉って、腑に落ちるし目が覚めるし、思慮が深くて好きなん
だけど、半信半疑で受け取ってしまっているところも少なくない。本当かよ
って。

網口渓太
 分かる分かる。このコックに扮装した動画も、どこかかつての脳科学者の
茂木健一郎さんぽいもんね。両者とも、精神分析でいえば現実界、脳科学で
いえば無意識のような、人間の認知が及ばない領域を含めて表現しようとし
ているから、簡単には受け取りたくない気分になるのかもね。信用できない
語り手が語るミステリー小説を読んでいる感じ。

ESくん
 ジョーカーぽいよね。だから、ジジェクの師であるラカンの理論を頭に入
れておかないと。

 ラカンによれば人間世界は「三界」から構成される。直接に認識したり理
解したりすることができる想像界、直接には認識はできないけど、分析する
ことは可能な象徴界、認識も分析もできない現実界、という区分だね。前に
は「コントロールできるかどうか」で区別したけど、覚えてるかな?
 念のために確認しておくけど、ここで僕たちが生活している「日常世界」
は想像的なもの、すなわち幻想ということになる。ただしそれは、実体を欠
いた形而上学的な幻想、ってわけじゃない。ほら、哲学なんかでよく問題に
なるアレのことさ。世界はすべて主観的な幻にすぎなくって、そこにはどん
な実体もないとするような観念的な議論。哲学ではこれを「独我論」とい
う。実はこの種の議論は、同じ土俵の上では論破できない仕組みになってい
る。なぜかって? この種の観念論に対抗するようなどんな論点を持ち出し
ても、その枠組みそのものの観念性を指摘することができちゃうからだ。だ
から独我論を採るかどうかってのは、論理よりは好みの問題ということにな
る。え? 僕ですか? もちろん独我論なんてポイだ。どうせ絶望するにし
ても、独我論的に絶望するよりは、唯物論的に絶望したいね。
 ここで、ちょっと時事的な話題にもふれておこう。これまでに何度もふれ
てきたけど、ラカン派マルクス主義哲学者という変わった肩書きを持つスラ
ヴォイ・ジジェクというひとがいる。彼は「9・11」同時多発テロについ
て、こんなことを言っている。あの事件の本質は「日常という幻想」が「テ
ロという現実」に破られたということではない。むしろ僕たちの現実が、
(ハリウッド的スぺクタルの)イメージによって粉砕されたと考えるべきな
のだ、と。これは崩壊する世界貿易センタービルをみて、誰もが「まるでハ
リウッド映画みたいにリアルだ」という、ちょっと奇妙な感想を口にしたこ
とからもうなずけることだ。この世界の現実が、凡庸なB級映画的イメージ
で覆われつつあるという感覚は、きっと誰しもが持っているはずだからね。
「リアリティ」って言葉がこんなにしょっちゅう話題になる世の中っての
は、要するにリアリティがわからなくなった世界ってことだ。現実界や象徴
界なんて言葉が少しずつ広がっているのも、こうした状況に関係があるかもしれない。
 ただ、かなりラカンに詳しいはずの人でも誤解しがちなのは、この三界が
階層構造みたいになっているとみなすこと。前にパソコンの比喩でも言った
ことがあるけど、「現実界」が一番基礎にあって、その上に「象徴界」が乗
っかっていて、いちばん上が「想像界」になっていると考えることね。逆に
言えば、誰の目にもわかりやすい想像界を一枚めくれば象徴界があり、象徴
界をさらにほりさげると現実界にゆきあたる、という理解だ。これ、確かに
わかりやすいだけについそう考えてしまいがちだけど、ラカンによればそう
じゃない。実は三界というのは、それぞれが互いにそれぞれの存在にもたれ
かかって成り立っているというんだね。
 階層構造がもしホントなら、いちばん浅いレベルにある想像界は、別にな
くってもさしつかえないことになる。つまり、より真理に近い象徴界さえ認
識していれば、想像界のようなウソだらけの「みかけ」の世界は見えなくて
も構わない、ということになるわけだ。でも、もちろんそんなことはない。
一般に人は、象徴界のはたらきをじかに認識することはできないからだ。も
しそれを直接見ることができたとしても、それはほとんど無意味な、まるで
メカニカルなシニフィアンのたわむれにしか見えないだろう。こうした作動
は、想像界のスクリーンを通じて、はじめて意味のあるものとして受け止め
ることが可能になる。要するに、僕らはウソを通じてしか、ホントのことに
近づけないってことだ。
 現実界は、もっとそうだね。現実界には、前にも話したとおり、定まった
場所がない。「みなさまの右手に見えますのが現実界でございます」などと
指し示すことができるような場所じゃないからね。それは象徴界や想像界の
働きがあってはじめて、そのつど「その働きの外側」に生み出されるような
領域なんだ。だから象徴界が存在しなければ、現実界もそれ自身では存在す
ることができない。

『生き延びるためのラカン』斎藤環

 忘れないように、この本に載ってる「ボロメオの輪」の図を使って、三界
をシェーマしとこ。

EMちゃん
 できたら見せて。そういえば、千葉雅也さんの『現代思想入門』にもラカ
ンの精神分析の分かりやすい解説があったわね。

 子供は当初、まだ自己が独立しておらず、母と一体的な状態にあります。
いわゆる母子一体の状態です。なお、「母」と言っているのはここでは、そ
の存在なしでは生き延びられない他者、という意味です(女性の生みの親に
は限られないということです)。そのような広い意味での母が必要なわけで
すが、その存在はつねに自分のそばにいてくれるわけではなく、自分を置い
て台所やトイレに行ってしまったりします。子供はそのような分離を少しず
つ経験するわけですが、そうすると、ひじょうに不安な状態に耐えなければ
ならない。母の欠如を穴のようなものだとすると、まさに心にひとつの穴が
空くのです。
 理想的な状態から弾き出されることを「疎外」と言います。精神分析的に
は、母が必ずしもずっとそばにいてくれないということが最初にして最大の
疎外です。そしてそれがすべての自立の始まりなのです。この疎外は、母が
いたりいなかったりするというランダムさによるものです(子供には母の行
動の理由がわからない)。ここで根本的な不安を引き起こしているのは、偶
然性です。母なる偶然性です。
 どうなるかわからない。母が消えた。強烈な不安で緊張する。その後母が
戻ってきて抱かれ、お乳をくれるというのは、極端なマイナスからプラスへ
の逆転で、不安が大きいほど、引き換えに途方もない快が得られるでしょう。
 ここには「快」の二つの様相があります。第一には、緊張が解けて弛緩す
ること。安心です。しかしもうひとつ見逃せないものがある。第二に、偶然
に振り回され、死ぬかもしれないというギリギリのところで安全地帯へ戻っ
てくるというスリルであり、これは不快と快が混じったようなもので、こち
らの方が第一の快の定義よりも根本的だと言うべきではないでしょうか。第
一の定義が、普通の意味での「快楽」です。それに対し、第二の方では、む
しろ死を求めているようですらあるわけで、ここにフロイトの「死の欲動」
という概念が当てはまります。死の偶然性と隣り合わせであるような快を、
ラカンは「享楽」(jouissance)と呼びました。
 子供は泣き叫び、母を呼びます。泣くことが、不可欠なものを呼び寄せる
最初のアクションです。進化的にはそれは、母乳をもらいたいから、つまり
生命維持のためですが、これが欲望の根源なのです。子供はそのうち、おも
ちゃなどで遊ぶようになっていくわけですが、そういった対象には、母の代
理物という面がある。根本的な「欲しさ」の対象は母乳であって、おもちゃ
の欲しさなど、何か外的対象に向かう志向性は、母との関係の変奏として展
開していくことになる。成長してからの欲望には、かつて母との関係におい
て安心・安全(=快楽)を求めながら、不安が突如解消される激しい喜び
(=享楽)を味わったことの残響があるのです。

 さて、そこにもう一人の人物が介入してくる。父です。この「父」とは、
密接な二人の世界を邪魔するものです。これも実の父でなくともよく、概念
的に言えば、「第三者」の存在を意味します。子供にとって外的対象との関
係は母との関係の変奏だと言いましたが、そこから離れて、第三者的な外
部、すなわち「社会的なもの」を導入するのが、この「二」の外部にいる
「三」の人物です。それは母子の一体化を邪魔=禁止するのです。
 この禁止は、「ダメ!」と口に出すようなものではありません。母が子供
のそばからいなくなってしまうことがある、それと、二人の外部=第三者の
領域があるらしいという認識がつながってくる。母には母の事情があって、
ずっと子供だけを構っているわけにはいかない。そこで、自分以外の誰か=
第三者との関わりのために母がいなくなってしまう、つまり、母がその誰か
によって自分から奪われる、という「感じ」が成立してくる。父=第三者
は、ゆえに憎むべき存在であり、母を奪い返さねばならないということにな
る。これがいわゆる「父殺し」の物語であり、以上のプロセスを精神分析で
は「エディプス・コンプレックス」と呼びます。そのようにして、「外部が
ある」ということが子供において成立してくる。外部の客観的認識には、本
来の母子一体を邪魔されたがゆえの憎しみが伴なっています(精神分析的に
言えば、客観性には憎しみが伴なっているのです)。
 こうした父の介入を、精神分析では「去勢」と呼びます。ずっと母がそば
にいてくれるという安心・安全は、母の気まぐれ=偶然性によって崩れるわ
けですが、その理由は、父=第三者が世界には存在するからである。端折っ
た言い方になりますが、「客観世界は思い通りにはならない、だからもう母
子一体には戻れない」という決定的な喪失を引き受けさせられることが去勢
です。
 去勢という言葉は性的なものです。お乳を飲むとか抱かれて安心するとい
った快、そしてその欠如としての不快、それが根本にあるわけですが、精神
分析ではそうした快/不快がすでに性的であると考えます。後々、通常そう
言われるような性的な快/不快が、食欲や安心したいといったことから分化
してくる(が、根本ではつながっています)。ゆえに、快/不快の最初の段
階に介入する禁止を、性的意味を含めて「去勢」と呼ぶのです。

『現代思想入門』千葉雅也

 以前、哲学科の大学院生たちとの読書会で、何かの出来事について「エディプス・コンプレックス」に重なるところがあったから話したら、現在では、フロイトの理論は間違っていることが証明されていて、今さらフロイトですかって感じで、笑われたことがあるわ。

ESくん
 「客観世界は思い通りにならない」。まさに「去勢」体験じゃん(笑)

網口渓太
 その場にいなかったから詳しいことは分からないけど、笑う必要はないね。というか、専門家だとしたらなおさら笑ってる場合じゃない。古い理論に新しい理論を見い出すくらいの気概を持ってもらわないと。井の中の蛙だよ。

EMちゃん
 いい人たちなんだけど、専門分野に浸かり過ぎると、他分野との交流とか、アナロジーが固まってしまうのかもしれない。彼彼女たちは、連想ゲームは連想ゲーム、哲学的対話は哲学的対話って風に、真面目に分けてやってるわね。

網口渓太
 学問は関係を分断するために生まれてきたからね。家は「あらゆるものは
そもそも関係している」が根っこにあるから、アプローチが違うとは思うね。まぁ、社会勉強だね(笑)

EMちゃん
 そういうもんかしら。じゃあ、本が面白いからこのまま続けるわよ。

 母の欠如を埋めようとするのが人生です。しかしそれは決して埋められな
い。絶対的な安心・安全はありえないのであり、不安と共に生きていくしか
ない。だがそう悟っても、穴を埋めようとするーそれが人生です。根本的な
欠如を埋めようとすることが、ラカンにおける「欲望」です。その意味でラ
カンには「欠如の哲学」があるのです。
 たとえば「限定品のスニーカーが欲しい」とか、特別なアイテムに心惹か
れるというとき、自分が欲しているものの背後には幼少期の根本的な疎外と
の複雑なつながりがあります。これを手に入れなければと思うような特別な
対象や社会的地位などのことをラカンの用語で「対称a」と言います。人は
対象aを求め続けます。
 ラカン理論はひじょうに意地悪で、何らかの対象aを仮に手に入れたとし
ても、本当の満足には至らないということを強調します。対象aというのは
ある種の見せかけであって、それを手に入れたら幻滅を同時に味わうことに
なり、また次の「本当に欲しいもの」を探すことになる。そうやって人生は
続いていく。
 そう言うと人生は虚しい感じがしますが、でもそれでいいんです。もし何
か手に入って、「よし、これで人生の目標が達成されたぞ」となったら、そ
の後生きていく気力がなくなってしまいます。結局、何らかの対象aに憧れ
ては裏切られるということを繰り返すことによって人生は動いていくので
す。こういうロジック自体をメタに捉えることによって、欲望を「滅却す
る」方向に向かうのが仏教的な悟りなのでしょう。

 おおよそ以上がラカンの発達論で、一応エディプス・コンプレックスの基
本的な理解を得たことになります。その上で、ラカンの有名な三つ組みの概
念、「想像界・象徴界・現実界」について説明しましょう。
 ラカンは大きく三つの領域で精神を捉えています。第一の「想像界」はイ
メージの領域、第二の「象徴界」は言語(あるいは記号)の領域で、この二
つが合わさって認識を成り立たせている。ものがイメージとして知覚され
(視聴覚的に、また触覚的に)、それが言語によって区別されるわけです。
このことを認識と呼びましょう。第三の「現実界」は、イメージでも言語で
も捉えられない、つまり認識から逃れる領域です。お気づきかもしれません
が、この区別はカントの『純粋理性批判』に似ていないでしょうか。後に
「否定神学批判」のところで説明しますが、実はラカンの理論はカントOS
の現代版と言えるものです(想像界→感性、象徴界→悟性、現実界→物自体
という対応になっている)。
 人間の発達では、まずイメージの世界が形成されていきます。まだ自己が
はっきりせず、刺激の嵐にさらされている生まれたばかりの子供は、対象を
十分区別できず、すべては境目が曖昧で、ぼんやりつながっている。知覚に
は強弱の差があり、強い部分に注意が向くとしても、それはまだ他から明確
には区別されないでしょう。
 そこに言語が介入するのですが、言語が行うのは「分ける」ことです。名
前を与え、イメージのつながりを切断し、すべてがごちゃごちゃにならない
よう制限する。一定の形態を指さしながら言葉を言うことで、世界が対象に
分けられていく。
 その過程で、子供は自分自身の姿を初めて見ることにもなる。鏡によって
です。そして名前を呼ばれ、そのひとまとまりのイメージを自分のものとし
て引き受けるようになる。このことをラカンは「鏡像段階」と呼びます。
 鏡像段階を通して自己イメージができる。それは想像界と象徴界の交わり
によって可能となるわけです。人間は自分自身の全体像を見ることはできま
せん。鏡によって間接的に(しかも反転した像で)見るしかない。自己イメ
ージはつねに外から与えられる、というのがラカンの重要な教えです。鏡像
というのは、鏡に映った姿だけではなく、自分について人から言われること
や、有名人やアニメのキャラをモデルにして自分のあり方を調整するといっ
たときの外的なものすべてを指します。大人になっても我々は日々、鏡像的
な自己イメージの作成を続けています(だから、「自分探し」は決して終わ
らないのです)。端的に言って、自己イメージとは他者なのです。
 そして、先に説明した去勢によって、想像界に対し、象徴界が優位になり
ます。混乱したつながりの世界が言語によって区切られ、区切りの方から世
界を見るようになる。よくわからない色や音の洪水のなかで、動く何かを見
て「ワンワン?」と名前を探るのではなく、最初から「犬」という区切り=
フィルターに当てはまるかどうかでものを見るようになる。象徴界の優位と
は、世界が客観化されることです。ですがそれは、原初のあの幸福と不安が
ダイナミックに渦巻いていた享楽を禁じることを意味するのです。
 ところで、小さい頃はただ好きに線を走らせて、前衛的に見えるような絵
を描いたりしますよね。成長してくると「おうち」とか「パパ」とかを描く
ようになり、しかも、丸を二つと横棒を描いて「顔」だとするような記号的
で一対一対応的な表象によって覆い尽くされていきます。象徴界によって想
像的エネルギーの爆発が抑圧されてしまうのです。
 想像力はいろんなものを区別せずにつなげていく。想像力という言葉は倫
理的な意味でも使われますね。たとえば「地球の裏側の貧しい人のことにも
想像力を広げよう」みたいに。そこでは、今日本で生活している自分とまっ
たく境遇が違う人を分身のように捉えてみなさい、ということが言われてい
る。言い換えるなら、まさに区別を超えたつながり、あるいは区別の手前の
つながりに戻ってみましょうと言っているのです。
 ところが、言語は分別ができるようにするもので、「こっちはこっち、向
こうは向こう」ということになります。ですから、言語習得というのはある
意味世界を貧しくすることなのです。だけれど、言葉を習得しなければ、人
間は道具をまともに操作することすらできません。おそらく体もまともに動
かせないでしょう。動物の場合なら、言語を習得することなしに一定の行動
をとることができますが、動物が本能的に物事を区別し分節化して捉えられ
ているのに対して、人間は言語習得との関係で世界を分節化し直すという
「第二の自然」を作り出さなければ、そのなかで目的的な行動をとることが
できないのです。言語とか、ドゥルーズの言い方を使えば「制度」の一種で
す。
 目的的、実利的にものを区別して行動する「ちゃんとした」人間になって
いく過程で、境界を超えていろんな物事を接続するような想像力は弱まるこ
とになります。
 だけど、なくなりはしない。想像力のリゾーム的展開と言語的分節性は人
間において並立しています。だからとくに芸術を教育するときには、たんに
「これはコップだから」とか、「あの人は自分とは全然違う人生だから」と
かいうことで切り離さないで、さまざまなものを近づけて化学反応させるよ
うな思考が重要なのです。およそ縁遠いものが実は分身的につながるとした
ら、と考えてみること。「芸術とは子供になることだ」とよく言われます
が、精神分析的にはそれは以上のような意味なのです。

 そして三番目の現実界です。
 イメージと言語によって認識が成立し、意味が生じているわけですが、ま
ったく意味以前的にそこにあるだけ、というのが現実界です。現実界に直接
向き合うことはできません。そういう「認識の向こう側」があると仮に想定
してみましょう。疲れていたりして、見慣れているものが何かよくわからな
くなったりするときは、そういう外部にちょっと近づく瞬間です。しかし通
常、現実界に向き合うことはありません。
 では、意味以前の現実界とか何か。それは成長する前の、あの原初の時で
す。刺激の嵐にさらされ、母の気まぐれに振り回されていた不安の時、不安
ゆえの享楽の時です。それが認識の向こう側にずっとあるのです。
 ここでラカン理論の変遷について述べておきます。「想像界から象徴界優
位へ」という話は五十年代の初期ラカンで、その後、六十年代に現実界の位
置づけが問題になります。ラカンは六〇年代=中期以降に現実界を重視する
ようになった、と覚えてください。
 これこそが欲しかったものだ、と何か対象aを求め、手に入れては幻滅す
るのが人生だという話をしましたが、人はつねに、これこそという「本当の
もの」を求め続けているわけです。これが「本当のもの」かと思って何か=
対象aを得ても、「本当のもの」はまた遠ざかってします。対象aを転々と
することで、到達できない「本当のもの」=Xの周りをめぐっていることに
なる。このXが、イメージにも言語にもできない「いわく言いがたいアレ」
としての現実界なのです。あの原初の享楽!
 それは成長し、認識が成立していく過程で失われたものです。幼少期に原
初的な満足を喪失したということがつねに世界の影として残り続けているの
です。

『現代思想入門』千葉雅也

 千葉先生の解説分かりやすすぎ。素敵。まぁ、この本をおすすめしてくれたの、哲学科のフーコーを専攻している大学院生なんだけど。うん、ゆるす。

ESくん
 ラカンが有名になったのって、ボクもこの言葉がずっと引っかかっている
んだけど、「無意識はひとつのランガージュとして構造化されている」って
いう言葉がきっかけだったんでしょう?

網口渓太
 「無意識は言語のように構成されている」ね。松岡正剛さんはラカンの千
夜千冊のなかで、ラカンのいう無意識は、少しわかりにくいかもしれないけ
ど、他者の語らいとしての無意識で、自分の中だけにある無意識ではなくて、他者たちとともにある無意識だと書かれていたね。

 そもそも自己としての誰かは、いつも自分で自分のことを語っているつも
りになっている。しかしながら自分のことを語ろうとすればするほど、その
ランガージュはいつのまにか他者を語っていることが多い。なぜなら自己と
いうものは、もともと他者との比較においてしか芽生えない。
 一方、他者は他者で勝手なことを語っているようなのだ。けれども、その
「他者の語らい」は、ラカンによれば、自分のことを語っているらしいとい
う他動的なランガージュの印象になる。これをいいかえれば、「語られてい
る他者としての自己」にこそ無意識があるということになる(らしい)。そ
うすると、どうなるか。自己と他者の“切り分け”の具合にのみランガージュ
としての無意識があるということになる。これがラカンによると「人間は、
ランガージュの構造が身体を切り分けることによって思考しているのです」
という意味になる。

松岡正剛の千夜千冊911夜『テレヴィジオン』ジャック・ラカン

 うん、ややこしいね。まぁでも、家らはここでラカンやってるから。

ESくん
 ラカンやってるって何(笑) あぁ、なるほどね、たしかにやってるかも、
ラカン。

EMちゃん
 客観世界は思い通りにならない。でも、それだからこそ、人生は続く(笑) ジジェクがあの格好で資本主義を語っていたの、何か深読みしちゃうわね。変なの。

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