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『我が家の新しい読書論』10-2

ESくん
 今日の輪読の箇所を予習してたんだけど、そうしたら『夫婦茶碗』の筒井康隆先生の解説を思い出してさ。ここなんだけど最高なんよ、ちょっと見て。

 これから町田康『夫婦茶碗』の解説を書くわけであるが、解説というもの
はだいたいにおいて、褒めねばならんものである。したがってわしはこれか
ら町田康『夫婦茶碗』を褒めることになる。褒めるといっても、何の根拠も
なしに褒めるわけではない。わしが現在翻訳途上にあるA・ビアス著『悪魔
の辞典』(まだ「G」の翻訳中であって、前途遼遠)の一項目に、こんなの
がある。

 ADMIRATION【称賛】名 他人が自分に似ていることを馬鹿丁寧に評価
              すること。

 これはだいたい的を得ていて、作家が作家を褒める場合は、相手の、自分
にない資質だの、自分にはとても手が出ぬ技法などには気がつかず、または
気づいていても言及せず、その作家の自分に似た部分ばかりを、それとはわ
からぬように、手を替え品を替えて称揚する。だから、前記ビアスの文中で
訂正すべき部分はといえば「馬鹿ていねいに」の部分であり、ここは「手を
替え品を替え」にすべきであろう。つまり手を替え品を替え、遠まわしに自
分を褒めるのである。こんなことは今まで解説者の誰も書かなかったことで
あるが、なぜ書かなかったというと、恥ずかしくてかけなかったかアホであ
るかのどちらかだったからである。あるいはわしが、恥ずかしいことも平気
で書くアホなのかもしれぬのだが。

『夫婦茶碗』町田康

 「遠まわしに自分を褒めてる感じ」、確かに文学作品の解説を読むときに
毎回ちょっとそう思ってたかもって。違和感が言語化されてすごいスーッと
した。

EMちゃん
 今度から絶対解説をこの目で読んでしまうわ。流石は『悪魔の辞典』ね。

網口渓太
 自分が書いた作品の解説を、自分が好きな作家が、自分と似た部分と重ね
て書いてくれたら、嬉しいやろうね。町田さんは筒井さんの作品好きやしね。

EMちゃん
 そうだそうだ! ブルータスの「危険な読書」の特別編集号で町田康さん
が「筒井康隆と私」ってタイトルで、筒井さんの評論を書かれてたわ。私も、マチコーのファンだから。

ESくん
 なるほど。解説文の「恥ずかしい」が別の意味に思えてきたよ(笑)

網口渓太
 「うしろめたさ」的なね。じゃあ、ぼちぼち始めましょうか。今日は179
ページの2行目からです。

 われわれの外部世界には、さまざまな信号や信号系がノイズとともに混在
している。これはこのままでは解釈できない。
 交通標識は、赤の信号が停まれで青の信号が進めであると教えられないと
わからない。わからないうちは信号もノイズである。イヌが耳をふせる信号
はイヌのあいだでは記号にもなりうるが、虫やわれわれにはたんなるノイズ
である。しかし、イヌを飼っている者ならこの信号から情報の意味が読みと
れる。そのしぐさが記号解釈の系におきかえられるほど充分な観察がストッ
クされているからだ。情報はつねに生きている。
 情報技術は、そうした外部現象の世界と内部理解の記号のあいだにコード
変換を介在させる。コード変換といってもそんなにわかりにくいものではな
い。情報技術の歴史で、最も初期にコード変換をつかった最大の成功例は文
字の発明である。文字によって、われわれの言語によるメッセージ情報は一
過性のものではなくなった。
 しかし、「鳥」という文字が、空を飛ぶくちばしのある例のホヤホヤとし
たやわらかいものをさすコードであると教えられないかぎりは、その文字は
意味をなさない。ノイズである。われわれが他国語の文字を見て、そこから
意味の系列をひきだせないのはそのためだ。つまり、情報技術はどこかで意
味を誕生させているプロセスをもつ。最近、中国ではしきりに簡体字という
ものがつくられているが、たとえばそのひとつに「」という文字がある。こ
れは一字で図書館という意味をもつ。けれどもそこにもコードと意味の関係
の共有が前提されなければならない。それを図書館と見ないで箱入り豪華本
とか遺書とか見るへそまがりがいれば、この文字はコードとしては機能して
いないことになる。

『情報と文化』情報文化プラットフォーム編

 どうだろう、どこか気になった箇所ある?

ESくん
 そうだね、ボクは秩序があってカオスがあるという二元論に納まらない対
話をしたいから、感想の前にちょっと別の著書の引用を重ねさせてもらうね。

 『生成』の第二部で扱われるのは、美から一転して暴力の主題である。暴
力をめぐるセールの思索の足跡を、彼の文章を拾いながら、辿ってみること
にしよう。ノワーズ(NOISE)という言葉には、もともと騒乱、闘争という
含みがあったが、この語のそうしたニュアンスは、後にはほとんど失われて
しまった。あるいは、隠されてしまった。なぜだろうか。
 ホッブズにせよロックにせよ、いわゆる自然状態における人間のあり方に
ついて考察するから、共同体社会が秩序をもつものとして成立した、その起
源を語っている。自然状態における人間は、「万人の万人に対する闘争」を
行っていたという説明が、そこではなされてきた。この闘争状態を調停し、
秩序をもたらすものとして、唯一なるものとしての「至上権」が要請される
それが、社会契約論による事態の収拾であった。
 しかしながら、ここで一つの疑問が生じてくる。「万人対万人」などとい
った、いわば多対多の暴力・闘争状態がどのようなものであるのか、人はそ
れほど容易に思い描くことができるのだろうか。実際のところ、『リヴァイ
アサン』でホッブズが描いているのも、集団と集団の闘いであり、そのなか
で、最後に生き残るものが最大の、唯一の力であるような闘争である。唯一
の至上権が形成される、あるいは、それを前提に社会契約が結ばれる、とい
った状態を前提としてしか、ここでは暴力の問題を捉えることができないの
だ。彼らの思考においては、暴力は、起源の神話のうちに追いやられてい
る。
あるいは、隠されている。ノワーズな美女が片足しか見せなかったように、
ノワーズなもの、あるがままの暴力も、背後に隠れたままである。
 いったいどうして、あるがままの暴力を可視化することが困難なのだろう
か。それは、多対多の相互的な影響関係を、そのうちのどちらかが決定的に
優位に立つという状態を前提としないまま捉える思考上の方法論を、私たち
がこれまでもってこなかったからである。つまり、「あるがままの多」を可
視化する手段を、私たちがもたなかったために、多の多に対する暴力も、
「唯一なるもの」に回収するかたちでしか考えることができなかったのだ。
現に作用しつつあるものとしての暴力も、そこでは特定の神話的な起源に隠
蔽されるかたちでしか、捉えることができなかった。

『ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークまで』清水高志

 あぁ、セール面白れぇ。集団を統治するためには、交通標識とか文字とか、コードと意味の関係が共有されている必要があるということを再確認してる。と同時に、「あるがままの多」を可視化する手段や方法がないのも同様に。

網口渓太
 ディオニュソス(マニア「熱狂」とオルギア「騒擾」の神)もスサノオも荒ぶる神は原初から隠されていると。この前の斎藤環さんと佐藤優さんが話されていたトラウマの話もそうだよね、創作話をつくることで自分たちのコンプレックスを乗り越えようとした(→)。現代の日本人なんて、秩序を壊すもの、ルール違反がとにかく許せないみたいだから、自分と直接関係のない人物の問題にまで顔を突っ込んで、何かが生まれる可能性を秘めたかもしれないノイズまで取り除いてしまっているかもしれないね。

EMちゃん
 芸能人とかイメージが商品の職業の炎上の様子は象徴的ね。集中砲火を浴
びている姿は、まさに贖罪の羊(スケープゴート)よ。渡部さん……、宮迫
さん……。

ESくん
 止めなさい(笑) イメージの酔いからは、覚めていたいよね。続けるよ。

 理論において、多対多の闘争を可視化することは、いかにも困難であっ
た。とはいえ、私たちが日常的に、闘争を遊戯として、スペクタクルとして
眺めることを何よりも好んでいるということもまた、逆説的に事実なのであ
る。集団によって行なわれ、集団が熱狂するゲームは、まさにそうした性質
をもつのだと、セールは言う。

  スポーツの観戦は、必ずしも人が思っているようなものではない。それ
 は文化であり、私たちにとって共にあるための最終的な方法の一つなの
 だ。それに対する熱狂や信頼や参加が、死にいたるほどのものであるよう
 な公的な集まりを、あなたはご存知だろうか。私は心臓麻痺で三人まで死
 んだ試合が、いくつかあったことを知っている。興奮。政治や宗教や文化
 の集会で、興奮のあまり死ぬものが、今日どれほどいるだろうか。〔中
 略〕あなたが思い描くのとは違って、ラグビーには観客はいない。たとえ
 ば一座の役者たちと平土間を分けるような距離は、集団とそのチームの間
 にはないのだ。                 (「集団的狂乱」)

 とりわけ球技のような集団によるゲームにあっては、スペクタクルを観る
ものと、そこで闘うものたちは、ほとんど距離がないほどに一体化してい
る、とセールは述べる。それは多の多に対する闘争をまざまざと描き出すも
のでありながら、集団や共同体を形成させる力もまた、そこでは蠢いている。

  ここにいる十五人〔チーム〕によって、私がここにいるのは、小教区
 や、鏡楼や、村によってここにいるというふうではない。それらはもう消
 えてしまった。そうではなく、インディアンが狐や、蛇や、野牛でありう
 るようにしてなのである。それは私のトーテムであり、私であり、私のグ
 ループ全体なのだ。
  民俗学者も、非常に原始的な宗教の歴史家も、そのことによく耳を傾け
 るべきだ。もっとも奥底のアルカイスムの痕跡は、考えているような場所
 にあるのではなく、そこに、私たちの前に、私たちの内に、驚くほど活き
 活きと存在しているのだ。            (「集団的狂乱」)

 闘争のなかでチームのメンバーは結束しつつ、お互いに競いあってもい
る。ラグビーの選手たちは、先に準ー客体について述べた個所でも触れたよ
うに、媒体となるボールを軸としてネットワーク状で流動的なそのフォーメ
ーションを形成し、お互いの行動を意識し、牽制しあいながら、試合を進め
ていく。この集団を自在に織り上げるシャトル(杼)、媒体は競技場で躍動
し、能動的で意表をつく動きを獲得していくーー準ー客体となっていくが、
この集団そのものによって、観客たちは熱狂し、巻き込まれ、これと一体化
した共同体を形成するのだ。ゲームの帰趨によっては、心臓麻痺で死者が出
るほどの興奮がみられ、チームそのものが観客にとってのトーテムとなる。
チームを愛するスタンドの紳士たちは、場合によっては暴徒と化すこともあ
るが、実際のところ、チームと一体化した紳士とフーリガンとは、同じもの
の両側面であるとセールは言う。共同体の定礎、社会秩序の発生の起源に
は、いわゆる社会契約のように、「まず暴力があり、それから秩序が生まれ
る」といった順序があるのではなく、こうした闘争と秩序が混然一体となっ
た状況があるのだ。準ー客体と複数の選手たちによって織りなされるゲーム
は、それを効果的に可視化する役割を果たすし、そもそも共同体が成立する
ためには、このような意味での可視化が行われねばならないとセールは考える。

  それゆえ暴力の限界にこのように身をさらし、また立派にふるまうよう
 にしたまえ。この経験と、それに続く修正は、文化的であるといって差し
 支えないばかりか、文化の源泉なのだ。そんなわけであの怒号に、耳を澄
 ませてみるといいーーそれらはもっとも深奥に埋められたアルカイスムの
 こだまか、再現なのである。この儀礼は、宗教的なものだ。私にとって宗
 教とは、はるか以前から忘れられているもの、それを言い表す言葉が喪わ
 れ、ずっと遠くから文献なしで私たちのもとにやってくる、野蛮で、野生
 のものなのである。               (「集団的狂乱」)

 アルカイックな宗教の儀礼も、まさに先に述べた意味における可視化を可
能にしたものであったと、セールは指摘する。社会秩序、集団に共有される
文化の淵源が、この種の儀礼と深く関わっていたというのだ。共同体のはじ
まりにあったノワーズ(Noise)なもの。このノワーズなものに「耳を澄ま
せてみるといい」と、彼は促している。

『ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークまで』清水高志


網口渓太
 なるほどね。ESくんの興味は、理解ができる意味のあるものを片端から
集めるパラノ的なやり方ではなく、理解ができない意味がないものとその場
でなってしまうスキゾ的な物事の成り立たせ方の方だね。

ESくん
 コードが大事なのはわかる。社会を成り立たせるためにも必ず必要。でも、社会以前に人間(本来)がベースだと思うから、身体のものさしでみていると、パラノに蓄えるよりも、スキゾに逃れていきたい気分ではあるよね。

EMちゃん
 コードを共有できていたら、共通点とか見つかってさ、筒井先生の「遠ま
わしに自分を褒める」みたいに、ノリが合って楽しくて楽ってイメージが浮
かぶけど。そっか、もしかしたら世間はそんな軽い空気すら、「仕事してな
いで遊んでる」みたいなルール違反を感じとって取り締まるんじゃない。

ESくん
 わざわざ残念な方になりにいってんじゃん(笑) でもそんな感じするわ。

網口渓太
 社会が窮屈であるからこそ、本や著者や読書の存在が、避難場所になるの
かもしれないね。そこでは違う世界を作れるから。じゃあ、続きを読もう。  

 情報技術の原理では、このコード変換によって元の意味とデコードされた
あとの意味が変わらないことが原則だ。情報通信技術ではこの原則はほぼ守
られている。
 ところが問題がありそうなのは、情報技術を社会技術とみなしてこれをユ
ーザーの海に広げたとき、はたして正確な情報コードの変換がおこなわれて
いるのかどうか、それをチェックする方法がないということなのだ。われわ
れは手紙や電話の内容がどこかで手が加わっているなどとはおもわない。し
かし、それは相手の文字や声によって判断しているかぎりのことであって、
たとえばこれがワープロ文字で画像情報として送られてきたのだとすると、
そのチェックもままならないことになる。
 もうひとつの問題は、そうした情報技術によって次々につくられたコード
やモードを、だれもが一挙に理解するわけではないということがある。交通
標識の赤や青の信号ですら、家庭や学校で教えないかぎりわからない。その
理解が全員に共有されているということが前提になって、われわれは初めて
あの危険きわまりない交通ラッシュの都会を歩くことができている。もしコ
ードの理解にズレがあれば、すくなくとも交通情報にかんしては一巻のおわ
りだ。
 では、ほかのコードやモードの世界、これまでの言い方でいえば、さまざ
まな情報メディアの世界ではどうなのか。情報社会の拡大と情報技術の拡張
の中で、われわれが釈然とできない理由がここにある。
 たとえば前者の情報変換の問題では、テレビの現場中継は、現場の光景が
そのままダイレクトに映っているとおもえるからよいのであって、そこにで
たらめな情報変換がされていたのでは話にならないということがある。しか
し、現実にはいわゆる「やらせ」もありうるわけなのだ。

『情報と文化』情報文化プラットフォーム編

 人の数があってこその市場の活性化だけど(→11-1)、人数が増えると
お上のわからないが増えるから、そうならないように監視をしたりルールを
設定して、取り締まりを強くする。確かにまるで誰かひとりの為だけの世界
って感じはするかもしんない。

ESくん
 「ポスト・トゥルース」ね。『one-piece』のイムさまみたいな。

EMちゃん
 「SFプロトタイピング」もある意味「やらせ」みたいなものよね。でも、似て非なる印象なんだよな。正義も悪も「ウソ」を使う。

網口渓太
 ルフィーは海賊だけどいいやつみたいに、矛盾している方が本来って感じ
がするよね。ついでに次のページも読んでしまおう。

 十年ほど前の映画に『カプリコン1』という作品があった。アメリカ政府
が宇宙開発競争にしめしをつけるために火星に宇宙飛行士をおくるのだが、
これを全国中継しているニュース画像のいっさいが、砂漠の真ん中のスタジ
オでつくられていたというショッキングな情報操作をあつかったものであ
る。話はようやくそこを脱出した宇宙飛行士の一人がトリックをあばくため
に壮絶な闘いを展開するという進行だったが、このトリックはごく一部の指
導者しか知らされず、NASA の機器類にもニセのデータ情報が同時中継され
ていたという手のこんだ「やらせ」になっていた。『スパイ大作戦』でもお
なじみの手口だ。
 一方、後者の情報のズレの問題では、「やらせ」のレベルにあわせていえ
ば「いじめ」がおこっていよう。教室の授業から流行の遊びにはじまってフ
ァミコンにいたるまで、子供たちには日々解読しなければならないコードが
山とある。
 このコードを子供たちがおなじ解釈とおなじ進行で理解することなどとう
ていありえない。真の理解の程度などどうでもよく、ともかくコードにたい
してカッコよく対応できるかどうか、それができなければ「いじめ」になる
という構図だ。これは子供社会のみならず、情報技術がOA という名目で
どっと流れ込んだ企業社会でもおこっている。窓際族や壁際族、OA病、パ
ソコン恐怖症、テクノストレス、はてはコンピュレックスーコンピュータ・
コンプレックスーなどといういじめ用語が渦巻いでいる。

『情報と文化』情報文化プラットフォーム編

ESくん
 「いじめ」な。クセのある子とか、気になる子とか、いわゆる例外の子供
っていじめの対象になりがちだけど、あれもコードの理解の有無が関係する
のね。柔軟な子供の頭でも駄目なのか!

EMちゃん
 「いじめ」と「いじり」の線引きも難しいよね。下手くそとか、話下手と
か、コードの読みのズレが笑いになる事もあれば、陰湿になる事もある。

網口渓太
 みんな初めは下手で当然なのにね。

EMちゃん
 あっ、そういえば京子さんもそんな話ししてたな。

 ウワサとスキャンダルって似ているけど、スキャンダルはある種の「真
実」とも言えるものだけど、ウワサは情報に対する積極的な誤読です。
 そのウワサも、ムラっぽい古典的なイビリとしての「あそこの嫁さんがど
ーした」的なものから、都市的な過剰な情報から生まれた新種の突然変異的
ウィルスみたいなものに進化(?)しているみたいです。(中略)
 実は元をたどれど根っこ無し、火の無い所に煙立つというものばかりらし
いですが、どれもこれもイソップ童話のような「教訓」をふくんでいます。
 表のメディアで流れている情報とそれを受ける人々とが上手く関係出来な
い時に、ある種のノイズとしてウワサという情報が生まれ、共振され、拡大
してゆくのではないでしょうか?
 もし人間が宇宙に行く時代が来た時に人間はどんなウワサを立てるでしょ
う?「宇宙船の中でセックスして生まれる子供はどうも両性具有が多いらし
い」とかね(へぼい例…)。

『戦場のガールズ・ライフ』岡崎京子

 ウワサは「元をたどれど根っこ無し、火の無い所に煙立つ」って的を得す
ぎじゃない?

ESくん
 筒井先生の解説はどこか「真実」を語っているような鋭さが好みだったけ
ど、スキャンダルていうのは確かに。でも、ウワサが絶えないって事は、や
っぱりみんなも、よくわからないものを摂取せずにはいられないって事でし
ょう。

網口渓太
 スキャンダラスでクセがあるといえば、マチコー先生はまさにプロトタイ
プだよね。いやぁ、かなり広がったね。じゃあちょっとここいらで、いくつ
かキーポイントを立てて、まとめようか。コードの編集、モードの編集。

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