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『我が家の新しい読書論』11-2

ESくん
 もっと競技人口が増えてもいいと思うんだけど、読書って。まぁ、他所は他所、家は家の価値観ではあるけど。

EMちゃん
 競技って(笑)、まぁ確かにそうね。SNS だとたくさん見かけるのに、周囲には数えられる人数しか、習慣的に本を読む人っていないわね。
 
ESくん
 読書って十種競技ぽくない? ボクなんか本を読んでなかったら、時間が大分と余って仕方がないけどね。

網口渓太
 プロもアマもないし、読書をしていたってお金が儲かるわけでもない。むしろ部屋が狭くなって家族から嫌味を言われる(笑)。あと、読書をして知識が増えたからといって異性にモテるわけでもないからね。深く考えない方がやりとりがスムーズでしょ。むしろ、千葉雅也さんが『勉哲』で書かれているように、キモくなる期間がしばらくある。理由は様々にあると思うけど、性とお金の問題が根っこにあると思うよ。

ESくん
 性とお金か、一概には言えないだろうけど、たしかに哲学者とか作家って、生涯独身の方が少なくないよね。彼らは熱心な読書家でもあったけど。プラトンとかニーチェとかヴィトゲンシュタインとか。

EMちゃん
 写真をみるとなかなかのイケメンなのにね。ニーチェとかヴィトゲンシュタインとか、どんな振る舞いをしていたのかタイムスリップしてみたいわ。しかし、メンズっていつもアタマのなかが女の子のことで一杯なんだなって、女としては感じるわね。

ESくん
 反応速度で察するよね(笑)。渓太くんの話は、何かゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』みたいだな。愛妾経済って奴。

網口渓太
 流石だね、イメージの背景にあった。男が女にモノを貢ぐ「愛妾経済」が資本主義のルーツだって、ゾンバルトが言ったんだよね。

EMちゃん
 やだー、フェミニストから嫌われそうな感じ。

網口渓太
 その通りなんだよね。せっかくだから、ちょっと面白い本があるから紹介するね。

 恐らく多くの人々が、哲学というものを誤解しています。
 哲学の歴史とは「現実からの飛翔」の歴史であり、そして真の哲学者はみ
な「喪男(モダン)」なのです。
 そうです。哲学とは、「モテない苦しみ」や「自分が喪男である苦しみ」
の謎と原因を解き明かそうとするための思索活動なのです。
 すべての人間が「モテ」側に立てるのであれば、哲学は不要でした。しか
し現世では、人間は「モテ」と「喪」に二分されてしまいます。なぜだなぜ
なんだ。そういう存在論的な疑問を抱いた喪男哲学者は、世界の意味とか人
間の精神というものについて悩まなければならなくなったのです。
 そもそも、酒池肉林のハーレムで女に囲まれて遊び踊っている六本木ヒル
ズ族みたいな勝ち組IT長者が、哲学などに人生を捧げるわけがありません。
彼らのような勝ち組と、そして、そういう勝ち組になりたがっているけど一
生なれない大勢の負け組人間にとって、哲学とは「処世術」のことです。要
領よく生きるためのハウツーこそが現代日本における「哲学」なのです。そ
の証拠に「○○の哲学」と銘打たれた本を書店の一般書コーナーで漁ってみ
てください。どこにプラトンがおりますか。どこにニーチェがおりますか。
「処世術」と呼ぶと生々しくてお洒落じゃないので格好つけて「哲学」と言
っているだけなのです。
 逆に、本物の哲学の専門コーナーに行くと、今度は何を書いているのかさ
っぱりわからない頭の良さそうな本が並んでいます。どれもこれも一般大衆
に読まれることを最初から拒否したかのような分厚い装丁、意味不明の内
容。これらの本がいわゆる「ガチの哲学書」ですが、こんなの読む人、日本
に数千人しかいませんよ。だいたい何書いてるのかわかりません。こういう
のはいわゆる一九八〇年代ニューアカブームの時から出てきたわけですが、
つまりは「知」というファッションなのです、「知」です。「知」とタイト
ルに銘打たれた本を並べてみてください。なんだか一部のインテリサブカル
女にモテそうではありませんか。どれもこれも著者近影がなんだかカッコよ
くありませんか。そうです、これらは「処世術系哲学」とは対極に位置する
「ニューアカ系・知の哲学」ですが、これも結局「モテ」が目的となってい
る点では「処世術哲学」とたいして変わりません。ノリが体育会系か文系
か、モテたい相手が水商売系のキャバ嬢かそれとも眼鏡インテリフェミ系っ
娘かという違いだけなのです。
 これらはいずれも「現世利益」を求めて読まれる本ですので、本当の意味
では哲学とは呼べません。
 本当の哲学とは、モテつまり「現世利益」を目的としたものではないから
です。
 本当の哲学は、「モテない苦悩」から始まるのです。

『喪男【モダン】の哲学史』本田透

ESくん
 書き言葉だけど、著者のモテへの熱意か非モテがゆえの憎悪に圧倒されて、この勢いに納得させられてしまいそうになるよ(笑)。話半分だけど、哲学を「現世利益」と並べて語ってる趣旨には多いに同意したい。

EMちゃん
 「本当の哲学」とか「モテない苦悩」とか、ちょっとマキシマム・ザ・ホ
ルモンみたいじゃない(笑) 白帯主義的な。

ESくん
 ないないか。対象aとか生老病死とか、とかく人間は生きづらいね。本田先生によって、われわれの大好きな浅田彰先生のスキゾの思想も「処世術哲学」、所詮はモテを意識しているニセモノの哲学だと指摘されてますな。

網口渓太
 まず細部は置いておいて全体を掴もう。ボクも、読書は「現世利益」を目的としたものではなく、「遊び」、さら
に言うと「深い遊び」だと思っているから、本田先生と意見の元は同じだと思う。
 モテ男(女)と喪男(女)に分けて、古代ギリシャから始まる哲学史を読んでいく仕立てが面白いよ。ボクも、ベンヤミンの『パサージュ論』を下敷きにして、遊学の徒として、本を読む読者を大きく3つのプロトタイプに分けて考えていて、

 ブルジョワジーが、封建社会における貴族の特権であった「閑暇」を享受
しうるまでにはいたってないが、「無為」を見せびらかす程度には経済的に
成熟した状態、それこそがベンヤミンが『パサージュ論』で扱おうとしてい
る資本主義の後期段階、ようするに「近代」である。この時代にあって、初
めて、遊歩者、賭博者、研究者といった「無為に過ごす者」が生まれ、新し
い形の芸術活動が可能になる。

(略)

  天才たちの大部分も偉大な遊歩者だったのだ。ただし、勤勉で実り豊か
 な遊歩者だったのである。……芸術家や詩人が一番仕事に没頭しているの
 は、彼らが一番仕事が暇そうに見えるときのことが多い。」

 この『一九世紀ラルース』からの引用は、芸術家や詩人が無為によって
「遊歩者」になるのではなく、無為に過ごす「遊歩者」が、芸術家や詩人に
なるという関係を証明している。というよりも、「無為によって得るもの
が、労働によって得るものよりも価値がある」という考えが「遊歩者」をと
らえたとき、「無為」は、その意味を変える。無為は、外観とか逆の貪欲さ
を帯びるようになる。

  探求する者〔Student〕にとっては「決して探求の終わりはない」。賭
 博師にとっては「決してもう十分ということはない」。遊歩者にとっては
 「必ずまだまだ見るものがある」。無為は無限に続く欲求をもつべく定め
 られている。その無限性は、どんなものであれ単なる感覚的快楽には基本
 的にないものである。

 ではなぜ、無為がこうした無限の貪欲さをもつかといえば、それは、ある
種の労働、すなわち狩猟のような原始的労働に内在する自発性をそのうちに
含んでいるからである。

  探求者、賭博師、遊歩者に共通している自発性はひょっとしたら猟師の
 それではなかろうか。つまり、すべての労働の中で無為ともっとも密接に
 絡み合っている労働のこのもっとも古い形態のもつ自発性なのではなかろ
 うか。

 なかでも、探求者と猟師の間のアナロジーは、ベンヤミンが探求者(研究
者)であるだけに、ことのほか強調される。

  探求する者〔Student〕と猟師。テクストとは、その中で読者が猟師と
 なる森である。下草のあいだのパチッという音ー着想、おびえる獣、引用
 ー獲物の一つ(どんな読者もが着想をえるわけではない)。

 探求者と猟師の類縁性は、たんにこうした表層のレベルにとどまっている
ものではない。労働と無為との関係において、両者は酷似しているのだ。

  経験がもともと存在していなければならない唯一の労働活動は、狩猟で
 ある。そして狩猟は労働としてはきわめてプリミティブなものである。痕
 跡を追いかける者の経験は、なんらかの労働活動の結果であるとしても、
 それとはほとんど無縁であるか、まったくそれと切り離されているかであ
 る。(……)経験は偶然の産物であり、本質的な未完結性を帯びている。
 これが、無為に過ごすことが好んで引き受ける義務の特徴である。知るに
 値することの収集は基本的に完結不可能であり、そうしたものの利用可能
 性は偶然次第であって、そうした完結不可能性のプロトタイプは研究調査
 〔Studium〕である。

「痕跡を追いかける」という行為は、それによって食料を得るという点で
は、たしかに労働とつながるものがあるが、それ自体が自発的な「冒険」へ
とつながるという点では、労働とはかぎりなく無縁である。労働は、必要が
満たされた時点で終わるが、自発的な「冒険」は、これで終わりということ
がない。すなわち「完結不可能性」をもっているのだ。
 探求者、賭博師、遊歩者といった「無為に過ごす人間たち」が、ある種の
「無限の」貪欲さに貫かれているのは、この自発性に基礎を置いているから
である。「無為」は、「完結不可能性」ゆえに、「労働」よりも、はるかに
激しく人間を駆り立てるのである。

『「パサージュ論」熟読玩味』鹿島茂

 「モテない」と「完結不可能」が重なるね。あるはずのものがないからこそ、想
像力が刺激されて、止められない止まらない「自発的な冒険」になっていく。

ESくん
 引用、切れがあるな。そうそう、この前もちょっと話したけどベンヤミン
の遊歩者、賭博者、研究者が登場人物になる「本の街」を渓太くんと作って
て、自分たちのオリジナルを作るというよりも、歴史の分類と流れに沿って、ただ今絶賛編集中です。ポストモダン通りとか、精神分析学通りとか、マルクス広場とか、デカルトの家とか、20世紀のパリをイメージして作ってる。

網口渓太
 それぞれ、ポストモダンだったらポストモダンの沿革や代表的な著者が分
かるスライドを作っていたり、ふたりで本屋の歩き方の動画を見漁ったり、
「ハイパー・リーディング」の実装に向けて、激しく駆り立てられてるよね。

EMちゃん
 ワタシもデザインとかグッズ制作とかあったら手伝うから、進捗があったらまた、教えて。ふたりは本当、モテとかお金稼ぎとか二の次ね。

ESくん
 でもこれだけは言わせて、やっぱり読書はファッションですから!

網口渓太
 そう、お洒落です。アナーキーなヨウジです。

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