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コラム 「ぼく」、でいいのか

 ぼくはこれまでにエッセイ集を3冊出しています。なに、「出しています」というほどのシロモノじゃあありません。どれも、頭に浮かぶよしなしごとを、つたない文章でつづった、軽ーい読み物であります。
 ところが、それぞれを出版するたびに、「大分合同新聞」の読書欄やコラムで紹介されまして、地方新聞というのは、地元では中央紙をはるかにしのぐ発行部数がありますので、おかげでボチボチ売れたのです。
 特に、2冊目のエッセイは、出版元の予想を超える売れ行きで、なんと2版を出すことに。書き手にとって、2版を出すなんて、ホントに、ホントに、うれしいことであります。その上、数店の書店で、平積みで店頭に置いていただいたのであります。「人生うれしかったことベスト5」にはいる出来事でした。ありがたいことです。
 なにが、よかったか? 
 よくよく考えて見るに、地方で出版されるエッセイ本といえば、断然多いのが自分史的内容の本でありまして、次に地域の文化や歴史の研究成果などが続き、一般的な(というのは、だれでも、どこでも読める内容の意)エッセイは意外に少ないのです。ぼくのエッセイは北海道の人が読んでも、大阪の人が読んでも、まあ分かってもらえるのではないか、というものです。
 ところが、買っていただいたのは、別の訳があったのです。
 ぼくのエッセイは3冊とも、文庫版です。
 なぜ、文庫版か。
 最大の理由、ぼくはプロフェッショナルな書き手ではない、ということです。そう、アマチュアなのです。そういうぼくが「はい。これ、ぼくが出したエッセイです」と、B6版を高々と掲げるわけにはいかない。それくらいの恥じらいは、ぼくも分かっています。 
 ところが、読者から意外な感想が。
「あれ、ちっちゃくて軽いからバッグに入るでしょ」「だから、軽くて持ち運びに便利」「電車や飛行機の中でも読める」「何と言っても一番は、病院の待ち時間にぴったり」。章立てが短いので、どこからでも読めるのもよかったようです。
 そう、みなさんがほめてくださった一番の理由は、手に馴染む文庫本の良さでした。そのほか、安い(定価・ワンコイン程度)という声もチラホラでしたが、うーん、なるほどと思いながらも、内容にも言及してほしかったなあと、ちょっぴりがっかりのような。
 で、本題は、これから。
 というのは、3冊のエッセイですが、実は、自分をどう呼ぶかの自称詞が、それぞれにちがうのです。
 1冊目、2冊目が「ぼく」で、3冊目が「ワタクシ」。1冊目、2冊目は同じ「ぼく」ですが、受ける言葉が1冊目の「である」から、2冊目は「です」「ます」と敬体の表現へと変化したのです。ちなみに、3冊目は「であります」。
 回を重ねるごとに、限りなく読者にすり寄った、媚びた文体に変身しているのです。3冊を一斉に開いて読むと、あきらかに「え~、なんか、同一人物が書いたとは思えな~い」です。
 このことは、意識的にではなく、結果的にこうなったのです。
 熟考するに、それもこれも、わが国の、自分をさす言葉、人をさす言葉が、やったら多く複雑なためです。英語のように、I,you,he,sheですませれば、何の問題もないのです。それに、謙譲や尊敬の表現が加わるのですから、どういう文体で書くのかは、かなりの覚悟がいるのです。
 自分をさす言葉だって、どんだけあると思います?
 思いつくままに書き出してみます。
 わたし、わたくし、ぼく、自分、おれ、わし、おら、おいら、おいどん、われ、拙者、わい、あっし、うち、などなどなど。
 国語審議会では「わたし」を標準の形としています。これはこれでいいでしょうが、これ以外は使っちゃあならん、ということにならないのが、わが国日本の言葉の難しいところです。
 歴史的にも、性別、年齢、地域で、ずいぶんちがう。
 先日、NHKで、現代日本人の混血の割合の、最新のゲノム解析について放送していましたが、視聴するほどに、ぼくがこれまで疑問に思っていたことのかなりの部分が、「そうか、そうなのだ」と、するするとほどけた感じがしました。
 これによると、こうです。現代の日本人に残るDNAは、アフリカからたどり着いた縄文人のDNAが4分の1程度、その後、朝鮮半島から渡来した弥生人のDNAが4分の1程度、残る半分はアジアの中央部から南部にかけての広大な地域からやって来た人たちのDNAと一致する、というのです。
 日本人をたどると、色々なルートから、しかも、ものすごく多くの民族が渡ってきた、というのです。言葉も生活も風習もまったくちがう人たちが、日本のそれぞれの地域に住み着いた。そして、多分、日本が実質的に統一される室町期あたりまでは、それほど同化することなく暮らしていたのではないか、と。
 なるほど、と思いました。「日本人の多様さ」と言われるのは、ここにあるのだ。日本に方言が多いわけも、自分たちの神様(産土神)がやたらと多いわけも、これで説明できます。文化や生活様式、風習などが統一されたのは、明治になってから、なのだ。
 そういえば、と思い浮かんだのは、ぼくが高校教師になって、2年目だったか、入学式の数日後、男子新入生がぼくのところへやって来ました。「ウチん兄貴が、お前と中学で同じクラスじゃった、と言いよったが、○○○○ちゅう名前を覚えちょるか?」
 もちろん、○○○○君は覚えています。弁当を一緒に食べる仲間の一人でしたから。「ああ、覚えてるよ」と答えた後、しかし、待てよ、この生徒、さっき、何と言った? 「お前と同じ」って、言ったよな。教師に対して「お前」? ぼくは、なめられているのか。これは、一言、注意せねば、と思った時、彼はぼくの前にいませんでした。
 後で、このことを職員室で話題にしたのですが、ベテラン教師のひとりがニヤニヤしながら、こう言いました。「あの子の住む集落は、今では車が通る道路ができたけど、それまでは町との交流があまりなくてね、言葉の使い方も、長く使ってきた土地の表現が残っている。その生徒は、ごくごく普通に、先生に『お前』と言ったのでしょう」
 聞けば、その子の集落では、「お前」という言葉が、今も尊敬語として使われている、というのです。彼はぼくに、尊敬と親しみの最大級の敬語で話しかけたのです。
 
 ぼくは日常、「おれ」「ぼく」「私」の順に使っています。
 で、この、noteで、自分を何と呼ぼうかと、ずいぶんと迷ったのでありますが、「ぼく」でいこうと決心したのです。
 ぼく、82歳です。それが「ぼく」を使うって、若振ってない? どこか、不自然じゃない? どこか、気取ってない?
 実は、はじめ、「私」で書き始めたのです。ですが、どうも興が乗らない。言葉がおりてこない。
 そこで。「ぼく」で打ち始めると、キーボードが踊る感じ。さざ波のように言葉が寄ってきて、その言葉たちがつながる感じ。いい調子!
 よし、これで行こう。
 だれが何と言ったて、ぼくは「ぼく」なのだから。

 以上、「ぼく」でいこう、に決まった顛末でした。 

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