「性同一性」とはなにか?
美山みどり
そもそも「性同一性」って何?
性同一性障害(GID)は、gender identity disorder の訳語ですから、キーになるのは「gender identity」という単語です。これは「性同一性」とか「性自認」という訳語で定着しています。しかし、
と、法務省のような「公式見解」を述べる必要がある官公庁でも定義されています(法務省HPではこの文言が現在消えています。詳しい事情は女性スペースを守る会の note https://note.com/sws_jp/n/n33fdbaf6d12a を)。
また、
「自己意識」「自己認知」など心理学的な言葉が並びますが、私たちが一番知らないのは、ほかならぬ「自分自身」ではないか、と私なぞはよく感じるほどで、自分というものこそが自分によって容易に欺かれるものでしょう。哲学知として「汝自身を知れ」が強調されるのは、私たちにとって「私」というもの自体が「謎」でしかないからなのです。そうでなくても自分が自分に対して思う「自己評価」と、周囲の人々が自分に下している「客観評価」との食い違いは誰しも感じますし、この食い違いについて「私のことは自分が一番よくわかっている!」と不満を述べたとしても、実のところ「自分に対しての言い訳をしている…」と恥ずかしい気持ちになることもあるのではないのでしょうか。
そもそも「意識」って何でしょう?
まさに誰もが知っている言葉ですが、それについては誰も答えることはできないのです。
ですから「性同一性」というこの言葉、かなり曖昧で何を指すのかよく分からないようにも私は感じているのです。「こころの性」って、自分がそう思ってさえいれば、そうなんでしょうか? 「どのような性のアイデンティティを持っているか」は gender identity を直訳しただけで、何の説明にもなっていません。確かに性同一性障害は「自分が異性であると感じていることを主張する」病気であるのですが、この性同一性障害というのは、かなりあやふやな根拠の上に成立している....といわれても、仕方がない面があるとさえ私は感じています。
この「性同一性」の概念に反対して「タダの思い込み!」と切って捨てる方もいます。また特例法の制定当時(2003年頃)には、実はこの言葉は当事者の間でも一般的ではなく、当事者団体でさえも「性同一性とは何か?」についてレクチャーが行われたくらいに、「目新しい概念」だったのを私はよく覚えています。
もちろん特例法以前から、性別を変える方、手術を海外で受ける方はいました。そういう当事者たちは自分たちを「トランスセクシュアル(変性症)」と自称することが多かったのですし、また「手術を求めない」とする方を「トランスジェンダー」と称して区別することもよく行われていました。必ずしも私たちの当事者運動は「性同一性」という概念を軸にして立ちあがったものではないのです。
そもそも性別移行を望み、手術を辞さず、移行して社会に適応して幸せになれる人がいる。
この事実から私たちの当事者運動は始まっています。私たちは手術と医療を真剣に求め、それが趣味・嗜好ではなく真面目な医療の対象であることを訴えて、特例法が出来たのです。そして特例法ができたことで、私たちは制度に支えられて社会に受容されてきたのです。
それ以降、現在に至るまでこの「性同一性」という言葉は使われ続け、さらには「性自認」という言葉(これはこの概念を作ったマネーの著書「性の署名」の翻訳書で、同じ gender identity に対する訳語として朝山新一によって作られました)を、「政治的な使われ方」から積極的に別な概念として使い分けようとする動きもあります。
このような不明瞭で誤解を招きやすい概念である「性同一性」を、この小論ではいろいろな側面から見ていきます。
マネー「性の署名」では
では、その出典にまで遡って考察するのがよいようです。実際、この「性同一性」という概念は、性別適合手術(SRS)が始まったときに、その医療の正当性の根拠として導入された概念だ、と断言してもいいと思います。
実際、マネーの「性の署名」を読んでも、「性同一性」って何なのか?ははっきりしないのです。定義らしきものは挙げられています。(マネーの訳書では前述のとおり、「性同一性」も「性自認」も gender identity の訳語)
マネーは極端な社会構築論(男女のジェンダーの差に生理的な根拠はなく、すべての差異は社会的に構築されたものと考えるフェミニズムでもよく主張される議論)です。身体的特徴の違いから性同一性が「どっちに誘導のされやすいか」の違いが生じることはマネーも認めはしますが、性同一性については、出産時ではまったくの白紙として生まれ、それを出生後の「経験」によって男性あるいは女性の「性同一性」を獲得して、それがある「臨界期」、以降には完全に変更不可能になる時期、があるとしています。これが「性の署名」でのマネーの議論の骨子です。
つまり「性同一性」は生得的なものではなくて、出生後には可塑的なものなのですが、臨界期が過ぎてそれが固定してしまうと、以降は変更不可。生物学ではよく知られたことですが、受精卵からの発生の局面ではタイムスケジュールが実にシビアなものでして、あるタイミングを逃すと必要な器官が作られなくなるのです。そのような生物学的な発生プロセスを比喩として使って、マネーはこの「性同一性」を捉えています。マネーは「性同一性」の獲得自体は出生後、出生から言語の習得までの間だけでなされ、言語能力を得た後には一切変更不可能になるとしています。マネーは言語獲得がなされる生後18か月を「性同一性の臨界期」だとするのです。
ですから、「性同一性」が身体的性別とは逆側に誤って固定されることが、言語臨界期の前に起きることがあり、そのまま成長したならば自分を逆側の性別として意識する「性同一性障害」を発症することになるのです。性別適合手術というのは、性器の性別とは「逆の性同一性」を誤って獲得してしまった人について、その性同一性の変更の不可能さゆえに、性器の側を「性同一性」に近づけようとする医療的な措置になるわけです。
マネーは性別適合手術の正当性を、この「性同一性の不可逆性」に求めたことになります。これがすべての出発点になります。私たち当事者としては「性同一性障害は親の育て方が悪いせいだ!」と決めつけられているかのようで、けしてイイ気持ちのしない「理論」なのですが…
このマネーの社会構築論は有名なディヴィッド・ライマー(「ブレンダと呼ばれた少年」)の一件でボロが出ました。幼児割礼で男性器を失った少年を「女の子」として育てることをマネーは両親に薦めたのですが、その子は成長するにつれて「女の子」らしさはまったく獲得できず、14歳からはマネーのカウンセリングを完全に拒絶して男性として生きることを選択しました。これが知れ渡り、マネーの「理論」は失敗したのです。
そしてその代わりに胎児期のホルモンシャワーに性同一性が起因する、とするミルトン・ダイアモンドの説が提唱されましたが、マネーが強調したのは「臨界期までに、さっさと性器の性別をどちらかに固定しないと、精神的な問題が出る」という半ば脅しのような実践的な要請なのですよ。
マネーの最大の被害者と言えるのは、いわゆる「インターセックス」、今では性分化疾患(DSDs)と呼ぶべき子供たちなのです。マネーの説によると、曖昧で中間的な性器をもって生まれた子供は、なるべく早く手術によって「正常な性器」に近づけることを勧められます。その後に「性同一性」が獲得されるのだから、何の問題もない...マネーはそう考えて手術を強行します。胎児期に「性同一性」が決まるのであれば、これは危険極まりない医学的処置です。
で、マネーは性分化疾患の延長線上で性同一性障害を捉えることになるわけです。もちろんこのマネーの「言語臨界期=性同一性臨界期」についての積極的な証拠は一切ありませんでした。言語哲学的な論考を「性の署名」でしていますが、この衒学は根拠のなさを隠すための煙幕でしないのでしょう。しかし、後天的な社会構築論に立つ以上は、どこかで臨界期を設定しなければ、そもそも「性同一性を、性器の性別に合わせて直すのが可能」であることになります。ならば性同一性障害を「心理療法」で直すことができることなりますからね。マネーのイデオロギーの逆が証明されてしまうのです。
つまり、この「性同一性」の概念自体が、
そもそも出発点から「性別適合手術の正当性」を巡って展開されていた
ことに注意すべきなのです。マネーはこの「性同一性」を言語と性役割の獲得によって、内容を与えようとしたのですが、「性の署名」の中でも十分な説得力はありませんし、またマネーの言う言語=性同一性臨界期はその後の展開でも捨て去られた仮説でしかないのです。
まったくの「からっぽ」の概念だと言ってもいいでしょう。「性同一性」の中身を具体的に説明できないのは、中身が「からっぽ」だからです。
しかし、この「性同一性」の概念は、こと性別適合手術を正当化するには、これ以上もない理由になります。「性同一性に性器の見かけを合わせるしかな」く、逆はありえない「理由」として機能するのです。
しかし、この理論のひどい後付けっぷりにもかかわらず、性別適合手術が性同一性障害に悩む人を救ってしまうのです。この事実によって、
性別適合手術は有効である、だから性同一性という概念は、実在する
という前提で、この「性同一性」という言葉が広まった...私にはそうとしか思えないのですよ。「性同一性が身体的性別と逆だから、性別適合手術をしよう」という見方を逆転して、
性別適合手術を受けて満足する人は、性同一性が身体的性別とは逆だった
と因果関係を逆転して捉えた方がずっと事情を正確に捉えているのでしょう。性別適合手術を後悔する人がいれば、それは「性同一性について誤解していた」と切り捨てるための理由付けにさえなるのです!
「性同一性」とは、「性別適合手術で幸せになる人が、いる」ために、性同一性障害という疾病概念(医療の介入を正当化する概念)の根拠として、使われ続けることになるのです。
性同一性と「悩み」
ですから、私は「性同一性」という概念が自立的な概念だとは思わないのです。「こころの性別」と呼んだ時の「こころ」が曖昧きわまりなくて、それをまともに定義することが不可能だとも考えるからです。
それこそ「好きな色」「好きな遊び」などの「典型的な男らしさ・女らしさ」(ジェンダー・プロトタイプ)をたやすく受け入れる子供と、それを嫌がる子供の違いをこの「性同一性」という無根拠な言葉で説明して、子供を「性同一性障害」と断定する根拠にまで拡張する「人権活動家」までもが登場する今となっては、このような概念についてしっかり検討しなおす必要があるのは当然のはずです。
しかし、性同一性が「善用」される、「医療が介入して、幸せになれる」人というのは、確実に存在するわけです。私もその一人でしたからね。この事実を否定するわけにはいきませんから、やはり「性同一性」と呼ばれる「何か」の基盤になるものは、あるわけです。
自分はずっと性同一性に悩み続けてきて、でも、どう見ても希望する性別の側に見えるようになりそうにもないから、性別移行することは諦めている...
と「悩む」ということに特化した方もいます。こういう方が、昔の当事者が使った
「埋没」=今までの人間関係をリセットして、完全に新しい性別だけで過去を封印して生きていく
という「埋没」の意味に代わって
「埋没」=未治療状態で性別違和を抱えながら、悩みながら生きていく
という意味で使ったりするのも目にします。
この「悩む」という心理自体を「病理」として捉える、というのが、一時精神病理の主流になったことがありました。たとえば、同性愛について、アメリカの精神疾患についての診断基準である「精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)」では、1974年頃から「同性愛は精神障害ではないが、それについて悩み苦しむ場合には、精神障害として扱うことができる」という基準で運用されていた時期があります。私の大学生時代(80年代です...)だと、この扱いで授業がされていましたしね。
しかし、1987年のDSM-Ⅲ-R で同性愛自体の脱医療化がなされます。ですから今は「同性愛は病気ではない」が精神医学の上でのコンセンサスなのですが、しかし「それを苦にして悩む」という状況に医療が介入してはいけない、というわけでもないでしょうね。その場合「反応性うつ」とかそういう扱いなのでしょう。
ですから、どちらか言えば性同一性障害について「悩む」ことを強調する立場、というのはこのやや古い診断基準に影響されている側面もあるのではないのでしょうか。私はどうか...というと、実は性別移行前でもあまり悩まないようにしていたのです(苦笑)。
「自分が女性的であること」自体はどうしようもないのだから、それが不利にならないように生活環境を構築しようと心がけました。周囲の女性たちとも良好な関係を築くようにしましたから、「男か女か分からない」と言われながらも、仲良く過ごすことができていました。個人のスキルがすべての業界で仕事をすれば「男か女か」が問題になることもありません。身体的に強く女性的だったこともあって、自分の女性的な身体が何の医療もしていない段階でも好きだったくらいでした。
「配られたカードで勝負するしかない」は人生の真実なのですよ。そう割り切った私は「悩むよりも具体的な生活環境を改善する」方向で努力をしてきたのです。
「苦悩」という状態が医学が介入する根拠になるとはいえ、「苦悩」自体を根拠に
「生きづらさ」を抱え、苦悩するのは、性同一性が社会的性別とズレているからである
とこんな風に生きづらさから「性同一性を定義する」のは、私はやはりムリがあると考えています。誰しも社会に期待される性役割を完璧に果たせるわけではありませんし、ジェンダーバイアスによる不利な取り扱いに憤ることもあるわけです。また、思春期の体の変化に戸惑いと不満を覚え、押し付けられる「男女の役割」を拒絶したい、と考えるのも、別に不思議でもレアなことでもなくて、実はかなり一般的な「思春期の悩み」なのだと思うのですよ。これを「病理化」するのはいかにも不適切なことです。
思春期の精神的な危機には性的な悩みが大きな役割を果たします。ここで「子供の自分」を乗り越えられなくて悩む子供を、「あなたの悩みは、性別違和だ!」と断言して、性別移行を勧めるカウンセラーがアメリカでは横行しているさまを、2024年のベストセラーになったシュライアーの「トランスジェンダーになりたい少女たち」が描き出しました。しかし、このような性指向・性役割についての「悩み」が性同一性についての「悩み」ではなく、同性愛傾向を含む「思春期の精神的危機」の現われである別な根拠であることの方がずっと多いことは疑う余地はありません。
「生きづらさ」「苦悩」は性同一性に問題を抱える証拠にはならないのです。
それよりもカウンセリングなどを通じて、具体的な「生きづらさ」を別途解消するような手立てを講じるべきなのでしょう。
身体違和と性同一性
さきほど私は自分が「そもそも身体的に強く女性的だったために、あまり悩まなかった」と言いましたが、身体、とくに性器について強い悩み
第二次性徴による体の変化がツラい
男性器を切り落としたい
乳房が大きくなるのを止めたい
などを訴えることが当事者の間でも頻繁に聞かれます。これを「身体違和」と呼んで、性同一性障害の診断基準にもなります。もちろんこの身体違和があるからこそ、性別適合手術を自分から進んで受けるわけです。けして「戸籍の性別を変えたいから」「より異性に近づいてキレイになりたい」という理由ではないことをご理解ください。
「悩まなかった」私でさえ、やはり手術を受けて自分のカラダに対して心底から深い満足感を味わった、ということは言っておくべきでしょう。そもそも極端に小さくて何の役にも立たないようなものでしたが、「ない!」ということには心の底からの満足感を感じました….そうしてみれば、私にも「身体違和」はしっかりとあったわけです。「ないはずのものが、ある」ことが、手術によって解消されたわけですからね。これが私たちが自分から進んで積極的に手術を受けたい理由なのです。
これを「性同一性」の概念と結びつけるならば、実は「性同一性」とは強く「身体のあり方」と結びついているものだとも感じられるのです。それは社会的な性役割とは無関係であり、「不満」だったり「役割の拒絶(嫌!)」というものではなくて、自分の身体に対する「困惑」「無理….」「恥ずかしい..」といった感情なのだと感じるのですよ。
この「困惑」はたとえば「認知的不協和」という言い方ができるのかもしれません。「ないはずなのに、ある」ならば、それを「ない」と認識する脳内の身体イメージマップの側に何か問題があるのです。この不協和に私たちは苦しめられるのです。このような身体的な「感覚」に根差した部分で、この「性同一性」は語られるべきであり、これはけして「生き方」や「社会的役割の押し付けの拒絶」といった、より高次の「判断」の話ではないのです。
悩まない私でさえ「自分の身体的な感覚を信じない」という強い傾向がありました。これはやはり自分の「身体を認められない」という強い感情があったからなのでしょう。自分を省みれば、やはり手術をしたことで、「自分の感覚を信じる」ことができるようになったように感じられるのです。
ですから私たちにとって、ジェンダー医療はそのような「身体を回復」するための医療なのです。社会的な状況の改善ではなくて、身体に直接施されれる「医療」を私たちが求める理由とは、やはりこの「身体的(性)同一性」に根拠があるものだと感じます。
私たちは性別適合手術によって、自らの身体を取り戻すのです。これが「性同一性」ということの本当の意味なのです。
昔、虎井まさ衛氏が、トランスセクシュアル(GID)と「トランスジェンダー」の違いについて、次のように定義したことは、今でも有効だと思っています。
無人島に一人で暮らすことになったとして、それでも手術を受けたいのがトランスセクシュアル、手術が不要なのがトランスジェンダー。
私たちにとっては、自分の身体を取り戻すための性別適合手術が「自分事」なのです。
性同一性とパス(性他認?)
性別移行を希望する方でも、希望する性別での「見かけ」が、医療措置によってもなかなか得られないことも、残念なことに多いのです。医療には限界もありますし、身体的な負担と得られる見かけとの間での、現実的な費用対効果も具体的で切実な問題です。このような「希望する性別での見かけ」を得られるか得られないか、を「パス」と当事者は呼びます。「女性としてパスする」ならば、女性に性別移行しても問題が少ないであろう、とは予測できますし、「女性としてパスしないのなら、移行を諦める」という方もいるでしょう。
もちろんパスと性同一性の問題は完全に重なり合うわけではありません。社会的な移行はせずに、性器の手術だけするというかたちで折り合いをつける方もないわけではないでしょう。だから、とくにパスが難しい方が、「パスするかしないかは、性同一性とは無関係」と言いたくなる気持ちは、分かります。しかし、あえてこの件を問題にしたいと思うのですよ。
というのも、「私」というものは、周囲から孤立してあるわけではないのです。環境との相互作用によって、生じているわけです。「こころの性別」は生まれたときにそのままのかたちで、大人の中にもある、ということはなくて、今までの生活歴のなかで、さまざまにかたち作られた「結果」としてあるのだ、ということをまず強調したいのです。
言い換えると、
本当は自分は女性だと思っているのだけども、周囲には打ち明けれられなくて、誰もそのことを気づくことはない
というような事態は、少なくとも性別を変えてうまくやっていける人の場合には、絶対にありえないと思っています。つまり、周囲には必ず「バレ」るものだ、ということなのですよ。「あれ?この子、男の子なのに、何かヘン」「女の子に全然思えない...」とか、そういう周囲の反応を引き出すような素質がその人にあり、その素質に周囲が反応し、またそれが自身の「性同一性」に反映して...というようなプロセスを必ず経てきているはずなのですよ。
いろいろ性同一性障害当事者の手記を読みましたが、子供の頃に、同性集団から強く排除された経験、異性の集団の方になじみやすい傾向、同性集団に受け入れてもらうために「オ〇マキャラ」をわざと演じて受け入れてもらうなど、そういう体験を語る方が多いのです。
実際、私もそうでしたからね。ある程度以上仲良くなった女性からは「男性にはまったく思えない」「女になったらいいのに」と面と向かって言われるのはごく普通のことでしたから、大人になった頃には「え~そうしようかな~」などと平気で切り返せるようにもなっていたくらいです。今更にそんなことに傷ついたりしませんよ(泣)
自分が「自分の性別」をどう思うか以前に、周囲が「身体的な性別」ではない側の扱いをしがちで、これを本人も何となく受け入れていて....というような「性同一性の(イレギュラーな)発達」というようなものが、きっとあるのでしょう。ですから、「周囲があなたをどちらだと思うのか?」ということ、「性自認」ならぬあえて言えば「性他認」というべきものが、「性自認の手前」に存在していて、自分の自意識以上にそちらの方が、性別移行の決め手になるのではないのでしょうか。
ある人が「男か女か」という判断は、人間にとって実に基本的な判断であると言えるでしょう。髪が長いから女、背が高いから男等々という言葉にしやすい「手がかり」による判断に先立って、相手が「男か女か」という第一印象、「ぱっと見による、言語化・概念化できないような直観的判断」が働いており、これを掻い潜ることが「パス」なのです。普通はこんなこと無理なのです。しかし、それができてしまうという「異常」が、性同一性障害という「病気」なのでしょう。
つまり性別移行よりもずっと前の段階でも、「どうにも男/女だと思えない...」というような印象を周囲に与え続けていて、それで今まで生きてきたのならば、実際に性別移行をする際に、周囲の抵抗感はほぼないに等しいわけです。身なりを移行さえすれば、きっちりと希望の性別の側に見えることが多いでしょうし、やや厳しい場合であっても、そのくらいなら性ホルモン療法でもなんとかなります。「第一印象での性別」がそもそも希望する性別であるのならば....これのことを、「パス」と呼ぶのですよ。
言い換えると「性別を移行してうまくいく」人の場合には、この人が性別を変えるという行為が、周囲にとって意外なことでもヘンテコなことでもない、という印象を周囲にすでに与えているのだと思ってます。自分がどう思うか、というよりも、周囲がどう思っているのか?が実は大事なのですよ。
「性他認」こそが幸せな性別移行の切り札であるのならば、実はこれこそがマネーの章で説明したような「性別適合手術への資格」である「性同一性」に他ならないのでしょう。
性自認 vs 性同一性
LGBT理解増進法でも、攻防の焦点の一つに「gender identity」は「性同一性(自民)」か「性自認(立憲など)」かがあり、結局玉虫色に「ジェンダー・アイデンティティ」のままで法律になりました。
現在「性同一性」と「性自認」は別な言葉として通用している、と言っても過言ではないでしょう。私たちは「性同一性障害」なのだから、「性自認障害」と呼ばれたら、絶対に反論します。「性自認」と「性同一性」は絶対に違う!と。
繰り返しますが、もともとは同じ英語の別な訳語です。しかし、とくに「性自認」には、LGBT活動家たちがつけた特別な「色」がついてしまっています。私たちはこの「色」が許せないために、「性自認」という言葉を拒絶することになっています。この特別な「色」が「アイデンティティ」とこれに基づく「アイデンティティ政治」なのです。
私たちは「gender identity」を「一つの特殊な言葉」であると感じていることは、今までしっかりと説明してきたと思います。gender に関する概念であり、「自己同一性」に関する言葉だから、「gender identity」という単語になるのですが、普通に使われる「アイデンティティ」とはまったく違う言葉なのです。
言い換えると、
「ジェンダーに関するアイデンティティ」と「性同一性」はまったく無関係だ
ということなのです。私たちはさまざまな社会生活の局面で「アイデンティティ」という言葉を口にします。中には性に関する立場を「アイデンティティ」としても捉えます。しかし、それは「性同一性」とはまったく無縁です。
「アイデンティティ」という言葉は広く使われます。「日本人」とか「〇〇社の社員」とかそういうものに私たちは「アイデンティティ」を求めますし、「母親」というアイデンティティも、あるいは「アーチスト」や「活動家」なんてアイデンティティもあります。そういう「アイデンティティ」とは、自分がある文化に対して「identification(自己同一化)」をしている、ということを示しています。
社会生活の上で人はいろいろな「立場」に立ちながら、単なる役割的な「立場」にとどまらず、積極的にその「文化」というべきものにコミットし「自分のものだ!」という帰属意識と強い感情を投影することによって、「アイデンティティ」は形成されます。もちろん、この「アイデンティティ」は、ある個人が局面ごとに「アイデンティティ」を複数同時に持つことも可能ですし、立場を変えて生きていくうちに「アイデンティティ」もどんどんと変化もしていきます。
しかし「性同一性」は、「男/女」以外はありません。その他の「Xジェンダー」「クェスチョニング」という「性同一性」はありませんし、せいぜい拡張したところで「男から女へのスケールの中のどこか」くらいのもの程度でしょう。また、それがマネーが性別適合手術の根拠としたように、生きていくうちで変化するものでもありません。「アイデンティティ」と「性同一性」はまったく無関係の言葉なのです。
しかし、このアイデンティティと「性同一性」をわざと混同するのが、LGBT活動家の立場です。そしてたとえば「ゲイ」といった「性に関するアイデンティティ」と、「性同一性」を混同して、LGBT運動に取り込もうとする狙いが、この「性自認」という言葉の言い換えに含まれてしまうのです。私たちはこれに強い反発をしています。
そして、活動家たちはこの「性自認」という言葉を「自分がどう思っているか」という主観的な判断の問題として捉えます。「自分がどう生きたいのか」という選択の問題として捉えます。たしかにゲイリブ活動家たちは「ゲイ」という生き方を自分から選んだ人たちだから、私たちを同じような存在として捉えたいのでしょう。しかし、それは違うのです。
しかし、「自分らしいジェンダーで生きたい」と望む人たちがいます。「Xジェンダー」「男女のジェンダーに縛られずに生きたい」「異性装で社会生活を営みたい」、これは確かに「自分たちの生き方」の選択の問題の人々です。ですからこのような「アイデンティティ」は「ジェンダーに関するアイデンティティ」であることは間違いありませんし、それはそれで尊重されるべきでしょう。このような人たちは自分たちを「トランスジェンダー」の中に数え入れます。
「トランスジェンダー」は「生き方」の問題ですから、確かにLGBT運動とも相性よく一緒に運動できるでしょう。ですから、積極的に私たちを取り込むために、「性自認」という「アイデンティティを密輸した言葉」によって、この問題を語りたがるのです。
私たちはじゃあなぜ、この「性自認」を拒絶するのでしょうか?概念が広がったならば、広い概念に合流すればいいのではないのでしょうか?
やはり「ジェンダーに捉われない生き方」をしたい人たちと私たちの利害が別だからです。私たちは医療によって救済されるからこそ、医療を求めるのです。しかし「生き方」の人たちにとっては、「医学によって自分たちの生き方に口出しされたくない」と感じるのは当然です。私たちはジェンダー医療がエビデンス重視のしっかりとした医療であることを求めます。しかし「生き方」の人たちは「気のおもむくまま、自分が望めばホルモンでも手術でも提供されればいいや」と無責任な立場を勧めます。そして、一部の医師やカウンセラーはこのような無責任な医療を「脱医療化」と呼んで「トランスジェンダー」たちに迎合するのです!
だからこそ、「性同一性」という性別適合手術の正当性を巡る言葉を、「性自認」という「自己規定に基づく生き方の言葉」に変えようとするのです。これを私たちは絶対に許すことができないのです。
私たちは性同一性障害特例法が、「私たちの法律」として作られ、特例法によって私たちが「社会で生きていく」ことができるようになったと強い感謝の念をもっています。そして、特例法が私たちの要求の根幹である性別適合手術をもって、私たちの定義とし法律の保護対象としたことを、当然のことであると思っています。
しかし、活動家たちを応援する左派野党の政治家・マスコミは、「手術は過酷だ」と手術要件を外そうと画策して一部それが成功してしまいました。それによって、当事者である私たちの意見が踏みにじられただけではなく、医療にも「一日診断」の横行など弊害が大きく出るようにもなってきています。ジェンダー医療のモラルが崩壊したら、私たちはどうすればいいのでしょうか?
また、「自分がそう思うから自分は女性」という「性自認」による正当化が行われたら、女性スペースへの「トランスジェンダー」による侵略を正当化することになります。このため多くの女性たちが怯え警戒する結果を生んでいます。「自己決定」はたしかに耳さわりのいい言葉です。しかし、他者にそれが迷惑となり脅威となるならば、「自己決定」も無制限に許容されるべきものではないはずです。
そのために、私たちのように、手術を受けて戸籍性別を変えて生きてきた性同一性障害当事者にも、とばっちりが及びつつあるのです。私たちは特例法が定める要件を満たし、誠実かつ積極的に移行先のジェンダーロールを受け入れて努力し、周囲の人々と協調して過ごしてきたのですが、そのような私たちの努力を「性自認」を振り回す「トランスジェンダー」がぶち壊しにしてきたのです。私たちはそれに怒っています。だから「私たちは『トランスジェンダー』ではない!」と。
もはや完全に利害が逆になっているのです。ですからLGBT運動と連帯して「同じ『トランスジェンダー』としてともに権利を主張していこう!」などと寛容に共闘するなどという余地はなくなりました。そもそも私たちの主張を「トランスジェンダー」は都合が悪いものとみなして、完全に無視してきました。ならばこちらには何の義理もないはずです。
ですから「gender identity」を「性自認」と訳することは、もはや絶対に許されなくなりました。性同一性障害は、「ジェンダーに関するアイデンティティ」の一つではありませんし、当事者はLGBT運動に含まれることを拒絶するのです。
性同一性障害とアイデンティティ政治
私たちは自身の利害からも「性同一性」と「性に関するアイデンティティ」を混同することに絶対的に反対します。そして、すべての社会問題の根底を人種・ジェンダーなどの「アイデンティティ」の問題に還元して、それを主要な政治的な基盤とするのを「アイデンティティ政治」と呼びますが、私たちはこれにも反対します。LGBT運動もこの「アイデンティティ政治」の一つなのは言うまでもありません。
アイデンティティ政治では「それぞれ違うアイデンティティ集団に属する人々は、共通の利益があり、彼らに共通の社会問題を解決するためそのアイデンティティの下に団結して戦うべきである」とし、「個々のアイデンティティ集団に特有の問題は基本的に自分たちの手で解決すべきである」とされています。確かに自助グループの考え方の延長にあるといえばそうなのですが、その「アイデンティティ集団」にどれほどのリアリティ(実在性)があるのだろうか、という問題が、私たちにとっても重要なのです。
この問題を言いかえると
私たち性同一性障害当事者は「トランスジェンダーのアイデンティティ」に包括されるのか?
という問いになります。確かに私たちの利害は「トランスジェンダーの利害」とは別だと私たちは考えています。しかし、多くの人たちから見ると、私たちと「トランスジェンダー」の違いはなかなか理解しづらいものがあります。また「トランスジェンダー」のアイデンティティ政治の立場からは私たちを
性別移行者として同じようなアイデンティティがあるのだから、「性同一性障害当事者の利害」を主張するのはワガママだ
という批判を受けることもあります。「トランスジェンダー」としては、トランスジェンダーの「かわいそう」「無害」というイメージに、私たち性同一性障害当事者の「モデル」を継承させて与えたいために、このような「ワガママ」発言によって、私たちの主張を封殺しようとするのです。私たちからしたら「軒を貸して母屋を取られる」ような簒奪行為ですから、この問題に答えなくてはなりません。
ならば「トランスジェンダー」というものの実態を見て見なければならないでしょう。「トランスジェンダー」は「アンブレラ・ターム」という言葉でよく表現されるように、
性同一性障害当事者
医療を拒む性別移行者、いわゆる「(狭義の)トランスジェンダー」
女装家などのトランスヴェスタイト(異性装者)
ドラァグ・クイーン
性分化疾患当事者(DSDs)
Xジェンダー・ノンバイナリ・クェスチョニング(自分を男女どちらかに分類することを拒む人たち)
その他いろいろ
などなど、さまざまな場面での性別移行などを通じてジェンダー規範を受け入れない人々を包括し、その政治的アイデンティティとして「トランスジェンダー」を与えようとしています。雑多な背景の人々を包括する政治的な「寄り合い所帯」以上のものではないのです。
しかし、そのような「寄り合い所帯」を越えて、「トランスジェンダー」を連帯させてアイデンティティを与える「トランスジェンダーの文化」はあるのでしょうか?
もちろん、男性同性愛者に比較して「トランスジェンダー」はかなりの少数派ですから、「寄り合い所帯」でなければ存在感を示すことはできない、という事情はあるでしょう。しかし、個別に見ていけば、このようなサブグループにはそれぞれ確固とした独立の「文化」があり、それぞれはそれぞれの利害関係をもち、実際のところ「連帯」はかなり上っ面の「政治的な意識」でしかない、というのが私の観察した結果です。ですから、この「連帯」は具体的な利害に結ばれた「当事者性」を欠いたものであり、「トランス思想」と呼ばれる「思想」レベルでの「連帯」に過ぎないものにしかならないのでしょう。実のところ「LGBT活動家」と呼ばれる人は数百人程度・賛同者でも1万人程度しか国内にいないと思われますから、性的マイノリティ当事者全体の中では現実には少数派であるようです。華々しい活動からはうかがわれないのですが、やはり「トランス思想」というカルト的な側面もある「思想」によっては、脆弱な「連帯」しか築けないとは感じるのです。
具体的にその「寄り合い所帯」の構成員たちを見ていきましょう。
いわゆる「女装家」は「女装カルチャー」と呼ばれる「文化」を別途持っており、性同一性障害当事者とは相互に「差別化」されることを願う人が多いです。「男性の遊び」としての女装とは別なものとして、私たちは自己規定するのが普通のことですし、女装家たちは「男だからこそ、女装を楽しむことができる」「男性としての快楽を追及しているだけであり、女になりたいわけではない」という独自のプライドを持っている人も多いのです。
「ドラァグ・クイーン」はゲイカルチャーの一つである女性諷刺を目的とした女装ショーに携わる人たちの文化ですから、これはゲイカルチャーの下位カルチャーと見るのが適切でしょう。
同様に、明白な性同一性障害グループでも、男から女(MtF)と女から男(FtM)の間でさえも、相互に「わからない…」と思うことも多いのです。「トランスジェンダーになりたい少女たち」で描かれたアメリカの少女たちに近いメンタリティや、フェミニズム思想全開で、性別移行をした FtM も知っていますが、そういう方とは共通する部分を全く感じられないというのも正直感じます。
さらに「男女のジェンダーに縛られず生きていきたい」と願う人たちは、手術を受けて性別移行した私たちに筋違いな「憧れ」めいた連帯感情を抱くことがありますが、中身には共通する文化はありません。個人的にも辟易した経験がありますね。
そうしてみると、ただでさえ性的少数者という「少数者」の少ない総人数の中で、「寄り合い所帯」である「トランスジェンダー」として、当事者相互に「文化的な同一性」を求めることができない状況が、「トランス当事者運動」の中でもずっと続いてきたのです。実際の当事者運動・自助運動の中でも「人によって状況が全く違うから」とそもそも相互批判をご法度として「言いっぱなし」「聞きっぱなし」が推奨されていました。当事者グループの現実を知る者として言わせてもらえれば、そのくらい「トランスジェンダー」は多様であり、共通する基盤も文化もまったく存在しないのです。
しかし、その上にフェミニズム思想から借りてきたジュディス・バトラーの哲学を被せることによって、「トランス思想」による連帯という頭でっかちなシーンが存在していると評するべきでしょう。「トランスジェンダー」というのは、その実体を欠いたただの「思想・イデオロギー」に過ぎないのです。これでは「カルト的」と呼ばれるくらいに社会的に遊離したものにしかならないのは当然のことでしょう。
ならば「トランスジェンダー」という「アイデンティティ」を確立することは「空想的」と評されても仕方のないことでしょう。バラバラな人々が、強く左派的な政治的な主張と哲学的な「トランス思想」のみで政治的思惑から集まっているだけです。利害関係を無視されがちな性同一性障害当事者は、当初から「トランスジェンダー」と同一視されることを迷惑だと捉えた性分化疾患当事者(DSDs)と共に、早々と「トランスジェンダー」からは離脱を表明することになるのです。
しかし、性別移行者の「きれいなイメージ」のためには、私たち性同一性障害当事者が「トランスジェンダーの代表」であるかのような、イメージ戦略を推進しなくてはならないのです。私たちがいくらLGBT運動に反発し批判し離脱しようとも、この事実を隠して無視するしかないのです。
私たちは「トランスジェンダー」ではありません。私たちにとっては「トランスジェンダー」とは、私たちに「押し付けられた政治的アイデンティティ」を示す言葉でしかないのです。
私たちは「Xジェンダー」や「ノンバイナリ」を自称したり、「トランスジェンダーになりたい」と思う方には違和感しか感じず、まったく理解できません。これこそが「トランスジェンダー運動」というものが、「トランス思想」の空疎な内容を真に受けた人たちによる頭でっかちな運動であることの証拠です。
私たちは「思想」でも「流行」でもありません。私たちは「男になりたい/女になりたい」と感じ、「本来の自分」の回復のために犠牲を厭わない人々です。私たちは自分の課題を解決したいだけなのであり、「トランスジェンダー」として連帯なんぞ不要であり、これを拒む当事者なのです。
ですから、「トランスジェンダー」はLGBT運動上の概念に過ぎません。そして「トランスジェンダー」は「gender identity」ともまったく何の関係もなく、LGBT運動と結びついた政治的な自己規定である「アイデンティティ」の一つ、政治的な信念以外を示さないレッテルなのです。
もはやLGBT運動に反発する男性同性愛者の間でも、「LGBT運動には関わりたくない」とする人たちが、積極的に「ホモでいいよ」と「ゲイ」というアイデンティティを拒絶することさえ起きています。このようにLGBT運動が作り出した「アイデンティティ」をベースに置いた政治運動、「アイデンティティ政治」は、崩壊の兆しさえ見え始めているのです。
結論
つまり、「性同一性」「性自認」という概念で悩むのは、当事者にとっても意味のないことなのです。私たちの問題は「アイデンティティ」の問題でもありませんし、「自分がどう思う」という問題以上に、私たちと周囲との関係性から生み出される「実際に生活できるジェンダー」の問題なのです。
ですから、周囲を受け入れて、何事も「こじらせず」、自由な気持ちで捉われることなく、生きていくのが一番いいことなのですよ。特に「性別」なんて、「こじらせる」たらこれほどつまらないものはありません。
変えるなら、変える、そしてその後どう生きていくか、これが一番大事なことなのです。性別移行は「目的」でも「終点」でもありません。
人生がそこから始まる出発点です。