ジェンダーとは何か ② ~構築主義的な立場において~

フェミニズムは、構築主義でジェンダーを捉えます。当然、フェミニズムから派生したトランスジェンダリズムも構築主義的な考え方に則った概念です。どちらもフェミニズムの思想であり、根っこは同じものです。

しかしGID(トランスセクシャル)の当事者は、本質的なジェンダー観を持ってる人がとても多いように見受けられます。実際に「身体と性同一性の不一致に苦しむ疾患であり、医学的治療によって一致させることを望む」というその概念は、本質的に「身体」や「性同一性」が存在しているという前提がないと成り立たず、社会的にジェンダーのあり方をどうこうしたところで、それが食い違ってるという事実は変えようがありません。

これはトランスジェンダーとGIDの大きな違いの一つだと考えています。トランスジェンダーは、社会的に構築された「ジェンダー」のあり方によってその位置づけや意味が大きく変わります。

構築主義的なジェンダー観に立てば、ジェンダーは解体可能な概念であり、更にそこから再構築することもできるし、個人で自由に選びとることも可能になります。

所謂「トランスジェンダリズム」の本質はここにあると考えます。

トランスジェンダリズムは、既存のジェンダーの意味を解体し、Sexとの紐付けを解体し、本来社会規範であったものを、個人で選択可能なものにまで解体しています。

男性/女性の身体を持ったまま女性/男性のジェンダーを纏って社会規範に抵抗しています。
またそのどちらにも属さないというあり方を選択することもできます。

更にSexの意味さえ、再構築されたGenderで上書きしていくことで、バトラーの「セックスもまたジェンダーである」にたどり着いています。

これらはすべて既存のジェンダーへの抵抗であり、ジェンダーの解体を意味します。

ジェンダーの解体を主張しながら、「トランスジェンダリズムはジェンダー強化である!」と批判する声が多くありますが、その見方は誤りです。本当の意味でジェンダーを解体してるのはトランスジェンダリズムの方なのです。

ジェンダークリティカルと呼ばれるフェミニズムの流派も「ジェンダー解体」を主張していますが、ジェンダークリティカルが解体したいものは、ジェンダーそのものではなく、「ジェンダー規範」の方でしょう。

そもそも「ジェンダー」は多義語であり、一言で定義することが困難な複雑な概念です。

身体の性別=Sexの対義語と考えられ、身体以外の社会的な要素、その全てがジェンダーを構成しています。「ジェンダー規範」はその中の一つの概念にすぎません。

まず、ジェンダーそのものをなくすことは不可能です。
人間は社会的な存在であり、文化や宗教、社会的慣習・法律に至るまで、社会生活の全てにおいて「性別」は深く関わっており、切り離すことはできません。

解体できるのはジェンダーの意味づけや、あり方であって、ジェンダーそのものをなくすというのは、人間が人間である限り、人間が社会的な存在である限り、不可能です。まず、そのことを自覚しなければなりません。

その中で、合理性のないジェンダー規範の押しつけや、ジェンダーに基づく偏見による不当な差別はもちろんなくされていくべきものです。
何より、日々横行する女性に対する性搾取や性暴力など、深刻な問題に取り組んでいかねばなりません。

そしてその解決のためには、ただ現実的で地道な政治的、社会的な活動が必要なのであって、ジェンダーを全てなくしてしまおうなどという極論はなんの役にも立ちませんし、まして共闘できるはずの相手と不毛な対立をしていても社会がよくなることはありません。

なんのためのフェミニズムなのか、なんのためのジェンダー論であるのか、今一度原点に返って考え直す必要があるのではないでしょうか?








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