小説:普通日記 #3
高校時代の友人、暮内くんに誘われて、カヌレ観戦に行ってきました。
カヌレ観戦については後ほどにして、まず、暮内くんについて語らせてください。
彼は会うたびに名前が変わります。わたしたちが彼に名前を与えるからです。それはあだ名や呼び名ではなく本質的な意味での名前です。XとYが織り成す座標ではなく、染色体レベルのゲノム編集です。もう少し補足すると、絹豆腐に見せかけた木綿豆腐であり、ポテトチップスの咳払いです。
そう言えば、多くの男性は過去の恋を【名前を変更して保存する(別名で保存する)】そうですね。一方女性は常に【上書き保存】である、と言われることがあります。でもどうでしょうか。むしろ保存とは別の在り方、例えば『こんにちは』や『何か御用ですか?』のような在り方にも見えます。冷めたスープをあたため直すと味そのものが変わるのに近いですよね。
それはそれとして、暮内くんの名前はバリエーションに富んでいました。以下の4つは大変印象的です。
1.いたち100%(飼っているいたちを学校に連れてきたことがあったため)
2.まだ誰も見つけていない改札口(比喩的な意味で突破口を見つけるのが上手い彼)
3.牛乳を2本同時に開けないでください(彼の発案したオリジナル格闘ゲーム『さよならヨットスクール』の主人公、タケノハラ・ゴウの超必殺技の名前から)
4.羅針盤の無い小舟(放浪癖があるため)
さて、ここで主題化されている名前について反芻してみましょう。
名前とは、最も近い他人に授けられた唯一の色に過ぎません。もちろんその色は伏流する濁流であり、味の切れたガムのようなものです。このことは色への冒涜ではありません。むしろ、波動関数で精緻に描くシルエットに端を発した自涜です。
名前は受動でもなければ能動でもありません。接続法2式でしか呼び出すことのできないスリップする自我の変奏です。
それが流れ出す時、必ずしも近くにない自分の肉体は、絶えず崩れつつそして常に生じ続ける地平線になります。
当時の暮内くんとわたしの関係について、一言では説明できません。夜のコンビニへ別々にかつ同時に出向き、全く意味のないものを買ってみたり、お互いに隠しあっていた傷ひとつないダイスを交換し、やさしく磨きあったりはしていましたね。それは「社会参加」のプレリュードでした。
さあ、お待たせしました。カヌレ観戦について語ります。カヌレとは、集団性スポーツです。ルールは簡単。
まず、シャーマン(審判員的存在)が「ディスカバー!」と大きな声で宣言することで試合(プローブと呼ぶ)が始まります。
各選手がフィールドに散らばります。
各々が【踊り】を踊るか、または【歌】を歌います。
やがて制限時間となり、シャーマンの「カバー!」という宣言でカンマ(プローブの区切り)となります。
ピリオドではなくカンマです。それはこのカヌレなるスポーツの創始者、ミハエル・ハイムカイト(1731-1789)の願いを反映しています。「物事を簡単に終わらせることのないように」との願いが込められています。カンマならば、まだ続くはずです。スポーツですから勝者と敗者が存在するのは必定ですが、どちらに対しても次の機会が配布されるのだと気付かされます。
勝負の判定基準については、暮内くんに今度訊いてみようと思っています。彼がそのことを知っているといいのですが。
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