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電車に乗れた

休職をしている。
1年で10キロ近く痩せた。適応障害とのことだ。
色々な症状がでるものだなとぼんやり自分を俯瞰して見ていたけど、かなり困ったのは「電車やバスに乗れない」ということだった。
確実に乗れるのは地元から各駅停車で1駅までで、それ以上になると全く自信がない。バスには一切乗れなくなった。どうなってしまうかというと、急に視界がどんどん狭まって息が苦しくなり、もう降りないと死ぬというところまで追い詰められる。

休職している間、好きなことをして気分転換しなよとみんな言ってくれるけど、かなり序盤でそうなってしまったため、わたしの世界は小さく小さくなってしまった。家族にも迷惑をかけた。

季節が変わってしまうくらい時間をかけて、少しずつ少しずつ、良くなって、悪くなって、悪くなって、良くなって少し元気になった。

ロマンスカーに乗ってみようと夫が言った。
混雑していない平日に休みを取るよと言ってくれた。それは8月の結婚記念日だった。

当日まで少し練習をした、片道15分、片道30分、各駅停車、中央特快、もちろん上手くできない日もあったけど、できた日は本当に嬉しかった。
やるじゃん、わたし!と思った。
リハビリのすべて付き添ってくれた夫、具合が悪くなれば車両から引きずり出して、できた日はすごいよとハグをくれた。何も急かさず寄り添ってくれた。

昨日、ロマンスカーで箱根に行った。
トンネルとか、近くの人のアルコールの匂いに少し緊張したけどドキドキバクバクせずについた。
気温は東京とあまり変わらないけど、夏山と川の音、蝉の声に遠くに来たのだと感じた。
わたしは遠くに来れたのだと。

今日、ロマンスカーで箱根から帰ってきた。
最新の電車の先頭は見晴らしが良く、ずっと眩しくて仕方がなかった。目には緑、空と海の青、ついてほしくないとすら思った。




先週の月曜日、わたしは2階から飛び降りようとした、家族に迷惑をかけていることが辛くて仕方がなかった。2階だと失敗したらさらに迷惑をかけるかと躊躇った瞬間に夫に羽交い締めにされた。

死なないでよ、なにもできなくていいからいてよ、 
いなくなったらどうすればいいのよと
夫は泣いていて、わたしはそれでももうしないなんて決して言えなかった。

夫は泊まった宿で夕食の最後に結婚記念日のデザートプレートを頼んでくれていた。びっくりした。
宿の人が写真を撮ってくれた。

これからもよろしくねと言ってくれて、わたしは、わたしは、この人の気持ちをどれくらい踏み躙ったんだろうと後悔で泣いた。夫はいつ宿に連絡してくれたんだろうと、どんな思いだったんだろうと
部屋食ではなかったからなんとかこらえたけどそれでも、まわりの人がおおっと思うくらいには泣いて、ケーキを平らげ、何度となく波が来ては泣いて
部屋に帰ってからはもう咽ぶように泣いた。
その背中をやさしくさすって、あと50年は一緒にいてねと言ってくれる夫も泣いていた。

死にたい気持ちがなくなることなんてないと思うけど、この人のために、この人といたい自分のためにもう少しだけ生きていようと思う。

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