【祝!直木賞ノミネート】一穂ミチ著 犯罪小説集『ツミデミック』「違う羽の鳥」特別公開 #1
「違う羽の鳥」#1
夜の雑踏のただ中にいる時、死後の世界ってこういう感じかな、とぼんやり考える。朝では駄目だ。会社なり学校なり、人々の「目的」があまりにもはっきりと見えすぎて空想が働かない。
街灯やネオン看板に見下ろされながら人波に抗わずただ揉まれ、流されするうちに自分というものがどんどんなくなっていく気がする。見知らぬ誰かとすれ違い、ぶつかり、触れるたびかつお節のようにうっすら削られて記憶も自我も散り散りになる。
わずかずつの喪失には痛みも恐怖もなく、気づけば魂は小指の先ほどの大きさになり、それもみるみるうちに擦り減って、あ、あ、と思う間に消えていく――その果ては完全な無か、生まれ変わりなどという制度があるのか、優斗にはわからない。
わからないが、その想像はいつも優斗をすこし楽にしてくれた。
誰だって、どう生きようが、結局辿り着くのは同じ場所だと思うと、足のだるさに耐えながら人混みの中で声を張り上げている自分自身を慰めることができた。
「お食事お決まりですかあ」
「居酒屋お探しですかあ」
「すぐ入れまーす」
引っきりなしに差し出すビラは十枚に一枚も目に留めてもらえない。週末の午後八時、一軒目を物色する客と二軒目を逡巡する客で繁華街はごった返していた。通りの左右にはカラオケ屋と飲み屋とチェーン飲食店の看板が点り、回り、点滅している。
そこに飲み放題だのサービスデー半額だのという手書きのポスターや立て看板まで加わった光景は、遠目に見ると外国のけばけばしいジェリービーンズを大小取り混ぜ撒き散らしたようで、こんなおびただしい情報を毎日摂取させられていると、自分の目はいつか「色」に飽きてすべてがモノクロに映るんじゃないかと思えてならない。
「お兄さんたち、二次会ですか、個室ありますよ」
「焼き鳥?」
「はい、おいしいですよー」
「あ、俺食いたい、でも歩くのだりい」
「すぐ近くですよ、座敷もありますしお寛いただけます」
「ふーん、じゃあまあいいか」
ほろ酔い加減のサラリーマン四人組を首尾よく捕まえ、店までアテンドすることができた。入り口のスタッフに引き渡すと思わず小さなガッツポーズが出る。二次会目当ての客はアルコールでガードが下がっている反面、値段や席について面倒な駄々をこねる輩も多く、この四人はアタリだった。三千円×四人と見積もって優斗の取り分は千二百円、五時から引いているので今のところ時給四百円はちっとも喜べる成果じゃないが、ボウズだったきのうとは雲泥の差だ。
新しい感染症が流行り始め、繁華街の客足は明らかに鈍っていた。数打ちゃ当たるで客を引っ張る方針のありふれた居酒屋には厳しい状況で、歓送迎会シーズンやGWのひと稼ぎには期待できそうにない。
新しいバイト探さな、飲食以外で何か……。
先が見えない生活は今に始まったことでもないが、未知の病という、去年まで思ってもみなかった不確定要素が不安に拍車をかけていた。何でこないなってもうたんやろ、と無意味な繰り言を脳内でリピートしながら機械的にビラを突き出し、声をかける。
ふと、視線を感じた。騒がしい場所でも自分の名前を呼ばれたら耳に引っかかると聞いたことがあるが、それと同じで、誰もが優斗を邪魔な障害物か石ころ程度にしか見なしていないこの雑踏で、どこからか意味のある眼差しが注がれている。
誰や。軽く周囲を見回すと、すぐに若い女と目が合った。若い、といってもざっくりした印象に過ぎず、マスクのせいで「たぶん二十代には収まる」くらいの推測しか立てられなかった。ひしめくネオンに痛めつけられた目がさらにちかちかしてきそうな金髪、真っ赤なトレンチコート、コンパスみたいなハイヒール、どれを取っても攻撃力が高そうな女で、もちろん面識はなく、優斗は慌てて目を逸らした。きっと自分の勘違いで、ぐずぐずしていたら「見てんじゃねーよ」と罵倒されるか、悪くすればどこからともなく男(ホストor反社風)が現れてオラついてくるに決まっている。
見ていませんよ、とわざとらしいほど明後日の方向を向いて呼び込んでいると、その女がヒールをこつこつ鳴らして近づいてくる気配を感じ、やばいと思った。ちょっとでも遠くに逃げるか? けど仕事中やし……迷っている間にもう女は傍に来て、勘違いしようのない距離から優斗を凝視する。やばい。何で?
「あ、どうも……」
おもねるような半笑いを漏らす優斗に、女が尋ねた。
「ひょっとして、関西の人?」
「え?」
「さっきしゃべってる時、イントネーションが」
と言う女の発音も懐かしい地元の抑揚で、優斗は思わずタメ口で「うん」と答えた。
「わたし、大阪やねんけど」
「まじで? 俺も」
「市内やったりする?」
「あ、うん」
「えー、嬉し」
長いつけまつげを瞬かせて笑うと、途端にあどけない雰囲気になる。二十歳の優斗とそんなに変わらないのかもしれない。女は「ひとりでもいける?」と優斗が持っていたビラを指差した。
「うん、全然いける、カウンター席あるし」
「案内してくれる?」
「もちろん」
派手な見た目とは裏腹に、大阪から出てきたばかりで心細いのかもしれない。優斗は自分の懐を痛めるわけでもないドリンク一杯無料券を「これ使って」と得意げに差し出した。受け取る女の爪は細く長く、電飾ばりにラインストーンでデコってあった。
「ありがとう」
女はそっと優斗に耳打ちする。
「仕事、何時まで?」
心拍数が一気に跳ね上がるのがわかった。
「……十時」
「結構早いねんな」
「あんま粘っても、みんな終電あるから帰っていくねん」
そう、この、ひとつの巨大な生き物みたいな人流のうねりは夜な夜なほどけ、散っていく。個々の帰るべき場所へ向かう。潮が引くように雑踏の密度が薄れると優斗はいつでも夢から覚めたみたいに寂しい気持ちになった。
「ふーん。ほな、十時過ぎたらこの辺で待っとったらええ?」
「あー……うん、きょうは大丈夫」
端から予定などないのに見栄を張ると、女は「ほな決まり」と優斗の腰の後ろに柔らかく指を沿わせた。
「どっかで飲み直そ」
(#2へつづく)
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作品紹介
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■■■光文社 文芸編集部 note■■■
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