【祝!直木賞ノミネート】一穂ミチ著 犯罪小説集『ツミデミック』「違う羽の鳥」特別公開 #2
「違う羽の鳥」#2
正直、半信半疑だった。からかわれただけかもしれない。今頃、下心丸出しの間抜け面がSNSに晒されているかもしれない。でもバイトを終え、裏口から店を出ると女は本当に待っていた。優斗に気づくと「お疲れー」と前からの知り合いみたいに手を振る。
「歩合なんやろ? 頑張って飲んで食べたで」
「知ってる。会計五千円以上いっとったやろ、ありがとう」
日払いで受け取った給料は五千円弱、悪くはなかった。今夜のうちに使ってしまう、どころかマイナスになる可能性もあるが。「行こ」と女はいとも自然に腕を絡めてくる。
「わたしの知ってる店でええ?」
ぼったくり、美人局、という言葉が優斗の脳裏をよぎると、見透かしたように「疑ってんの?」とさらにしがみついてきた。コート越しに当たるやわらかな胸の感触が五時間の立ち仕事の疲労を吹き飛ばしてくれる。
「お給料巻き上げたりせえへんから安心して」
その言葉が噓でも構わないと思った。東京に出てきて、いや人生で初めての逆ナンだった。化粧が濃すぎるけれど細身なのにしっかり胸があって余裕で許容範囲――と早くも下衆な皮算用に心躍らせ、女に連れられるまま小さなバーに入った。細く入り組んだ路地を右へ左へ入った袋小路にある店で、元の大通りに戻れるやろかと子どもみたいな心配をしてしまう。
うなぎの寝床式のカウンターバーのいちばん奥に通されると、優斗は壁のラックに上着を引っ掛け、「東京来て長いん?」と尋ねた。
「五、六年かな。何で?」
「めっちゃ上級者の店やん。俺、こんなとこまだよお入らんわ」
「上級者て」
女はくすくす笑い、バーボンソーダに口をつけた。マスクを外しても、一向にメイクは崩れていない。真っ赤な口紅がグラスにすこしも移っていないのを、手品でも見るような気持ちで眺める。
「名前は?」
「及川優斗」
「大学生?」
「んーん、ずるずる行かんくなって一年で中退した」
「えーもったいな。何かやなことあったん?」
「第一志望ちゃうかってん。でも親が浪人させてくれへんかって」
一限に寝坊するたび、講義がつまらないと感じるたび、友達ができずに学食でぽつんとうどんを啜るたび、俺のせいとちゃう、ほんまに行きたいとこちゃうからや、と自分に言い訳をした。長い夏休みをだらだら過ごしたら大学に足を運ぶ気など消え失せ、かといって実家に戻って親の小言を聞かされるのもごめんだった。体力と暇さえあれば、バイトを掛け持ちして自分ひとり食いつないでいくことはそう難しくない――二十歳現在は。
「自分も名前教えてや」
「平仮名でなぎさ」
「名字は?」
「井上」
井上なぎさ。フルネームを口に出さず唱えると、生ビールのパイントグラスを持った手が強張った。その名前を知っている。まじまじと女の顔を見つめても素顔が判然としないほど手の込んだフルメイクが視線を弾き返す。
「どしたん?」
「いや、何でもない」
特に変わった名前でもない。単なる同姓同名や、と自分に言い聞かせる。だって、井上なぎさは。
「井上さんは、」
「なぎさでええよ、優斗くん」
「なぎさちゃんは何歳なん?」
「やや、そんなん訊かんとってよ」
媚びた拗ね方は計算と習熟を感じさせ、いつもこんなふうに男をかわしたりはぐらかしたりしてるんやろうなと思わせた。
「ほんなら、何してる人?」
「愛人」
かと思えば直球すぎる回答に優斗はたじろぐ。カウンターの向こうのバーテンダーはいっさいの雑音を遮断したような澄まし顔でグラスを磨いている。ほかに客はいない。
「『パパ活』って逆にダサない? 愛人のほうがかっこええやろ。安心して、急に怖いお兄さんが押し入ってきたりせえへんから」
「別に心配してへんけど?」
「噓やん、めっちゃ入り口チラ見してるもん」
気恥ずかしさにビールを一気飲みした。家で飲む発泡酒より断然うまい。しんなりとやわらかい茹で落花生も塩加減が絶妙で、こんな店に気負いもなく立ち寄れるなぎさを大人だと思った。同時に、あの「井上なぎさ」とは全然違う、とも。
「愛人歴はどんくらい?」
「東京来てからとおんなじくらい」
「プロやん」
「そう。人口多いといろんな人間がおるからね、需要と多様性は大事」
悪びれず、赤い唇をにっと引き上げてみせる。
「危ない目に遭えへんかった?」
「それなりに」
多くを語らないさらりとした口ぶりが、却って恐ろしい。優斗は中学生の一時期のめり込んでいた、ある遊びを思い出す。誰にも話したことがないひそかなストレス解消法で、始めたきっかけも遠ざかったきっかけも井上なぎさだった。あんな遊びに耽っていたこと自体、忘れてしまっていた。アカウント、どないしたっけ。半ば無意識にスマホをいじる手元を、なぎさが横目で見ている。
「キャッチしとって、地元の連れにばったり会うこととかある?」
「ありそうでないな。気づかずスルーしてるだけかもしらんけど、こんだけ人おったら遭遇確率なんかめっちゃ低いやろ」
「そんなもんやんな。せやから、大阪出身ぽい人見たら声かけてまうねん」
「手当たり次第?」
割と、となぎさは頷く。
「何で?」
こんなメジャーな方言、東京でも珍しくない。大阪の人間は、訛りを隠そうとする意識が低い(と勝手に感じている)。
「都市伝説みたいなやつやねんけど、知ってる?」
唐突になぎさが尋ねた。
「K駅におる『踏切ババア』」
その言葉に背中のうぶ毛がぞぞっと逆立った。まさか。何やこいつは。誰や。思わず軽く身を引くと、なぎさは「あれ?」と嬉しそうに肩を寄せてくる。
「ひょっとして知ってる? まだおるんかな?」
「おい」
「うん?」
「どういうつもりや」
「何が?」
「……俺は、井上なぎさを知ってる」
「え、知り合い? すごーい、ほんまにばったり会うたやん」
ぱちぱちと軽く手を叩き「どこで一緒やったっけ?」と小首を傾げる。
「ごめん、わたし人の顔と名前覚えるん苦手やから」
「ふざけんな」
無理やり声を押し殺そうとすると、そのぶん指先がわなわなしてきて堪えきれず、カウンターにどんっと拳を押しつけた。つややかな一枚板の卓は当然びくともせず、バーテンダーは表情を変えず、なぎさも笑顔を崩さなかった。
「井上は――井上なぎさは死んだんや、線路に飛び込んで。お前の言うてる『踏切ババア』って、井上のお母さんやないか。ネタにしてええことちゃうぞ」
最初から知ってて俺に声かけてきたんか? いや違う、そんなわけない。あれは、俺と井上しか知らんはずや。混乱と怒りと得体の知れない恐怖で小刻みにふるえる拳に、なぎさがそっと手を添えた。鈍い照明に反射する、ちゃちなラインストーン。井上なぎさはこんなけばけばしい女じゃなかった。中学三年生だったのだから当たり前だ。もし大人になっていたら、髪を染め、爪を飾り立てただろうか? ありえへん、と思う。でも十五歳の優斗は、二十歳の自分がこんな体たらくだと予想もしていなかった。
「ねえ」
なぎさが甘ったるい声でしなだれかかる。
「二階で、落ち着いて話そ?」
トイレかと思った扉の向こうは狭く急な階段で、上がると三人並んでも余裕のでかいソファとテーブルがあり、一階よりさらに薄暗かった。ソファの後ろの壁にネオンサインのディスプレイが掛かっていて、うねうねとした筆記体の青白い文字を解読できずにいると、見透かしたようになぎさが「『Birds of a feather flock together』」と言った。
「同じ羽の鳥は群れる――類は友を呼ぶってこと」
「うん」
そんくらい知ってるわ、という顔をしながら、なぎさの滑らかな発音にどぎまぎしていた。井上なぎさも英語が得意だった。漫画みたいにテストの順位が廊下に貼り出されなくても、一学年四クラスの集団で自然とそういう情報は耳に入ってきた。優斗は井上なぎさと同じクラスになったことはなく、まともに会話したのも一度きりだった。
その優斗に、なぎさが尋ねる。
「うちら、どこで知り合うたっけ?」
まだ言うんか、と腹が立ったが、自分が怒鳴ろうが手を上げようが、隣に座るなぎさはみじんもびびらないだろうという確信があった。人生の厚みというか、越えてきたハードルの数が違う。言われるまま二階に来た時点で優斗の負けは確定しているのかもしれない。無口なバーテンダーが透明な酒の入ったショットグラスをふたつ運んできた。
「中三の、選挙管理委員会」
優斗は答えた。年に一度、生徒会役員を決める時だけ集まる委員で、通年で何らかの雑用を押しつけられるほかの委員より楽だった。形式的な投票が終わると、たまたま優斗と井上なぎさが、選挙に関するポスターを剝がして回るよう教師に言いつけられた。
「ああ、そういえばやったわ、選管」
なぎさが軽く頷く。
「塾と授業の記憶ばっかりで忘れとった。A中やんな?」
中学校の名前は合っているし、井上なぎさは常にトップクラスの成績だったから自然な反応だった。
「そうそう、一、二年と生徒会役員やったから、もう内申書大丈夫でしょ、三年は忙しいから拘束時間の少ない委員にしなさいってママが言うてん。優斗くんとどんな話したっけ?」
「裏アカ」
優斗は答えた。
「――からの、『#家出少女』」
なぎさがショットグラスを一気に空け、真っ赤な唇を舌でぺろりと舐めた。
「……ああ」
(#3へつづく)
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■■■光文社 文芸編集部 note■■■
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