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【祝!直木賞ノミネート】一穂ミチ著 犯罪小説集『ツミデミック』「違う羽の鳥」特別公開 #3

一穂ミチさん初の犯罪小説集『ツミデミック』の直木賞ノミネートを記念し、第一話「違う羽の鳥」を特別全文公開します!是非この機会にご一読ください。パンデミックד犯罪”を描いた大注目の傑作集をお見逃しなく!

「違う羽の鳥」#3

 学校じゅうの掲示板から手分けして剝がしたポスターを放課後の教室に持ち寄り、優斗は途方に暮れていた。委員会担当の教師に渡して任務完了のはずが、緊急職員会議とかで、職員室の扉には「生徒の入室厳禁」という札がかかっていた。早く帰りたい、けれど強引に突入する勇気はなく、井上なぎさと半端に離れた席でぽつんぽつんと座っていた。五月の終わり、だいぶ長くなった日がそれでも傾きかけ、西向きの窓の外が徐々にあかねいろに染まりつつあった。

 ――いつまでかかるんやろ。

 違うクラスの女子と気さくに話せるような性格でもなく、井上なぎさも成績以外は目立たない、大人しいタイプだった。沈黙の重さに優斗から会話の口火を切ると井上なぎさは困ったように「さあ……」と眉尻を下げた。

 ――六時過ぎたら部活終わって、みんな鍵とか返しに行くと思うけど。
 ――あと三十分くらいあるやん。

 もちろん責めたつもりなどない。けれど彼女が申し訳なさそうに両肩を縮めたので、優斗は慌てて「先生適当すぎるよな」と教師に批判の矛先を向けた。

 ――用事言うだけ言うて放置とか……会議ってどうせあのことやろ、二組のさくらとかが、ツイッターの裏アカ作っていろんなやつの悪口書き込んどったっていう。
 ――え、うちのクラス? 全然知らんかった。
 ――何か、五、六人でやっとったらしくて、それがバレて二組今めっちゃギスってるらしいやん。
 ――へえ……。

 遠い国の内戦の話でも聞かされたような反応だった。秀才はスクールカーストの小競り合いとは無縁なのかもしれない。淡白な態度を、ちょっとかっこいいと思った。

 ――ツイッターとか、やってる?
 ――ううん。

 とんでもない、というふうにかぶりを振る反応は優斗の予想どおりだったが、井上なぎさは思いもよらぬことを口にした。

 ――でも、ハッシュタグで検索したりはする。

 ――どんな?
 ――『家出少女』。
 ――え?

 ――あとは『神待ち』とか。
 優斗は困惑した。それって、身体からだ売ったりしてるやつってことやんな。わざわざそんなん探してまで見てんの?

 ――何で?
 恐る恐る尋ねると、「うーん」と気弱な微笑が返ってくる。

 ――みんな大変やねんなあ、って。

 あまりに雑というか、漠然とした理由だった。なぜ、そのように不穏なハッシュタグでなければならないのか。しかし突っ込めるほどの間柄ではないので押し黙ると、井上なぎさは「ごめんね、変なこと言うて」と目を伏せた。暮色の翳りを帯びたせいか、その表情は優斗よりずっと大人びて、そして優斗にはわからない憂いに満ちて見えた。胸が締めつけられるような気持ち、というものを生まれて初めて味わった。ろくにしゃべったこともないのに、井上なぎさが何らかの悩みを抱えているのなら、力になりたいと思った。放課後の教室にふたりきりというシチュエーションに浮かれただけかもしれない。それでも優斗はその時、確かにそう思った。

 けれど「俺でよかったら話聞くで」なんて切り出す度胸はなかった。

 ――井上、塾とかあるんちゃうん。先生には俺が渡しとくから、先帰ってええで。
 ――え、でも。
 ――ええって。あんま遅なったら、帰り道危ないしな。

 優斗に示せる精いっぱいの「男らしい配慮」だった。

 ――どうもありがとう。
 井上なぎさは席を立つと、優斗のところに近づいてきて「これ」と何かを差し出した。

 ――あげる。
 ――えっ?
 切手ほどの大きさの、プリントシールだった。

 ――え、これ、井上さん?
 ――うん。

 井上なぎさは恥ずかしそうに頷いた。てかてかした小さな用紙には顔を寄せ合うふたりの少女が写っていたが、どちらも加工しすぎて元の造作がわからない。あごは鋭角にとがっているし、顔面からはみ出しそうなほど拡大された目には百足むかでをくっつけたようなまつげが生えている。マットなフィルターが顔の輪郭をふわりとぼかし、その下には西暦と先月の日付、それから「親友」というへたくそな手書き文字がネオンカラーで輝いていた。

 ――友達と撮ってんけど、渡す人おれへんし……。
 ――友達、全然キャラ違うやん。うちの学校の女子?

 ――ううん。でも、何でも話せるねん。
 ――そうなんや。

 ――全然捨ててくれてもいいから。

 そう言われても、人が写った写真をおいそれと処分できない。ひとりになってから、そのシールを生徒手帳に挟み、ワイシャツの胸ポケットにしまった。わざわざ捨てるほどのもんでもないやん、と誰にともなく言い訳めいたことを思う。気づけば教室は暗く、西の空はかき氷のいちごシロップを溶かしたような、毒々しいほど鮮やかな夕焼けだった。

 井上なぎさが言った『#家出少女』を検索してみたのはそれから一週間ほどった深夜だった。勉強に飽き、リビングの充電スタンドに挿さったスマホをこっそり部屋に持ち込んだ。塾から帰ってきたら触らない、というのが親との取り決めだった。何の気なしに『#家出少女』と入力すると、たくさんのアカウントが引っかかった。

「親とけんしました」「残金千円ないです」「今晩泊まるところがありません」……真偽の怪しいいくつものSOSに、これまた虚実定かでないリプライがぶら下がっている。「大丈夫?」「二十三区内なら車出せます」「話聞くよ」……。

 きっしょ、と毒づき、顔をしかめながらも優斗はそれらのつぶやきから目が離せなくなった。塾の近所にある歓楽街のけばけばしいネオンや、そこを恥ずかしげもなく練り歩く男たちの姿が浮かび、ぞっとした。

 勉強に励み、いい高校、いい大学、いい会社、と人生のコマを順調に進めたところで、あんな大人にしかなれなかったら、と考えると頭をかきむしりたくなった。高圧的な塾の講師、特定の女子生徒を粘っこい目で見る教師、米もけないくせに威張り散らしている父親の顔が頭に浮かぶ。あいつらだって、偉そうに説教れる裏では若い女を食いものにしようと狙っているのかもしれない。周りにいる「大人の男」をそうやって見下すと、嫌悪がつのる反面でりゅういんが下がった。こんなやつらに何を言われようが怖くないと気が大きくなり、成績の伸び悩みなど大した問題じゃないと気が軽くなり、ふしぎと勉強がはかどった。優斗はたびたび『#家出少女』を検索し、都度、男たちの見え透いた甘言に鳥肌を立てながら液晶に見入った。そこでぎらぎらとグロテスクに発光する欲望に、憎みながらわらいながら、目を凝らした。

 夏休みに入ると、とうとう家出少女を装うアカウントを作った。表もないのに裏アカか、と自分ひとりでウケつつ、アイコンには井上なぎさからもらったプリントシールの写真を使った。これが誰かわかるのは本人だけだろうし、むしろ井上なぎさに気づいてほしかった。井上なぎさがなぜ『#家出少女』を検索するのか知りたかったのと、自分の話を聞いてほしかったからだ。受験や「将来」というあてどないものへの不安を、彼女となら分かち合える気がした。だって、同じものに引き寄せられているのだから。

「Nagisa_senkyo@JC」というアカウント名で、『#家出少女』とつけてでっち上げの孤独や寂しさを訴えると、たちまち二桁のDMが届いた。誰でも見られるリプライより遥かに下衆で即物的で、おぞをふるうとはこのことだった。河原や海辺の大きな石をひっくり返し、その裏でうごめく虫を観察するように優斗はそれらをチェックした。ちょうした性器の画像や自慰行為の動画まで送りつけられた時には、日本って大丈夫なんかな、とスケールの大きな危惧を抱いた。そして読むだけ読んで返信はせず、タイムラインに「こないだDMで知り合った人やさしかった」などと餌を投下するようにした。コミュニケーションを取りたいわけではなかったし、下手にやり取りしてぼろが出るのも怖い。夏休みの間に、自由研究としてまとめたいほど大量のエロメッセージが集まった。もちろん、中には優斗のようななりすましやひやかしも多分に含まれていたと思う。

 八月の終わり、二学期になったら、井上なぎさに話しかけてみようか、と考えた。別に『#家出少女』についてじゃなくても、塾の夏期講習の話とか、志望校のこととか……できるできないは別にして、楽しい想像だった。井上なぎさの控えめな微笑やうつむきがちな横顔を思い出し、いつどのタイミングで、どんなふうに声をかけようかとスマホ片手にシミュレーションするだけで勝手に頰がゆるんだ。

 でも、九月の半ば、井上なぎさはあっけなく死んだ。全校集会ではお悔やみよりも「マスコミに何か訊かれても相手にしないように」というお達しに時間がかれた。私鉄のK駅近くの踏切から線路に侵入し、回送列車にかれたらしい、という死因は表向きは伏せられていたが、あっという間に広まり、大騒ぎになった。実は裏アカ事件の被害者で中傷に苦しんでいた、いや加害者で𠮟責を恐れた、成績の悩み、ヤンキーの彼氏がいて妊娠していた……さまざまなゴシップが立っては消え、踏切で井上なぎさの幽霊を見たという目撃談まで飛び出し、優斗はひたすら「何でやねん」と思っていた。何で死んだんや。五月の放課後、もっと深い話をしなかったことを悔やんだ。『#家出少女』のツイートを眺め、「みんな大変」と言った彼女は何に苦しんでいたのか、本人の口から知ることはもうできない。

(#3へつづく)

■■■#4はこちら■■■

作品紹介

『ツミデミック』

著者:一穂ミチ
発売日:2023年11月22日

禍にのまれ、もがきあがいた人たちが見たそれぞれの世界線――
大学を中退し、夜の街で客引きのバイトをしている優斗。ある日、バイト中にはなしかけてきた大阪弁の女は、中学時代に死んだはずの同級生の名を名乗った。過去の記憶と目の前の女の話に戸惑う優斗はーー「違う羽の鳥」  調理師の職を失った恭一は家に籠もりがちで、働く妻の態度も心なしか冷たい。ある日、小一の息子・隼が遊びから帰ってくると、聖徳太子の描かれた旧一万円札を持っていた。近隣の一軒家に住む老人からもらったという。隼からそれを奪い、たばこを買うのに使ってしまった恭一は、翌日得意の澄まし汁を作って老人宅を訪れるがーー「特別縁故者」  先の見えない禍にのまれた人生は、思いもよらない場所に辿り着く。 稀代のストーリーテラーによる心揺さぶる全6話。

★ツミデミック刊行記念インタビューはこちら★

■■■光文社 文芸編集部 note■■■


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