正しくない人々の「正しさ」|千街晶之・ミステリから見た「二〇二〇年」【第9回】
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文=千街晶之
第六章 正しくない人々の「正しさ」
この章では、ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)と表現との関係について語ることになるが、本当にミステリについて論じているのかと思われてもやむを得ないくらい脱線を繰り返す記述になることをあらかじめ断っておく。それだけ、さまざまな具体例を挙げなければ語るのが難しいデリケートな問題でもある。
《文學界》二〇二一年九月号に掲載された能町みね子と武田砂鉄の対談「逃げ足オリンピックは終わらない」において、武田は過去の出来事を忘れずに指摘する自身の姿勢に関連して、「世の中はとにかくアップデート好きですよね。『アップデート』と言うだけで七十点はもらえるような風潮があって、それには逆らいたい」と発言している。これは、さまざまな新しい話題によって忘れてはならない過去が埋もれてゆく世間の風潮に異を唱えたものであり、普段の武田の左派論客としての立場と矛盾してはいない。とはいえ、何かにつけてポリティカル・コレクトネスに基づく価値観の「アップデート」を好んで口にするのは左派やリベラルの側であり、そんな彼らをやんわり批判するようなこういう表現は、例えばTwitterなどのSNSでは武田は決して書かないだろうとも思う。これは、武田が《文學界》のような紙媒体にまで目を通す読者ならば、自身の言いたいことを誤解しない筈だという信頼の表れだろうし、逆に言えば、SNSのような場では、読み手の水準に合わせた「わかりやすい言葉」しか使う気になれないということなのかも知れない。
これだけではぴんと来ないかも知れないので他の例も挙げておくと、評論家の藤田直哉が東日本大震災後の状況について論じるために、クラウドファンディングで資金を集めて創刊した《ららほら》という文芸誌がある。藤田は、ウェブではなく紙の雑誌としてこの企画を立ち上げたことについて、「紙メディアで少部数というのは決まっていて、そういう媒体だから公共化できるはずのこともあると思っていました。ウェブ版も考えていたんですが、それはやめました。炎上をやっぱり気にしてしまう。すぐに友敵で単純化されて攻撃されたり擁護されるんだけど、実際に人間の考えや気持ちってそう単純なわけではないわけで。そういう複雑なあり方を許容できるような、ゆっくりとした思考の場をちゃんと用意しないとダメかなと」(仲俣暁生×藤田直哉「第1回 震災後文学を日本文学に位置づける」、《ららほら》二号掲載、二〇二一年)と語っており、対談相手の仲俣暁生も「今日のような場も含めて、僕と藤田さんとが意気投合したのは、震災後文学についての議論というよりも、表現をめぐるあらゆる議論がSNSなどであまりに可視化されすぎて、むしろやりにくかったり、柔軟な議論ができにくくなっているときに、本音で話せるようになるといいよね、ということでした」と述べている。
こうした紙媒体とSNSでの表現の使い分けは、今や多くの文筆家が意識的か無意識的かは別にして心得ている筈だ(私もそうである)。それはSNSが、その書き手の文章をわざわざ読むような特定の人間相手の紙媒体ではなく、文脈などを理解しない不特定多数の人間の目に触れるため、すぐ揚げ足を取られて炎上しやすいから――という理由が大きいだろう。もちろん、むしろSNSを主戦場としているかのようなネットバトラー的資質が強い文筆家もおり、今はそういう人物のほうが華やかな舞台で活躍できるのかも知れないが、なまなかな胆力では続けられないだろうとも思う。
かつては紙媒体こそが「公」の領域であり、SNSは多くのひとにとってどちらかといえば「公」の場では言えないようなことを書いてきた「私」の場だったことを思えば、紙媒体のほうが本音を語るのに適した場となった昨今の流れは皮肉としか言いようがないが、こうして文筆家たち(武田砂鉄のような左派までも)がSNSでの発言に過剰なまでに気を遣わざるを得なくなったのは、ひとつには大衆がSNSにおける検閲者として振る舞うようになったことが大きいだろう。SNSの普及が、これまで沈黙を強#し$いられていた人々の意見を可視化したことは疑い得ない。しかし一方で、SNSは同じ意見を持つ「お仲間」を見つけやすい場であり、たとえ正しくとも正しくなくとも、集団となった声は自分たちが不快に感じる対象を容易に焼き尽くすようになった。
作家の桐野夏生は、二〇二二年十一月十二日、インドネシアのジャカルタで開催された第三十三回国際出版会議(主催は国際出版連合)において、「大衆的検閲について」と題された講演を行った(《世界》二〇二三年二月号掲載)。そこで桐野は次のように語っている。
ここまでは、反体制・反権力の立場から表現規制に反対する左派やリベラルと同じ意見だろう。しかし、桐野は更にこう続ける。
今の日本では「ごくごく普通の人々」こそが「検閲」と呼ぶに値する圧力を振るっているというのだ。この時、桐野の脳裏にあったのが昨今の「キャンセル・カルチャー」ブームであることは間違いないだろう。
そして桐野は次のように語る。
ここで桐野が危惧しているような、過去の作品における「政治的に正しくない」表現を後世の価値観から削除・改変する行為は、海外、特に英米を中心にここ数年盛んになっている。その中でも二〇二三年に相次いで報道された、ロアルド・ダールやアガサ・クリスティーらの作品の表現を改変して出版するイギリスの出版社の動きに対しては、サルマン・ラシュディらの作家が抗議し、リシ・スナク首相やカミラ王妃までが懸念を表明するほどの騒ぎとなっている。この件では、日本でも少なからぬミステリ作家がSNSなどで危惧を表明した。ただし、敢えて意地の悪い見方をするならば、彼らはダールやクリスティーといった大物ミステリ作家に火の手が及んできたからこそ、急にそのような発言をするようになったのであり、それまでは対岸の火事として甘い見通しを持っていた可能性がある。基本的に日本のミステリ作家はどちらかと言えば左派・リベラルが多く、それ自体は個人的には結構なことだと思うが、そのぶん「大衆的検閲」の危険性を軽く見積もっているひともいるように思えるのだ。
クリスティーに関して言えば、近年のイギリスではサラ・フェルプスが脚本を担当した一連のBBCのドラマに代表されるように、既に古典であるクリスティーを現代的な視点から大胆に再解釈する映像化の試みが繰り返されている。実際、霜月蒼の『アガサ・クリスティー完全攻略』(二〇一四年)で唯一と言っていいほどの酷評の対象となった『フランクフルトへの乗客』(一九七〇年)のように、現在どころか発表当時の価値観からしてもどうかと言いたくなる作品もある。また、ハーパーコリンズ社の新版でクリスティー作品の差別的表現が削除されたことを伝えるThe Guardian紙の二〇二三年三月二十六日の記事(同二十八日に修正)では、『ナイルに死す』(一九三七年)でエジプトを旅する登場人物のアラートン夫人が、現地の物売りの子供たちに嫌悪を示す台詞が引用されている(現行の早川書房クリスティー文庫の黒原敏行訳による新訳版では一四九~一五〇ページのあたり)。もちろん、アラートン夫人(作中ではやや古風で保守的だが慈愛深い母親であり、好感の持てる人物として描かれている)と作者であるクリスティーの意見を同一視すべきではないが、現在の作家が同じように書けば批判を集めそうな表現ではある。とはいえ、映像や演劇といった二次創作で新たな価値観を盛り込むのはともかく、原典そのものから不適切な表現を削除するのは歴史改竄以外の何物でもない。
特にミステリの場合、ちょっとした表現が手掛かりや伏線として提示されるため、そこを削除すると作品として成立しない場合も存在する。《週刊文春》一九八五年八月二十九日号および九月五日号で発表された「東西ミステリーベスト100」において、アンケートで国内一位に選ばれたのは横溝正史『獄門島』(一九四七年)、海外一位に選ばれたのはエラリー・クイーン『Yの悲劇』(一九三三年)だった。どちらも、政治的に正しくない表現があることはミステリファンならご存じだろう。《週刊文春》二〇一三年一月四日臨時増刊号(刊行は二〇一二年)では再び「東西ミステリーベスト100」がアンケートで選出されたが、国内一位は変わらず『獄門島』であり、海外一位はアガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』(一九三九年)が『Yの悲劇』に取って代わったけれども、物語の舞台である「インディアン島」が現行の版では「兵隊島」になっていることもよく知られている。
島の名前が変わった程度ならまだいいが、ミステリのジャンル的特性が「言葉狩り」と衝突すると、優れた作品が危うく葬り去られかねない事態すら起こり得る。山田風太郎が二〇〇〇年に第四回日本ミステリー文学大賞を受賞したことを記念して、光文社は二〇〇一年から文庫版の「山田風太郎ミステリー傑作選」全十巻の刊行を開始した。ところが、その第二巻『山田風太郎ミステリー傑作選2 十三角関係 名探偵篇』に収録されていた中篇「帰去来殺人事件」が、二版および三版では削除されたのである。「帰去来殺人事件」では、現在では差別用語とされる言葉が使われており、しかもそれが重要な手掛かりであるため、そこだけどうにかするのは不可能だ。そのため光文社内から作品自体を自主削除すべきだという意見が出て、それに対し実際に抗議が来たわけでもないのにおかしいと編集部は抵抗したものの、とうとう削除されてしまったのである。編者の日下三蔵による編集部への働きかけと、削除に対する読者からの抗議のおかげで、「帰去来殺人事件」は四版からは再び収録されることになった。このあたりの事情については、『帰去来殺人事件』河出文庫版(二〇二二年)の日下三蔵による解説に記されている。
二〇〇一年当時の出版社の自主規制と、昨今のキャンセル・カルチャーの流行を一緒くたにするべきではないとはいえ、作家なり出版社なりがここで危惧しているのが国家による検閲などではなく、正義感に駆られた大衆からのリアクションであることは同じと言っていいだろう(二〇〇一年当時の光文社はそれを恐れるあまり、抗議が来ないうちから自主規制に走った)。ミステリは犯罪を扱うことが多いジャンルである以上、そうした吊るし上げの対象になりやすい。
こうした「大衆的検閲」を是認する立場の人間(主に左派)には、社会的マイノリティや大衆による不買運動や抗議運動などは検閲にはあたらないという考えの者が多い。果たしてそうだろうか。
先述の講演「大衆的検閲について」に先立って桐野夏生は、学者やジャーナリストやアーティストらが現代日本社会の「自由」の危機についての文章を寄稿した新書『「自由」の危機 息苦しさの正体』(二〇二一年)所収の「恐怖を感じてもなお書き続ける」で、「もちろん、社会としてあらゆる差別をなくすというのは極めて正しいことで、私もそう強く願っていますが、それを表現物も含めて一律に規制を課していくことは、また別の話だと思っています」「たとえば、人間という矛盾に満ちた不可思議な存在を描く場合、あえて差別的な人物を書く必要があります。そういう人は当然差別的な言葉を吐くわけですが、コンプライアンス(法令遵守)やポリティカル・コレクトネス(政治的妥当性)に配慮して、別の言葉に置き換えていくと、私の頭の中で思い描いている人物が発すべき言葉とは違ってくるし、私の意図も伝わりにくくなっていく」「戦前・戦中の治安維持法の場合は、特高(特別高等警察)や憲兵という国家権力が上から思想や言論を抑えつけたわけですが、いまは、『日没』で描いたように、ごく普通の人がネット上のある発言なり文章の一場面を切り取って、『これはポリティカル・コレクトネスに反している』と告発するようなことが起きている。そこには戦前とはまた別の恐ろしさがあると思います」「加えて、いま私が危惧しているのは、若い世代にとって、グローバリズムやポリティカル・コレクトネスの考え方が内在化していることです。そうすると、新自由主義やグローバリズムの危険性や、ポリティカル・コレクトネスやSDGsといった一見正しく思えるものに潜んでいる危うさをいくら説いても、若い人たちには分かってもらえないのではないかと、時々、無力感に襲われることがあります」と、下からの検閲の危険性、ポリティカル・コレクトネスを疑わないことの危うさを強く説いている。
こうした桐野の考え方が反映された小説が『日没』(二〇二〇年)である。主人公の作家・マッツ夢井は、ある日、読者から告発を受けて、「療養所」と呼ばれる事実上の思想矯正施設に収容されてしまう。告発の内容は、「マッツ夢井の諸作品には大きな問題があります。レイプを奨励しているかのような書き方も嫌だし、子供を性対象にする男を描くなど、本当に許せない」というものだ。連行されたマッツと「総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会」なる肩書を持つ官僚のあいだでは、次のような対話が繰り広げられる――「表現は自由ですけどね、何もかもが自由というわけじゃありませんでしょう。そうでなければ、社会はすべてが野放しになってしまう。今は犯罪が多発して、性犯罪も増えてます。そして悪質化、低年齢化しています。イジメによる殺人や自殺も増えた。これらの原因は、野放しのマンガや小説ではないか、とも言われているんですよ」「そんなつまらないことは言わないでください」「しかし、影響がないとは言えない」「影響がまったくない、とは言わないです。でも、それが芸術なんです。人の心の深いところに響いて、人を動かす。だからと言って、安易に規制するのは間違っています」「ほら、先生も影響を認めてる」「言質を取らないでください」。
この小説では、告発するのはあくまで読者であり、国家は決して主体的な判断を下さない。読者は悪意ではなく正義感から、政治的に正しい振る舞いをすることを表現の世界にまで強要し、国家はそんな国民の声に対応するだけなのである。
桐野はかつて『バラカ』(二〇一六年)という小説を書いた。東日本大震災の原発事故による放射能汚染が東京にまで及んだという設定の作品である。基本的にディストピア小説は、現実よりも更にエスカレートした事態を描くことで現実に内包された危うさを告発するものだ。『バラカ』がそうであったように、『日没』もまた、作家が読者からの告発で思想矯正施設に収容されてしまうという、今のところは起こっていない事態を想像して描くことで、「大衆的検閲」が拡大しつつある今の日本を告発しているのである。
比較的近年の小説に限定しても、主婦の苦労を理解しないわがままな家族たちにうんざりした女性が家出を決行する『だから荒野』(二〇一三年)、連合赤軍事件を女性の立場から描いた『夜の谷を行く』(二〇一七年)などを書いている桐野夏生が、フェミニストでないなどというひとはどこにもいないだろう。しかし、桐野の立場は、思想のために事実上の表現規制をも是とするタイプのフェミニストとは全く異なる(先に引用した官僚の言い分が、そうしたフェミニストが表現規制反対派をやり込めようとする時の言い分にそっくりであることは明らかだ)。表現規制派フェミニストには作家も含まれているけれども、そうした人々と、一作家としても日本ペンクラブ会長(二〇二一年就任)としても表現の自由をより広く深く捉えている桐野とでは、立場が全く違うのである。
近年のトピックのうち、上からの検閲を代表するものとしては、二〇二〇年、菅義偉首相(当時)が日本学術会議の推薦した新会員候補者六名の任命を拒否した件が挙げられる。『「自由」の危機 息苦しさの正体』も、この件に対する危機感から編纂された一冊である。
では、二〇一九年八月、愛知県で開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が、そこで従軍慰安婦像や、昭和天皇の写真を燃やす映像などが展示されたことに対し、右派から批判や脅迫が行われ、開幕から僅か三日で中止に追い込まれた一件はどうだろうか。
この件に関しては、大村秀章愛知県知事(芸術祭実行委員会会長)対河村たかし名古屋市長(芸術祭実行委員会会長代行)、あるいは朝日新聞対産経新聞といった政治対立の構図が次第に出来上がっていったけれども、《美術手帖》二〇二〇年四月号掲載の「CHRONOLOGY 時系列で振り返る、あいちトリエンナーレ2019」(構成:今野綾花)で確認し得る限り、最初から河村市長が反対運動を牽引したのではなく、右派とはいえ一般市民から生まれた抗議活動である。それに河村や松井一郎大阪市長(当時)、和田政宗参議院議員ら保守派政治家が便乗して「表現の不自由展・その後」を中止に追い込んだのだが、これは体制による検閲というより、桐野夏生が恐れる「大衆的検閲」を体制が利用したというべきだろう(企画展の中止を含めた適切な対応を求める河村市長の要望に対し、大村知事は記者会見で、憲法二一条第二項は公権力が思想内容の当否を判断すること自体が許されていないと抗議したが、ここでの河村の言動は公権力による検閲に該当する)。
この「CHRONOLOGY 時系列で振り返る、あいちトリエンナーレ2019」にも記されていないのだが、「表現の不自由展・その後」においては、実は違う方面でも「表現の自由」に関わる問題が起きていた。先述の『「自由」の危機 息苦しさの正体』に「すべての作品には発表の自由がある」を寄稿したアーティストの会田誠は、そこで「表現の不自由展・その後」の実行委員たちに、怒っている市民を説得しようとする熱意が弱かった点に不信感を表明しつつ、次のように記している。
ここでは記されていないが、「表現の不自由展・その後」では会田誠(正確には、会田家)の「檄」という作品が、「あいちトリエンナーレ2019」の芸術監督を務めた津田大介から展示してほしいと要望されていたにもかかわらず、実行委員会からの反対によって断られたという事実がある。「檄」が外されたことについて、津田大介は自身のTwitterアカウントで「会田家外すことに僕は納得が行かなかったのですが、不自由展実行委の中心人物が『会田誠入れるなら降りる』と言ってきたのでやむなく飲みました。ただ『このことは対外的に説明が付かない。会期始まったら不自由展のトークプログラムでこのことは公開するがいいか?』と聞いてその了承はもらいました。」(二〇二一年七月十四日)と述べているけれども、自分の意思で会田の作品を入れたいと言い出しておきながら、最終的に弱腰だったのは否定できない。この件については、元アーティストで文筆家の大野左紀子がTwitterで「『不自由展』実行委は『政治活動家』であることを優先し『芸術家』であることを徹底しなかった、というより、彼らは端的に『性』の問題を回避したのだと思う。」(二〇二一年七月十五日)と喝破した通りだと思う。
こうした昨今の傾向への警鐘と解釈し得るメッセージを含んだミステリも、幾つか存在している。その一冊が朝井リョウの『正欲』(二〇二一年)だ。これをミステリだと言うと異論も出そうだが、まず三人の登場人物が小児性愛者のグループの一員として逮捕された記事が掲げられ(あとで判明するように、その記事は微塵も彼らの本当の姿を捉えていない)、そこからその裏で繰り広げられていた真実が語られてゆく構成は、少なくともミステリ的小説作法であることは確かだろう。この小説で告発されているのは、自分たちの許容できる範囲までは「多様性」の美名のもとに認め、それ以外は排除する現代のポリティカル・コレクトネス信奉者の矛盾と冷酷さである。
冒頭では、ある人物の述懐が繰り広げられるが、そこには次のようなくだりがある(引用は新潮文庫版、以下同じ)。
また中盤では、主人公の一人である桐生夏月が、「多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ」と思うシーンもある。
実際、「あいちトリエンナーレ2019」の実行委員会が会田誠の作品を排斥したように、自分にとって不快な表現は表現の名に値しないとして、さまざまな理屈をつけて排除する例は昨今しばしば見られる(そういう時の彼らの姿勢は限りなくリベラルからは遠く、表面上はむしろ保守反動と見分けがつかない)。そうした人々には、「時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していること」に直面する勇気などないし、多様性を掲げつつも所詮は小市民的道徳と共犯関係を結ぶ狡猾さへの自覚もない。更に言えば、何が許されるべき多様性で、何がそうでないかの文脈をジャッジできると考える「道徳の権力者」としての傲慢さを自認するだけの自己客観視能力もない。
それが排除を通り越して抹消という極端な結果に至ってしまったのが、二〇二二年に刊行される予定だった樋口毅宏の小説『中野正彦の昭和九十二年』が、版元のイースト・プレスによって発売直前に自主回収された一件である。この小説の語り手・中野正彦は、安倍晋三を尊敬する「ネトウヨ」であり、インターネット上で右派的言説を繰り返す(そこでは在日韓国・朝鮮人に対する差別もストレートに記述されている)。だが最終的に、中野は安倍首相の暗殺を企てるテロリストへと変貌を遂げる。
この作品が回収された理由はいまひとつはっきりしないのだが、安倍晋三が結果的に現実でも暗殺されてしまったからとか、実在の人物や団体が出てくるからといったことではないようだ。石戸諭「〈正論〉に消された物語――小説『中野正彦の昭和九十二年』回収問題考」(《新潮》二〇二三年三月号)の記述に従うなら、「この作品の担当者ではない版元の編集者が自身のツイッターアカウントで、この作品を『現実のヘイトスピーチを無断転載してるだけ』『差別に加担する自覚がない』といった激しい言葉で批判し、発刊について抗議の意思を示した。ついには編集者同士のLINEの内容まで公開して、自分の主張が如何に正しいかを喧伝し、フォロワーに助けを求めるのであった。一連のツイートは、ツイッター上で差別問題に関心を持つ層へと広がり、作品を読まずして樋口、担当編集者と版元への批判が高まるという異例の事態となった。この騒動を通して、本書は『ヘイト本』という批判を集めることになる」という経緯があったようだ。
樋口自身はもちろん「ネトウヨ」に与するのではなく、むしろ逆の立場からこの小説を執筆している。「〈正論〉に消された物語――小説『中野正彦の昭和九十二年』回収問題考」では、石戸諭の取材を受けた樋口が、「執筆の動機になったのは、ここ数年ツイッター、他のSNSでも極右的な言葉や、差別的言動が広がってきたことです。彼らの暴力的な言動に衝撃を受けました。(中略)これはSNSで、匿名で発信する人々だけの問題ではありません。/実名で語る著名人であっても、ほんの数年前であれば、社会的に大きな批判を受けるような暴論を発信しても、何事もなかったかのように受け入れられています。書店には『ヘイト本』と呼ばれるような本が並び、当たり前のように売れています。やがて新しい戦争がやってくるのではないか、という危機感もありました。そこで現実に起きたニュースに虚構のニュースを織り交ぜた小説を書くことで、自分が想定する最悪の未来を描けると考えたのです」と語っている。基本的に左翼である大江健三郎が、左翼から右翼へと鞍替えした少年(日本社会党委員長の浅沼稲次郎を暗殺した山口二矢をモデルとしている)の一人称で綴られた中篇「セヴンティーン」と続篇「政治少年死す」(ともに一九六一年)を執筆したようなものだろう。
『中野正彦の昭和九十二年』を実際に読んだルポライターの清義明は、《論座》二〇二二年十二月二十七日の記事「ネトウヨを主人公に据えた〝ヘイト本〟は、なぜ自主回収されたのか 実在の人物名も登場するディストピア小説『中野正彦の昭和九十二年』出版中止騒動」で、「本書は差別本でもなんでもなく、むしろ反差別本である。どのように読んだとしても、そうとしか読めない」「確かに差別表現やヘイトクライムシーンがこれでもかと出てくる。不快な表現であるし、ショッキングな描写も多数ある。しかし、これはフィクションである。しかも明確に反差別の意図があることは誰にでもわかるだろう。主人公のモノローグで綴られたフィクションが、むしろ主人公を批判的に描いていることなど、ドストエフスキーの昔から別に不思議なことではない」と述べている。ところが、騒動の火付け役となったイースト・プレスの編集者にはそんな文学的意図は通じなかった。その編集者は、本気の差別と、作家の創作上の技巧としてのアイロニーや虚構とは区別がつくものではなく、文脈抜きにして世に出してはならないという信念に従ったのかも知れない(実際、区別がつかない水準の読者は沢山いる)。しかし、この論法を拡大解釈するならば、かなり多くの文芸作品を発売禁止に持ち込めることになってしまう。例えばミステリでいうなら、悪人が罰せられずに終わるタイプの作品は出版できなくなる恐れがある(まさかと思うだろうが、悪が罰せられないフィクションは規制すべきだと考える人間は実際にいる)。
まるで桐野夏生の『日没』を再現したような騒動だが、大きく異なるのは、『日没』では読者の告発によって作家が罰せられるのに対し、『中野正彦の昭和九十二年』騒動では、それ以前の段階、つまり読者の審判に委ねることすらなしに出版社が一つの小説を(それも、自社で刊行すると一度は決定した小説を、担当編集者の判断を差し置いて)刊行直前に葬り去ってしまったのだ。もはや、現実はフィクションをも超えようとしているのかも知れない。
しかし、『正欲』が訴えているように、清く正しく美しい自分が見たくないと感じるもの、それもまた人間のありようであり、表現の可能性である。それを排除・抹消するような価値観が多様性の名に値するだろうか。『正欲』が第三十四回柴田錬三郎賞を受賞し、二〇二二年の本屋大賞にノミネートされ、二〇二三年には映画化も決定するほど多くの読者から支持されているのは、この作品が綺麗事でコーティングされた偽善の奥底まで掘り下げたからだろう。
下村敦史の『同姓同名』(二〇二〇年)では、津田愛美という六歳の女児が残忍な方法で殺害される事件が起こり、十六歳の少年が犯人として逮捕される。少年法によって彼の名前は公表されなかったが、ある週刊誌が実名公表に踏み切ったため、「大山正紀」という犯人の実名は日本中に知れ渡ってしまう。そして七年後、犯人が出所したことで、騒ぎが再燃する――という物語だが、タイトル通り、作中には数多くの「大山正紀」という名前の人物が登場し、巻頭には「1 家庭教師の大山正紀」「2 中学生の大山正紀」「3 茶髪の大山正紀」など、作中に登場する十人の大山正紀を紹介した図版が挿入されている(引用は幻冬舎文庫版、以下同じ)。
私はこの連載の第三章で、下村敦史の「難民調査官」シリーズを例に挙げ、「『難民調査官』シリーズでは正論に凝り固まって異論を受けつけない人間や弱者に過度に感情移入する人間(活動家やジャーナリストなど)が批判的に描かれており、それは下村なりのバランス感覚なのだろう。他の作品を読む限り、そのバランス感覚がプラスに出る場合もあるのだが、少なくとも『難民調査官』シリーズにおけるそれが単なる『逆張り』としてしか作用しなかったことは、その後次々と明らかになっている実際の入管の不祥事が証明している」と評したことがある。ここで私が「他の作品を読む限り、そのバランス感覚がプラスに出る場合もある」と述べた、「他の作品」のうちの一つが『同姓同名』である。
この作品では、七年前の事件の犯人である大山正紀の住所を突き止めたというツイートが拡散され、その父親がある企業の役員だったという情報が大衆の義憤と憎悪を煽り、『こういう父親は子育ては母親に丸投げだろ。若者に偉そうな説教を垂れるだけが生き甲斐で、家庭を顧みないクズ』『父親も吊るせ!』『また富裕層の犯罪か!』といったツイートが溢れ返る。また、父親が献血を呼びかけている社内広報用のポスターまで引っ張り出され、『みんなで献血を拒否しよう! 殺人犯の家族が訴えるポスターなんかに釣られる人間は愛美ちゃんを殺した犯人と同罪! 正しい判断ができるか試されています!』とツイートする人物まで出てくるのだが、実はこの献血拒否ツイートには実際のモデルがある。二〇一九年、丈による漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』のキャラクターが日本赤十字社の献血推進ポスターに採用された時、弁護士の太田啓子らがそれが「環境型セクハラ」にあたるとして批判を行い、それに対する反論もまた拡がるという炎上騒動があったが、この際、太田らの意見に与するあるフェミニズム系アカウントが「宇崎ちゃん取り止めないなら献血許否しよう!/特に男性、ただしい脳による判断ができるかどうかが試されています。」(二〇一九年十月十七日、現在は削除)と献血ボイコットを呼びかけるツイートをし、批判が殺到したのだ。流石にこれには同じフェミニズム系アカウントからも窘める声が出たものの、人命や身体の健康と主義の対立において後者を優先するフェミニストが他にも存在することは、その後もTwitterにおいて可視化されている。
もう一作、市川憂人の『神とさざなみの密室』(二〇一九年)も挙げておこう。左翼系市民団体のメンバー・三廻部凜と、和田要吾首相(作品発表当時の首相・安倍晋三をある程度モデルにしている)を支持する右翼系市民団体のメンバー・渕大輝が、ドアひとつでつながれた二つの密室に監禁され、両者のあいだには顔を焼かれた死体が横たわっていた……という物語だ。両者は互いを犯人ではないかと疑い、推理合戦と並行して政治的論争をも繰り広げる。
この小説において、両者の描き方はニュートラルなものとなっているが、それでも著者自身の政治的立場が左派に近いことは明白に窺える。とはいえ、大輝に襲いかかられた凜が「あなたのような、女をモノ扱いする気持ち悪いオタクみたいな人、顔も見たくない。今すぐ出て行って!」(引用は新潮文庫版、以下同じ)と口走った件に関しては、あとで「ちりめん」と名乗る左派のネット論客から、DMで『出て行けはともかく「気持ち悪いオタク」はまずかったっスね』『オタクの人たちがみんな、気持ち悪かったり右寄りだったり差別主義者だったりするわけじゃありません。反和田政権デモやカウンター活動に参加するアニメ好きの人たちもいっぱいいるっス。/日本人の中に外見上の偏差値の高い人とそうでない人がいるのと同じで、二次元好きな人の中にも見た目のいい人間とそうでない人間がいるだけの話っス。平均すれば、オタクの人たちと日本人全体との間に、違いなんてこれっぽっちもありゃしないっスよ』と窘められる。外国人排斥を唱える右派の鏡像さながら、オタクをひとまとめに敵扱いして蔑視する左派の悪弊に対する批判だが、この傾向は現在更にエスカレートし、オタクはすべて右派だと言わんばかりの偏見と悪意に満ちた言説が左派やフェミニストによって流布されている。そこには、市川憂人がこの作品で示そうとしたフェアな姿勢のかけらもない。
こうした指摘をすると、すぐに「マジョリティとマイノリティのあいだには権力勾配が存在する」だの「権力側による弾圧だけが表現規制で、私たちのは正当な抗議」だのといった反論が返ってくるだろうが、それが表現規制を推進したいフェミニストや左派・リベラルにとって都合のいい言い訳でしかないことを示したのが、二〇二一年、松戸市のご当地VTuberの戸定梨香による松戸警察署・松戸東警察署への交通安全啓発活動の協力に対し、「女性・女児を性的対象とみなす固定観念に沿った描き方を、公的機関である警察が使うのは問題」と捉えた全国フェミニスト議員連盟が千葉県警・千葉県知事・松戸市長らに「公開質問状」を送付し、「当局の謝罪、ならびに動画の使用中止、削除を求めます」と抗議した騒動である。これを受けて警察は動画を削除し、戸定梨香の出演イベントが複数中止になった。
この件では、全国フェミニスト議員連盟への抗議の署名が七万筆を突破したにもかかわらず、議連の共同代表で松戸市議の増田かおるはこれを一切無視するなど、市民の声を聞くべき議員にあるまじき振る舞いが目立った。また、増田は松戸警察署に圧力をかけたことを自身のTwitterアカウントで否定したけれども、議連の抗議文がなければ警察が動画削除に動くわけはないし、そもそも政治家として自分たちのしたことが正しいという信念があるのならば、堂々と「自分たちの抗議のおかげで動画を削除させることに成功した」と主張すればいいだけの話である。彼女たちが行為の責任を負おうとせずにすべてを警察に押しつけたのは、市議会議員という一般市民よりも明らかに強い立場を持つ自分たちの責任で表現規制を行ったのであれば、それはすなわち「権力による規制」になってしまい(もはや桐野夏生の言う「大衆的検閲」ですらない)、反権力による抗議活動は規制でも検閲でもないという普段からの主張と矛盾を来すからだろう。私はかねがね、表現規制派のフェミニストや左派が実際に政治的に力ある立場になった場合、権力を振るいながら反権力という建前だけは絶対に手離さない最悪の権力が誕生するだろう――と予想していたけれども、まさにその通りになったわけである。
また、この件における増田議員の振る舞いからもわかるように、フェミニズムやポリティカル・コレクトネスを錦の御旗さながらに掲げる人間の言動が、それに値するほどご立派なものではない場合が多い――ということについても触れておかなければならない。つまり、ポリティカル・コレクトネス自体は正しくとも、それを掲げる人間が正しいとは限らない――という問題だ。その中でも最悪と言える、フェミニストの味方として振る舞っておきながら実態は性犯罪者だったケースとしては、ロックバンド「Hysteric Blue」の元メンバーで二〇〇四年に性犯罪で逮捕されたナオキこと二階堂直樹(出所後、Twitterでフェミニズム的発言を発信していた)が二〇二〇年に再び性犯罪で逮捕、虐待や薬物使用などの事情を抱える少年少女らを支援するNPO法人の設立者で牧師の森康彦が覚醒剤取締法違反で二〇二二年に逮捕(《集英社オンライン》二〇二二年十二月九日の記事によれば、内縁関係にあるという女性が森に覚醒剤を打たれ性行為をさせられたと訴えたことから森の逮捕に至った)、日本共産党千葉県委員会元書記長の大西航が盗撮や女子高生への脅迫容疑などでやはり二〇二三年に逮捕……といった例が挙げられる。フェミニストは何かにつけてオタクを性犯罪者予備軍扱いするけれども、実態はこの通りである。刑事事件にまでは発展せずとも、普段からポリティカル・コレクトネスを掲げて松江哲明やキム・ギドクといった映画監督を手厳しく断罪するなどしておきながら、飲み会で盗撮などのセクハラ行為を働いた映画ライターのFのような例もある。
こうした卑劣な人物は、ポリティカル・コレクトネス信奉者の中でも一握りの少数派ではあるだろう。しかし、普段はフェミニズムやポリティカル・コレクトネスに反する人物を厳しく非難する界隈が、そうした「お仲間」の行為には極力触れないようにする――となれば話は別である。フェミニズムやポリティカル・コレクトネスの理想に傷をつけないため、そうした出来事には目を瞑ってしまおうという打算が垣間見えるからだ。実際、森康彦や大西航が逮捕された際、私とTwitterで相互フォロー関係にあり、なおかつフェミニズム的傾向が強いアカウントを注意深く観察していたけれども、彼らの犯罪について、言及どころかリツイートをした例すらも皆無だった。森や大西は、最近ある騒動の渦中にいるフェミニスト活動家の支持者でもあったため、その活動家に味方する側にとっては、森や大西の件は触れてほしくない材料だったことは容易に想像できる。とはいえ、活動家に不利になるから(敵を利することになるから)「お仲間」だった人物の性犯罪はなるべく見なかったことにしておこう――というのが彼らの思惑ならば、フェミニストの看板などさっさと下ろしてしまえばいいと思う。
映画ライターのFの件に至っては、普段はフェミニズム的言動を盛んに発信しておきながら、加害者であるFの言い分を引用して被害者の心情を推測し、この件にTwitterで言及した私に「第三者が触れることが二次加害になる可能性があります」と抗議してきた人物までいた。普段なら加害者の言い分を引用するだけで二次加害だと騒ぎ立てるような人物が、ポリティカル・コレクトネス信奉者によるセクハラの時には平然と立場を逆転させ、加害者をかばい立てしようとしたのだ。
更に私を失望させたのは、Fのセクハラを被害者に代わって告発した映画評論家および私と共通の知り合いであり、ある作家主催の飲み会の席でも何度も同席したことがある二人のミステリ業界人――某書評家と某大手出版社編集者(ともに男性)が、普段はTwitterでフェミニズムやポリティカル・コレクトネスを支持するツイートをしておきながら、この件では何のリアクションも示さなかったことである(この件について、この二人が一切のリツイートも「いいね!」もしていないことは当時きちんと確認している)。口先だけで綺麗事を言うのは簡単だが、身近に起こった出来事を完全無視しておいて何がポリティカル・コレクトネスだろうか。この二人の書評家・編集者としての仕事には敬意を払うが、こういう面に関しては私は彼らを、流行りに乗っただけの「ファッションポリコレ野郎」と見なすことに躊躇しない。
現在はこういう左派の偽善的ダブルスタンダードが悪目立ちする傾向があるため、ネット上などでは、かつては石原慎太郎のような右派が表現規制を行ったが、今や左派やリベラルが検閲を推進している――といった意見も見られる。しかし、これは半分しか正しくない。その証拠を挙げるならば、東京新聞二〇二三年四月九日の記事によると、過激な性描写のある漫画などを「不健全図書」に指定し、十八歳未満への店頭販売を禁止する東京都青少年健全育成条例について漫画家らが「不健全という呼び名を変えてほしい」と陳情したところ、三月二十四日の本会議で不採択となったが、文教委員会の審議で「不健全図書という5文字に青少年への制限という意味は入っていない」「『青少年への販売等禁止図書』など、客観的な表現にしては」などという立場でこの陳情に賛成したのは共産党、立憲民主党、ミライ会議であり、一方、「成年向け図書を指定する条例ではない」「新名称を考える必要がある」「保護者の意見が反映されていない」などと反対したのは自民党、都民ファーストの会、公明党だった(東京都も変更には否定的)。こうした動きを見ても、左派に比して右派が「表現の自由」に理解があるとは言えず、両派とも相手側の主張と敢えて反対の逆張り意見を唱えているか、両派とも自分に都合のいい「表現の自由」しか尊重する気がない――というのが実状だろう。
日本初のインターネットとコンピュータゲームの利用時間を規制する条例として悪名高い「香川県ネット・ゲーム依存症対策条例」(二〇二〇年四月施行)では、二〇一六年に二つに分裂した県の自民党会派(自民党県政会と自民党議員会)がそれぞれ議案に賛成・反対に分かれるなど、保守か革新か、右か左かでは割り切れない複雑な事態も発生しているが、『元年春之祭』(二〇一六年)などの本格ミステリの書き手としても知られる陸秋槎のSF短篇集『ガーンズバック変換』(二〇二三年)の表題作は、この条例の施行後、香川県に住む未成年者たちがネットやスマートフォンやTVへの視覚的アクセスを禁止され、強固なフィルタ機能を内蔵した眼鏡(これを通して見た液晶画面はすべて真っ黒に映る)の装着を義務づけられている――という設定のディストピアSFである。だが条令施行からだいぶ経っているため、香川県の未成年者たちは、県を出ない限りはそれを不便とも感じなくなっているのだ。日本より遥かに表現規制(この場合は上からの規制)が厳しい中国から日本に渡って小説の執筆を続けている陸が、本来なら寛容な社会であるべき日本のこうしたディストピア化に敏感にならざるを得ないのは当然だろう。
(この章、続く)
《ジャーロ No.89 2023 JULY 掲載》
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