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10月に生まれて

わたしは10月に生まれた。そしてそのことを、わりと気に入っている。10月という、あまり暑くもなく、あまり寒くもない頃合い。そこには春の芽吹く季節のように、健気な前向きさがあるわけではないし、夏の奔放さや、冬の我慢強さみたいなものもない。自然や人のはたらきがつくりだしたものを、「実りの秋だ」と言いながら、いそいそと採りに行く。ぶどう狩りにでかける。栗を拾いに行く。新米でおにぎりをつくる。ぷらぷらと紅葉を眺めて歩き、読書にいそしむ。どこかちゃっかりとして、「のんきなもんだなあ」と言いたくなるような。そんな月に生まれ落ちたことを、わたしはわりと、気に入っているのである。

職場で、今日の日付をデータのファイル名に打ち込んだとき、誕生日だと気づいた。自分の誕生日にあまり意識が向かなくなることは、大人になったということなのかもしれない。大人になったのだから、今度は別の誰かを守っていく立場でありなさいよ、という教えなのかもしれないし、重ねた歳月を一年で区切ることに、あまり意味を見いださなくなるからかもしれない。時間とか一週間とか一年とか、カレンダーとか、人間が考えただけのものなんだし、今日はいつも通りの水曜日でしかないのだから、というふうに。

帰り道。夏の間は午後七時が近づいてもまだ明るかったのに、もうすっかりと夜道である。薄手のシャツ一枚で、線路沿いをぷらりぷらりと歩いていた。空気は乾いている。チー、と草むらから、虫の鳴き声がきこえる。
10月なのだな、と思う。そして「わたし、誕生日だね」と思った。アスファルトの地面を見ながら、「よく生きてきたね」とも。母が五体満足の状態で生んでくれたことや、怪我をしても、風邪を引いても、何か打ちのめされるような出来事が起こっても、からだはまた回復して、起き上がってこられたこと。誕生日は、そういう項目のひとつひとつの、確認作業をおこなう日。大人になるにつれて、その作業の意味合いが増していくように思う。

ショートケーキに歳の数だけさしたロウソクや、ともだちがメモ帳を可愛くハート型に折り、渡してくれたお手紙。高校生の時クラスで流行っていた、すっぱい味のするグミのパッケージに、ネームペンで書かれた「ハッピーバースデー」。そういうものものは、もう遠い過去へと過ぎ去ってしまった。けれど、あの頃とはまた違うかたちで訪れる、わたしの誕生日。
自分の内側でだけで、噛みしめるのである。長袖のシャツに袖を通すのが気持ちよく、かぼちゃやサツマイモをいれたお味噌汁がおいしくて、金木犀の香りが漂いはじめ、どこかから、運動会のホイッスルの音が聞こえてくる10月のことを。
10月に生まれたすべての人へ。このひと月を謳歌して、一緒にお祝い出来たら、嬉しいです。

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