見出し画像

子どもの頃の思い出〜祖父を訪ねて来た訪問者


私が小学3年生か4年生の時に祖父を訪ねていた年配の男性がいた。
夏休み中で、その時私は家にいた。
その当時、祖母は数年入院していて、その日は祖父は不在だった。
そのとき、両親はいたが仕事で手が離せないこともあり、私が居間でお茶を出し、お菓子を出し、両親が仕事に区切りがつくまでの相手をした。
我が家は、日々来客が多く、お茶菓子として、近くの和菓子屋から午前中のうちに和菓子を買っていつもおいていた。
私は、両親よりもかなり年上である男性が祖父がNHKの番組に出てインタビューを受けているところを見て、捕虜になった時世話になった祖父にお礼を言いたくて来たと言った。
祖父は、ばんえい競馬いわゆる“ばん馬”で調教師をしていた。
その番組は見た記憶はあるがはっきり覚えていない。
騎手1人と調教師1人がスタジオに招かれてインタビューを受けるというものだった。
祖父からは戦争のことは一度も聞いたことがなく、父から祖父がシベリアから日本に帰ってきたのは父が小学5年生の時と聞いていたので、父は昭和16(1941)年3月生まれなので、祖父が日本に帰国したのは、昭和26(1951)年くらいだろうと思う。
その男の人の話しだと、祖父はその隊の隊長だったらしくシベリア(当時ソ連)で捕虜になったとき、祖父の持つ技術のおかげでその隊は捕虜ながら優遇されたそうだ。
祖父は、徴兵される前は、農林水産省の種畜牧場の職員だった。そんなことで家畜や畜産に関する知識は豊富だったらしい。
それで馬の蹄鉄などの技術などその隊の人に教えたりことでソ連軍の馬の管理などさせられて、そのときその収容所に捕虜なったその隊の人たちは割りと優遇されたらしい。
また、皮肉なことにそのことで収容所で重宝され日本に帰国するのも遅くなったらしい。
そのことで捕虜にあった間それほど辛い思いをしなかったと話してくれた。
私が知る祖父は、周りの同じくらいの年の人が夏に縁側や軒先で肌着のまま涼んでいる姿を目にしたがいつもきちんとした身なりして、背筋がいつもピンとしている人。
おしゃれな人というふうに思っていた。
ここで言うことではないが対照的に父は、祖父と違い服装は無頓着な人だった。
祖父と父とは、親子ではあるが異なることが多いが今はそのことに触れないでおく。
捕虜とは、どんなものか想像出来ないが祖父の持っている技術を隊の全員に教えて、その隊が酷い扱いはされずに済んだことがわかったがそれでも極寒の地では大変だったと思う。
そして、そのお礼に来た男の人もなんて素晴らし人なんだろうと思った。
祖父とは、直接会うことは出来なかったが、僕の両親にこうして今も立派に生きてますということを「隊長」にお伝え下さいと言って帰っていった。
そう、まだ私が子供のころは戦争へ行った人、国内にいて戦争の被害にあった人たちは身近にたくさんいたのである。
今になっては、もうその当時のことを直接聞くことは出来ない。
そして、今私は、その時の祖父とほぼ同じ歳になっていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?