震災は忘れた頃にやってくる?!
☆もうあれから10年経ったのか?
1.震災時
あの時、家内は、娘の嫁いだ家に孫の子守をするためでかけていた。自分はと言うと会社勤めで、全く違う場所にいた。震度1程度の揺れで、揺れたしかし、会社の昼のテレビに映されていた姿は、自分たちの常識を打ち砕くものだった。そのちょっと前にインドネシアで、同じ様な光景を見たばかりで、まさかそれが高度に発達した日本で起きるとは夢にも思わなかった。
2.それぞれの10年
あれからそれぞれの10年、ずっと心を痛めた10年だった。何かしてやりたいが何もできない自分がいた。勤め先の支店の場所いわき市が被害を受けた。震災の起こるちょっと前に岩城を訪問し、あの流された2階建てのビルで食事をしたところも形がなかった。又土産物屋で、土産を物色したところも跡形も無くなっているところをTVで放映されていた。ひと仕事終えて、そこの社員と飲んだ彼の家族も被害を受けたそうだ。
3.友人の被災への対応ができない。
すぐメールで何かできることはあるかとその同僚に打った所、大丈夫ですとの回答だったが、かなり大変な様だった。
その時も何もできない自分を悔やんだ。
4.原発の恐ろしさ
そのとき、TOKIOの五人組がダッシュ村という農業体験の番組をしていた、浪江町も原発の被害を受け、村人は村を離れないわけにはいかなかった。あれよあれよと原発の建屋が水素爆発で破壊されていく姿がTVで、映し出された。まるで、9.11のセンタービルに飛行機が突っ込んだ映像の様に。
5.まだまだ復興は、進んでいない。
あの当時、毎日毎日、放射能がナンデシベルあるから立ちのけとか、放射能の含んだストロンチウムを海に放流するか否かとか、冷却するには海の水を入れるとかいれないとか、報道が加熱していた。先日、NHKの特番で10年後の復興のすがたをTVで見たが、まだまだとの感を否めない。
じぶんにとつての震災
あれから10年自分達も一生懸命生きてきた。
復興をいのりながら、
関東東南海大地震が叫ばれて久しい、今後30年以内にと脅かされて、港や、防潮堤や、避難場所が、焼津や、浜松で盛んに作られた。近年でも熊本地震や、激甚災害の広島の豪雨の爪痕など、列島の災害は枚挙にいとまない。
今後も破壊的な台風が上陸するかもしれない。
今、思うに10年前のあの東北大地震の教訓を自治体、行政も生かしている。
6.エピローグ
明日は我が身、備えあれば憂いなし。だが、心のどこかにいつくるかわからないものに怯える必要がないという声が聞こえる自分がいる。
涙を流して、未だ帰らざる肉親を探す人々がテレビでうつされていた。遠く故郷に帰れない人々もいた。あの日の事は、皆の心に傷跡としてのこってくらしている。
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