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「産まない女」は「進化しないポケモン」だと思っていた

子供を産むことが「選択すること」で、
子供を産まないことは「選択しないこと」だと思っていたけど、いざ自分が結婚して出産適齢期になると「子供を産まないこと」は「子供を産まないという選択をし続けること」だと気づく。

しかし世の中はまだまだ「子供を産まない夫婦」を「やるべきことをしていない人たち」とみなすことが多いので、その「選択の連続」は透明化される。産むことも産まないことも、どちらも悩んだ末の「選択」なのに。

私はじき30歳になる既婚者であるが、子についてはなにも選択できないでいる。

産まないことについて、「本当はピカチュウになれるのに、ずっとピチュウでいる気分」だと夫に話したことがある。

周りの友達は進化して違う生き物になっていく(ように見える)のに、自分にも進化(果たして本当に進化なのか?)できるポテンシャルはあるのに、あえてずっとピチュウでいる理由ってなに?
このまま老いて死ぬので本当にいいのか?

という問いは定期的に訪れる。
それは歯を磨いてるときだったり、ヨガ教室でダウンドッグのポーズをしているときだったり、布団に入って寝るまでの間だったりに、ぬっと顔を出す。

「お前は本当に産まなくていいのか?」

一方で、「絶対に子供が欲しい」と強く思うことも決してできない。
そこまで強く自分と社会を信じられないし、自分以外の人間の人生のスタートボタンを自分が押すというエゴに耐えられる気もしない。
そのあたりを薄目でぼやかして見るようにしたとしても、もし自分の子が大きな罪を犯したら?子が大きくなる頃の世の中はどうなってる?とんでもなく金のかかる習い事をしたがったら金をを出せる?やっと楽しめるようになってきた仕事や趣味はどうなる?などなどなど、尽きることのない「産まない理由」が湧いてくる。産まない理由が多すぎる。

産まない女はいつまでも一人前にならないピチュウで、それは冷たくて自分勝手なことだとずっと教えられてきて、自分も心のどこかでそう思っている。
「産まない選択の連続」は罪悪感の連続でもある。

電車や飲食店で出会う人の家の子どもに最大限優しくするよう心がけているのは、罪滅ぼしの現れなのだろうか?いや、子どもは本当に好きだけど、「好き」と「育てたい」は全く別なのだ。


私は引き続き「お前は本当に産まなくていいのか?」の問いに答えられないまま暮らすと思う。
どこかで選択の連続が途切れて別の選択をするかもしれないけど、ずっとわからないまま老いて死んでいくのかもしれない。でもまあ、それはそれでありだよねとも思っている。一生ピチュウでもまあいいし、そもそも子を産むことだけが「進化」でもない。自分が「進化するため」に子を産むのでもないだろう。それは子育てに奮闘する選択をした友達たちに失礼というものである。

ならば人間的に進化するってどういうことなんだろう。三十路そこらの私ではまだ全然わからない。とにかく自分の選択に納得し続けられるように、毎日を生きるのみである。










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