こんなときあの人ならどうする?
宇多田ヒカルの「道」という曲が好きだ。
なかでも好きな一節は
転んでも起き上がる 迷ったら立ち止まる そして問う あなたなら こんな時どうする
という歌詞。
失敗したり恥をかいたり、どうしたらいいものか分からなくてひとりで立ち止まってしまったとき、「あなたならどうする?」と心のなかで問いかけられる相手がいたら、ひとりであることに変わりはないけれどもきっと心強いのだろうと思う。
この曲は宇多田ヒカルが亡くなった母 藤あや子に捧げたと言われているので、ここでいう「あなた」は母を指しているらしい。
では、私にとっての「あなた」は誰なのだろうか?
生きていくなかで、仕事はとくに「転んでも起き上がる」とか「迷ったら立ち止まる」とか、そんなことばっかりだ。A案をとるかB案をとるか、誰と組んで誰と距離を置くか、そもそもこの仕事を辞めるのか続けるのか、その都度ぐるぐる迷って決めて、決めた結果失敗したりやらかしたりしても、多くの人はまた起き上がって働かなければおまんま食い上げである。
個人的に2019年は決断を迫られることがかなり多かった。というか、それまであまり自分でものごとを決めてこなかったんだなと思わされた。新卒で入った大きめの会社にはなんとなく「出世ルート」的なものがあり、出世する人がやっていたことをなぞっていけば大丈夫だというぼんやりした安心感があった(ということ自体そこを辞めてから気づいた)。
もちろん、そんな環境でも主体性を発揮して異彩を放つ人というのもいるのだけど、結局私はそのフィールドが向いていなかったのだ。そんなわけで会社を辞めて「生え抜き」「まあまあ成果を出している若手」という諸々の肩書き特典を捨てただの「26歳、中途の人」になろうとしたき、眼前に広がっていたのは「マジで全部自分で決めなきゃいけない」という事実だった。本当は最初っからずっとそうなのだけど、今まで「上司が」「人事が」「組織体制が」と、愚痴の対象半分、隠れ蓑半分にしてきた対象がいなくなったことで、ありありと目の前に現れた選択肢の、まあ多いこと。
窮屈で厄介だと思っていた組織構造に、ある意味守られスポイルされていたのだ。決断の責任を任せていたものがいなくなって、自由と不安が秒速で行ったり来たりする思いがした。そんななかで右往左往し、おっかなびっくり考えて、結局今年の後半に大きな決断を3つした。
決断を迫られたとき、頭に流れてきたのが宇多田ヒカルの「道」だったのだ。「あなたなら こんな時 どうする」。
私にとっての「あなた」は、漫画の主人公だったり、尊敬する先生だったり、かつて一緒に働いていた人だったりする。
一番迷った決断について、心の中の「あなた」たちは全員同じ方を選んでいて、それはもちろん私のバイアスがかかった心の中の存在だから本当は私の願望を表していたのではないかと言われると多分そうなのだけど、それでも「あなた」たちに背中を押してもらえた気がしたのだ。
自分の中に確固たる意志や判断基準があって、決断することに慣れている人は「あなた」に聞く必要はないのかもしれないが、私は決断初心者だったので「あなた」たちの存在はかなり心強かった。細い道をひとりで歩いて行かなければならない肌寒さのなかで、足取りを確かにさせてくれる根拠のように感じた。今まで出会った人たちが、(リアルに存在してもしなくても)(もう同じ時間を過ごすことは永遠にないとしても)今現在の私が、なにかを選びとってなにかを捨て、前に進む勇気をくれた。ひとりだけれどひとりではない。「It's a lonely road,But I'm not alone. 」サビの歌詞はそういうことか。と腑に落ちた。
なにかあったときに問いかけられる「あなた」の存在は私を少し強くした。そんな存在に出会えたことが嬉しく、また新しくそんな人たちに出会える生き方をしたい。生きていくのは本当に大変で、仕事なんてとくにそうなんだけど、そんな出会いを連れてきてくれるのもまた人生であり仕事なのだ。
来年はどんな人と出会い、どんな仕事をするのだろう。楽しみと不安はやっぱり秒速で行き来するのだけど、それでも働いていくのだと思う。来年も再来年も。
あなたにとっての「あなた」は誰?
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