自己紹介、人のキャパ、東京脱出計画。
人には人のキャパ(と乳酸菌)がある。
胃のキャパに例えるとわかりやすい。
食える量は人によって違う。私は比較的よく食べるほうなので、一日三食ラーメンだったとしても苦しくない。
食えるものもまた、人によって違う。私はラーメンが好きなので一日三食ラーメンだったとしても苦痛を感じないむしろこれ以上ない幸せと感じるが、これが一日三食パスタだったとしたら同じ麺類を食しているとは言え、この生活は一か月も持たないだろう。(一週間はいける)
人の感性や好み、受け入れることのできる刺激とその量、嫌うものや、いやこれは別腹っしょみたいに何らかのブーストが働くような要素(人が人生を懸けて追いたいものってやっぱり違うよねということ)は、当たり前に違う。違いすぎる。
それを「多様性」と呼ぶのは、もうかなり痛いきれいごとなんじゃないかな。
人がみんな自分と違うのは百も承知。それでもやっぱり、可能な限りは気の合う人と一緒にいたいものだと思う。自分に理解のあるひとと一緒に過ごしたいものだと思う。
いまここに勇気を出して書くけど、私はもう私と違いすぎる人を受け入れ続けるキャパはない。ラーメンみたいな人(?)とはずっと関わっていけるけど、パスタみたいな人(?)をずっと大切にすることはできない。と思う。
仕事の世界では、どうしてもこの疑問が生まれる。
「なんでこんなこともできねえの?」
これは人に対してそう思ってしまうことがあるのもそうだし、自分自身にそう思うこともあるのではなかろうか。わりとあるあるの感情だとは思うが、やっぱりそう思ってしまうのは人のキャパに対してまだ想像力が足りていないからなのかもしれない。もちろん私にもあるよ。
くだらない凡ミス(例:ねぼう)、繰り返しまくった同じ過ち(例:またこれ出しっぱなしやんけ)、周りはみな経験があるのに自分だけは通ってこなかったできごと(例:ぱっと思いつかないけど、自分が世間知らずすぎることを自覚するとかね)、これらが人(あるいは自分)に対しての苛立ちを引き起こしてしまう。
きっと誰にでもあることなのに、これを受け入れる器が万人に備わっているわけではない。自分の人生に必死だから、それを邪魔されると攻撃的になる。
攻撃的になられると怖いし、それを避けなきゃ!ということに頭がいっぱいになる。(隠蔽や虚偽発言、不正の温床になるよね、これも自分の人生のための判断として正当化してしまう)
攻撃的になってしまう方も加害者のようで被害者なのかもしれない。(人にブチギレるの疲れるし、かといって怒らなかったらナメられたりしてだるいし)
ざっくりいうと、今の世の中は生きづらい。
インスタも、Xも、BeRealも、スナチャも、Tinderも、全部「いま」がテーマ。とにかくナウ。この瞬間の話をするもの。
そういうものに溢れすぎて、今の人間関係、今の自分、今の仕事、今のトレンド、こんなものたちで自分のキャパが埋まっていってしまっている。メンタルが強い人はそれをこなしながらでも、無意識に自分の将来や周りの人間に明るいアプローチができるのかもしれないけど、強くない人はいまのことでおなかいっぱいっすよ。げっぷどころかゲロ出ちゃうって。
将来のことだって考えたいけどゆっくり考える時間も術もないし、大切にしたい人これから関わりたい人だって潜在的にはたくさんいるのにもうつかれちゃってそれどころじゃないし。
今の時代に合ったキャパがある人はそれでいい。好きに生きればいい。
私は私のペースをとにかく大事にしたいし、私に合った環境を求めることをあきらめずに続けたい。
私はどんな人にも自分にも優しい人間でいたいからだ。でも今は優しくなれていない。こんな自分は嫌だ。
もっとやさしく、もっと朗らかに。
もっとやさしく。
もっと優しく。
漠然とだけど、私が東京というクソほど憂鬱な都市で生活していることが間違いな気がしている。
なので私のnoteにおけるひとまずの基本的なコンセプトは『東京脱出計画』としよう。
名前は漢字で書くと 優輝 です。
2001年1月7日生まれ、どうぞよろしく。
読んでいただきありがとうございました。
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