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クラシック音楽の魅力なんてわからなかった私が、クラシック好きになったわけ

先日、世間から40年遅れて、映画「アマデウス」を観た。

モーツァルトの半生を、その才能に激しく嫉妬する宮廷作曲家サリエリの視点から語らせた作品。アカデミー賞で8部門もの賞を獲った名作とされているが、実際には賛否両論あって好き嫌いが分かれるんじゃないかなと思った。モーツァルトが、いかにも頭が悪そうに甲高い声で笑う様子や、モーツァルトの才能に嫉妬するサリエリが見せる異様に歪んだ心のうちなど、あまり見ていて気持ちが良いものではなかった。

ただ、主演男優賞をモーツァルトを演じたトム・ハルスではなく、サリエリ演じるF・マーリー・エイブラハムが獲ったことには納得がいく。人の心に潜む暗く醜い感情を、とても演技とは思えない不気味さで表現していた。

しかし、映画の中で描かれたモーツァルトが生きた時代(18世紀後半)には、いまでいうクラシック音楽が人々の暮らしの中に満ちていた。映画を観終わった後、クラシック音楽について常々思っていたことを、頭の中で整理してみたくなった。

それは、私の個人的な経験に関することである。私は子どもの頃、クラシック音楽の良さがわからなかったのだが、大人になってから好きになった。それがどうしてなのか、ということだ。

私にとってのクラシック音楽との出会いは、ピアノを習い始めたことだった。私は4歳からピアノを始めたのだけど、大抵のピアノ教室がやるように、クラシック音楽を題材に練習した。

最初はお遊び半分で楽しかったピアノだが、そのうち練習が苦になり、やがてやめたいと思うようになった。当時ピアノが好きになれなかった理由の一つに、クラシック音楽の良さが全く分からなかったことがある。

クラシック音楽について興味も知識もなかった子どもの頃、知らない曲をひたすら練習するのは、なんだかつまらなかった。ピアノを習ったことのある人の多くが、似たような状況にあったのではないだろうか。そもそも、幼稚園生や小学生にクラシック音楽を楽しめというのが無理な話なのかもしれない。もちろん例外はあると思うが。

それが、大人になってまたピアノを始めてみると、感じ方が全く違うものになっていた。クラシック音楽の魅力がすーっと胸に流れ込んできたのである。クラシック音楽っていったいどこがいいんだろう、などと考える必要がないくらいにスムーズに、自然に。

昔弾いた曲を皮切りに、昔は弾けなかった、弾けないと思っていた憧れの曲に挑戦したくなったり。新しい楽譜を買ったら、本を読むように楽譜に書かれたメロディをなぞりながら、ピアノの前に座るのが待ち遠しくなったり。つまらないと思っていたクラシック音楽が、嫌いだったピアノが、いまは私の生活の大事な一部になっている。

一体私の何が変わったんだろう

私なりに考えたことはこうだ。

昔は、先生に言われるがままに、課題曲として与えられた曲を練習していた。当時は知っている曲も限られていたので、ピアノで弾く曲は大抵初めて出会うものばかりだった。

でも今は、好きな曲を自由に選んで弾いている。子どもの頃よりも、どこかで見聞きしたり、断片的にでも聞いて綺麗なメロディだなと心に残った曲のストックもそこそこある。

私がピアノを弾きながら喜びを感じるのは、どこかで聞いて心に残っているあの旋律を、自分の手で再現できることだ。ドビュッシーの「月の光」。ショパンの「幻想即興曲」。ベートーベンのピアノ・ソナタ「悲愴」。知っているあのメロディが、私の指先から流れてくる。その感覚が楽しくてたまらない。

よくよく思い出してみると、子どもの頃にも、これと同じ体験があった。ピアノを習い始めて何年かしたとき、ベートーベンの「エリーゼのために」を練習することになった。当時、小学何年生かの私も、さすがにこの曲は知っていた。ピアノを習う子どもたちの間では、ある種の「憧れの曲」だったから。

「わぁ!わたし、『エリーゼのために』を弾いてる!」

小さな胸に小さな感動が宿った。遠くから遊びにきてくれた祖母にも、得意になってこの曲を弾いて聞かせたっけ。そのときには、感動に至った仕組みにまでは気付けなくて、単発的な体験として終わってしまったけれど。

なにが言いたいかというと、私がクラシック音楽が好きになったことと、ピアノが楽しくなったこととは連動しているということ。

つまり、音楽を楽しく感じるには、ただ聞くだけではなくて、「体験」することが実は大事な要素なのではないかと思う。体験とは、私ならピアノで弾いてみること。ピアノに限らず、ギターとか笛などの楽器で演奏してみるとか、歌ってみてもいい。

みんながよく聞くポップスで考えてみてほしい。好きな歌は繰り返し聞くと思うけれど、「私は絶対に歌わない」という人を見たことがない。口ずさんだり、鼻歌にしたり、カラオケで絶唱したり、歌う度合いは違っても、みんな多かれ少なかれ、好きな歌は聞くだけではなくて歌っている。つまり、「体験」している。

私の子どもの頃を振り返ってみると、「体験」(ピアノで弾く)を積み重ねるばかりで、曲を聞く(知る)部分が欠けていたから、結果的に知らない曲ばかりを弾くことになり、楽しめなかったということではないかな。もっとピアノ曲に触れる機会がたくさんあって、「エリーゼのために」のように、心の中にストックされたメロディがたくさんあれば、ピアノを弾くときの気持ちが随分違うものになったのかもしれない。

クラシック音楽は、歌ではない分、体験しにくいという点はある。楽器で演奏するにしても、それなりに訓練を積まないとできないという敷居の高さもある。だからこそ、わかりにくい、敬遠される存在になっているのかもしれない。

一つ言えることは、クラシック音楽というと、作曲家や時代背景などのウンチクがないと理解できないとか、高尚なセンスがないと良さがわからないとか、私もかつてはそんなイメージを持っていたけれど、実はそんなことは全然ない。仮に、そこまで頑張って歩み寄らないと良さがわからないような難しいものであれば、何百年もの時を経ていまなお人々に愛されているはずがない。

クラシック音楽は、もう少し万人に身近な存在になってもいいと思うんだけどなあ。今日はそんなことを考えた。

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