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なぜか今日は運命について考えてしまった

いまから1年くらい前のことだ。4歳だった娘が、

うんめいってなに?

と、つぶらな瞳をして聞いてきたことがあった。確かプリンセスの絵本を読んでいて、誰かとの出会いで運命が変わったという趣旨の記述があった。

子どもに言葉の意味を解説するときは、なるべく簡潔にわかりやすく。わたしは、

「未来のことだよ。」

と言った。娘はそれを聞いて、あっさり納得して、また本の世界に戻っていった。

もう少し補足すると、最初からそうなると決まっていた未来、とでもいうべきか。

運命という言葉には、人の力を超えた、不思議で神秘的な響きがある。でもその一方で、不確かで、証明のしようがない。ちょっとうさん臭さすら漂う。

見る角度によって色や輝きが変わるこの機微を、幼い娘はまだ感じていない。

人生の伴侶を見つける前の、まだ独身だったころのわたしは、こういう怪しい影を持つ言葉に惹かれる傾向があった。

運命。縁。定め。巡り合わせ。永遠。

そんなもの信じてるの、と笑われそうで、あまり人に話したことはない。

運命の人」という言い方がある。出会うべくして出会った人。どこか知らないところで、不思議な繋がりが最初からあった人。自分の人生に、大きな意味のある存在。そういう特別な何かを感じさせる人は、それが運命かどうかは別として、確かにいる

わたしにとっては、夫がまさにそう。のろけているわけではなくて。

わたしは、かつて結婚したいと思ったときにすでに世間でいう適齢期を過ぎていた。そのせいかそうでないのかは不明だが、相手を探し出すのに時間がかかった。

強い願望があるのに、それが実現しないという状態は、長引けば長引くほどに精神に堪える。わたしが、人生のうちで最も「運命」という言葉に惹かれたのは、心が弱っていたあの頃だったように思う。

きっとわたしと人生を共にしてくれる人が、この世界のどこかにいるはず。

この一縷の希望を支えるのが、運命という言葉だった。いま考えると、信仰に近い。

どこか怪しいその世界は、あるのかどうか疑わしいけれど、絶対にないとも言い切れない。その世界を覗いてみたい好奇心と、先の見えない未来に光がほしい切実な思いから、本格的な占いに手を出したこともある。あ、でも、ご心配なく。根は堅実で現実的なので、散財するほどには至らなかったから。

夫とは東京で出会った。この出会いには、やっぱり運命とか縁に通じるなにかを感じずにはいられなかった。アジアだけでなく、いろんな国を転々としていた夫と、海外転勤が当たり前の職場にいたわたし。そんな2人が、たまたま同じ時期に東京にいたこと。その時期に、ちょうど2人とも結婚を意識していたこと。人口1400万の大都市の中で、出会って知り合うチャンスがあったこと。気が遠くなるくらいの、偶然の連続。

わたしたちは、デートを始めてから一年足らずで結婚した。結婚してから一年足らずで子どもが生まれた。

でも、実際に運命の真っただ中を生きるようになったら、逆に運命に前ほどの重みを感じなくなった。運命の正体がちょっと見えたような気がしたんだ。

運命っていうのは引き寄せだと思う。始まりのきっかけを作ってくれるもの。それさえあれば、その後のすべてが決まるのではなくて、きっかけを目の前に見せてくれるだけ。そのチャンスを掴むかどうかは完全に自分の判断だし、掴んだ後にどう活かすかも自分次第。

だって、関係は与えられるものではなくて、育てるものだから。運命の人に出会うということは、芽が出る可能性のある種を掴んだようなものだ。水をやって、陽にあてて、栄養を注いで、来る日来る日も休まず世話をするからこそ、育つものであって。

だから、娘が読んでいるプリンセスの物語にも、「happily ever after」の続きを描いてほしいんだ。運命の人と結婚して、めでたし、めでたしじゃないんだよ。そこからが本当の始まりなんだよってわたしは言いたい。


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50日目!

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