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結婚した日のこと

私は、アメリカ人の夫と結婚し、アメリカに住んでいる。

結婚を機に、アメリカに移り住んだ。当初は、まだ日本に仕事を残してきていたけれど、いまはその仕事も辞めた。たぶんアメリカに骨を埋めるんだろうなと思っている。

結婚って不思議なものだ。それまでに考えていた人生設計を全部ひっくり返して、白紙の上に全く新しい物語を描かせるほどの衝動を持っている。

結婚した日は、間違いなく、私の人生の後半戦を決定づける起点となった。この方向性は、私の日々の小さな判断の積み重ねが導いたものだけど、あの日に私は、よし、この道を行け、と自分で自分の背中を押したんだと思う。

今日は結婚記念日でもなんでもないのだけど、あの日のことを丁寧に思い出しながら記憶をたどってみたくなった。

結婚するためにアメリカへ

6年前のニューヨーク。私は、夫と夫の家族と一緒に、ロックフェラーセンターの展望台にいた。その日は空気がきりっと澄んでいて、空は雲一つなく晴れ渡っていた。目の前に広がるマンハッタンの眺望は、見事な大パノラマだった。

私は、年末年始の休暇を使ってアメリカへ渡った。夫の両親に初めての挨拶をし、その翌週には結婚式を挙げるという弾丸スケジュールだった。本来なら時間をかけて、段階を経て進めるべきプロセスなのかもしれないが、こうなったのには、いくつか理由があった。

一つ目は、私たちは付き合い始めてから1年未満で結婚を決めたのだけれど、夫も私も結婚することに迷いがなかった。そのとき二人とも既にまあまあな歳(?)になっていたこともあって、もはや結婚を先延ばしにする理由がなかった

二つ目は、ビザの問題。今後アメリカで一緒に住めるようにするためには、私の滞在資格を取得しなければならない。そのためには、まず結婚してから、アメリカ人の配偶者としてビザを申請する必要があった。ビザ申請には時間がかかるので、早くそのプロセスを開始したかった。国際結婚には、いつも滞在資格という技術的問題が伴う。

その年は、時間がぎゅっと凝縮したような日々だった。夫との出会い、仕事に対する考え方の変化、結婚と今後の人生設計。私のそれからの人生を左右する出来事が立て続けに、スピード感をもって次々に起こった。

変わっていくことに対して、不安は多少あったかもしれない。でも、不安とは比較にならないくらい確かな自信をもって、私の人生はこれから面白くなるという予感があった。それは、日本的な結婚観、日本的な仕事観に疑問を感じ、生きづらさを感じていたがゆえの反動もあったと思う。そして、夫という人生の相棒を得た私には、恐れるものなど何もなかった。あったとしても、行く手を遮るほどの脅威にはならなかった。

結婚を決めたときに、唯一心配だったのは、私の両親、特に父がどんな反応をするかだった。母は間違いなく賛成してくれると思ったが、父は田舎育ちで、ゴリゴリな保守的思想を持っている。そんな父が、アメリカ人との結婚に賛成してくれるかは五分五分だなと思っていた。

どのタイミングで両親に話そうかと思っていたところに、父が仕事で東京に出てくるので、その夜、東京駅の近くで食事をしようということになった。その頃、父は会うたびに決まって、「何かいい話はないんか。」と私に聞いた。結婚に繋がる話はないのかという探りである。不器用で口下手な父は、さりげなく聞くということができないので、いつも直球で聞いてくる。30代半ばに差し掛かり、仕事で忙しそうにばかりしている私を、父はいつも心配していた。その親心が伝わるだけに、「いい話」ができないときにされたこの質問は、胸に堪えるものがあった。

その日も同じ質問をされて、私は切り出した。
「実は付き合っている人がいて、結婚したいと思ってる。」

驚きと喜びとで、父の目がはっと輝いた。間髪入れず、
「その人、アメリカ人やねん。」

と、重要情報を押し込む私。父がなんていうのか待っていると、意外にも即答だった。

「おお、それはよかった。いまの時代、国際結婚なんて珍しくないからな。」

私は耳を疑った。結婚は本人だけの問題ではない、家柄がどうで、とかかつて言ってましたよね?すごい変わりようである。それだけ強い気持ちで、私に早く結婚してほしかったのかもしれない。相手が外国人であることなど些末な問題に見えるくらいに。

そんなわけで、早く結婚したい私たちに「待て」をかける人もなく、事は急展開で進んだのである。

結婚式のこと

ロックフェラーセンターから歩いて結婚式の会場となるホテルへ移動した。そこは、かつて天皇皇后両陛下の宿泊先となったこともある、由緒ある老舗ホテル。夫は、そこのスイートルームを用意してくれていた。当時、転職の合間で無収入だった夫が、ここに2泊するためにいくら払ったのか知らない。いまから結婚するのだから、夫の財布、私の財布という概念も意味がないように思えたし、実際、いくらでも構わなかった。だっていまから私たちは人生のハレの舞台に立つのだから

スイートルームの一室で、椅子と机を移動させて式の準備をした。日本から持ってきたドレスに着替えて、髪やメイクは自分でやった。花嫁のブーケは、その日の道中に奇跡的に気が付いて(うっかり忘れるところだった)、見つけた花屋さんで、白とピンクを基調にした可憐なブーケを作ってもらった。

式に出席したのは、夫の両親と、義兄家族だけ。私の両親は、事が急すぎて渡米できなかった。残念というより申し訳なかったけれど、いずれ日本で披露宴をしようということで話を治めた。

結婚式は人前式で、司会役は義兄が務めてくれた。この日のために、結婚立会人の資格をとってくれたのだ。冒頭の言葉も、義兄の人柄が表れたような、温かい祝福の言葉だった。

結婚の誓いの言葉を、立会人について復唱する場面では、突然の英語のディクテーションに多少まごつきながら、なんとか言い終えた。こんな大事な場面にしどろもどろなんて。事前に練習しておくべきだった。

会の進行中、当時10歳くらいの姪っ子が、膝に置いた紙に熱心にメモを取っていた。まるで、記者会見に出席した新聞記者のようなその姿がおかしくて、そのときは皆で笑っただけだったが、後で聞いたら、そのメモには、「パパの司会役は良かったけれど、カンペの紙がなかったらもっと良かったと思う。」と書いてあったらしい。それを聞いてもう一度笑った。子供なりに批判的視点で親の姿を見ているのに感心した。それに、一般論で肯定しておいてから、具体論で改善すべき点を指摘するなんて、なかなかやるな、と思った。

指輪の交換。

いままで、テレビや映画で、友人の結婚式で、私の空想の中で、嫌になるほど何度も見てきたこの光景を、いま私が実践している。私に向き合う夫の笑顔が、それまでのどのときよりも優しかった。

"I now pronounce you husband and wife."

義兄の立会人としての最後のこの言葉を聞いたとき、自然と涙が出た。ああ、ついに私は結婚したんだ。夫という生涯の伴侶を見つけて、夫婦になったんだ、と思ったら溢れ出る感情が止まらなくなった。

それと同時に、この結婚には、私と夫だけではなくて、周りで見守ってくれる人たちの思いが乗っていることも感じていた。その場にいた夫の両親、義兄家族だけではない。私の両親、一緒に婚活をした友人や祝ってくれた同僚たち。ささやかな私の世界で、私は、温かい人たちの温かい気持ちに包まれて、いまここにいるんだという実感があった。

これ以上、シンプルで、アットホームで手作りの式があるだろうか。

式が終わると、あっという間にみんな帰ってしまった。あとは若い二人で、ということだったのかもしれない。私も夫も晩婚だったので、あまり若くなかったけれど。夫側の家族には、こういうところがある。あっさりしているというか、お互いの関係性が秋晴れのようにからりとしている。

その夜は、近くの日本料理屋で、二人だけでささやかなお祝いの食事をした。二人の薬指にはまった指輪を並べてみたりして、こそばゆい気持ちになった。夫は日本酒をちびちび吞んでいた。

こうやって、私の人生後半戦が始まった。

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