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ないものねだりばかり

小学生の頃、お姉ちゃんがいる友達が羨ましかった。
お姉ちゃんがいる子は流行りに詳しくて、学校の先生にも気に入られている、そしてお姉ちゃんの人生を後追いして要領よく生きているように見えた。私はというと要領は悪いし、忘れ物も多くて、どちらかというと先生からどちらかというと目をつけられている生徒だった。

小学校3年生のときの担任が苦手だった。可愛らしい女性の先生で、消しゴムハンコ作りを得意としていた。その先生は素直で頭が良くてピアノも弾けるような、いわゆる優等生を贔屓するタイプで、だらしがなくて忘れ物が多いく、勉強はできるが生意気な私は疎まれていた。
私は特に図工が苦手で、細かく丁寧に作業をするということがとにかくできなかった。2クラス合同で図工の授業を受けていたときのこと、細かい経緯は忘れてしまったが、私はきちんと机や道具を都度きれいにしていなかったせいで自分の描いていた絵を汚してしまった。その様子を見た隣のクラスの先生が「絵汚れちゃってるけど大丈夫?」と声をかけてくれたとき、私の担任は「この子はこういう子だから。」と吐き捨てて去っていってしまった。
些細な一言だが、15年経った今でも忘れられない出来事。

中学に入ってから、私は「要領よく生きること」を人生のモットーにするようになった。150%努力して100%の結果を得るよりも、80%の努力で80%の結果を得ることを目指す人生。私は上の兄弟がいないからお手本になる人生はなく、自分人生の選択をしないといけないが、正解ではなかったとしても不正解は選ばないように慎重に生きてきた。下手に挑戦して遠回りして傷つくくらいなら、最初からちょっと頑張れば叶う目標を設定したほうがいい。
大学受験は国立を早々に諦め私立文系に絞り、最終的には指定校推薦で進学した。就活はメガベンチャーのようなキラキラ企業に受かる実力も容姿もないだろうと判断していわゆるJTCと言われる日系メーカーに入った。やりたいことよりも、自分のちっぽけなポテンシャルを最小限の努力で最大限に活かせる選択をすることをとにかく心がけてきた。

これらの選択を別に後悔したことはない。何か夢があって、それを諦めてきたわけではない。むしろこれだけコスパよい人生を歩めてきた環境に感謝すべき。もっと勉強したらトップ国立大学に行けたとも思わないし、私のような軸もモチベーションもない人間がキラキラして見える企業に入れるとも、入れたとしてそこで働き続けられる適性があるとも思えない。家族も私の選択を喜んでくれた。これからの人生はわからないけれど、現時点で結論を出すなら結局これで良かったのだろう。

でも、自分の好きなものを大切に人生の選択をしている人が羨ましく思えてしまう。まだ結果を出せていなくても。まだ遠回りをしている最中かもしれない人たちが輝いて見える。「何者かになれる」という希望を捨てずにまだいられていることが、ずるく思えてしまう。別に出世も望まないし、今の仕事にやりがいもないし、それでも生きていくには仕事をしないといけない状況では福利厚生も労働環境も整っている今の職場を離れる決心はつかない。

振り返ってみれば、本当に好きなものなんて何もなかったかもしれない。ものづくりが好きだと思ってクリエイティブ系のゼミに入ったけど、社会人になったらやめてしまった。好きなのはものづくりではなくて、作ったものを評価される瞬間だったのかな。高校生の頃はジャニーズが好きだったけど、会話についていきたいだけだった。漫画アニメも好きだと思っていたけど、今クールは進撃の巨人以外何をやっているかも知らない。全部周りに合わせてきただけで、ひとりになった時に好きであり続けられるものはなかった。

もっと周りを気にせずに、好きなものを探していればもっと違った生き方をしていただろうか。好きなものを追い続けているあの子が羨ましくて仕方ない。でも要領の良さを求めた今の生き方との両立はきっと私にはできない。

結局、ないものねだりばかり。
もう社会人2年目が終わろうとしている。そろそろ自分の人生を生きる覚悟をしないといけないのにね。

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