無題11

小説「クリスマスの夜」後編


 ―――なぜ彼がここに?

 背中にどっと汗が噴き出て、心臓が跳ねあがった。焦るな、落ちつけと自分に言い聞かせても、あまりに突然のことで思考が命令に追いつかない。早く逃げるなりシカトするなり、対応をとらねばと思うのに、足がぜんぜん動かない。

「覚えてます? 俺のこと」

 訴えかけてくる笑顔はおそろしく無邪気だ。はっとして華子は下を向いた。残業を終えてそのまま来たので、ろくに化粧直しも出来ていないし(というか化粧なんていつも適当だし)髪もボサボサで、よりによって着ているチェスターコートも近所のスーパーで買った安物(しかもメンズ)だし―――。

「あのー……人違い、ですかね?」

 おそるおそると言った具合の声に、華子は「えっ」と顔を上げた。彼はそこで弱ったように笑い、ほんのり赤く染まった首の後ろに手を当てて、恥ずかしそうにうつむいている。華子はショックを受けた。知らんふりしようだなんて考えた自分がとんでもなく悪い奴に思えて、一気に頭が冷えた。

 緊張が解けると、耳の奥で遮断されていた周囲のざわつきが戻ってきた。一息ついた華子は、今さらながら大人びた風を装って言った。

「コロッケとから揚げ、三つずつ下さい」

 彼が顔を上げた。キョトンとしている。その無防備な表情につい怯みそうになりながらも、手前のショーケースを指さして言った。

「コロッケとから揚げ、三つずつ」

「は、はい!」

 わたわたと両腕を動かす彼を見ているうちに、可笑しさがこみあげてきた。そんなに慌てなくてもいいのに。というかこの子はまだ、ほんとうに子どもなんだわと思う。高校生でないなら、大学生か専門学生か……。

「全部で1,782円になります!」

 やたら威勢のいい声に笑いを堪えながら、財布からお金を取りだした。その頃にはもうすっかり落ち着いていたので、いくらか余裕をもって次の言葉を口にすることができた。

「あの時はどうもありがとう」

「え?」

 彼は商品の入った紙袋を手に持ったまま、動きを止めてこちらを見た。華子は今度こそ目を逸らさずに言った。

「ごめんなさい……さっきはその、突然のことだったから驚いてしまって。まさかこんなところで会うとは思わなかったから」

 それも彼にはゲロを吐いているところを目撃されたので、後ろめたくて必要以上に狼狽してしまったのだとは言えず、華子は苦笑いを浮かべた。そのニュアンスが伝わったのかどうか分からないが、彼は意を得たように相好を崩した。

「なんだ、じゃあやっぱり、あの時の―――」

 彼が言いかけた時、横から別の声がした。

「あれ? 華子?」

 呼びかけられた瞬間、頬がカッと熱くなった。華子はそちらを見ることもできずに凍りついた。

「華子だよな? うわあー久しぶり」

 近づいてくる足音に合わせて呼吸が浅くなる。確認しなくても誰だか分かる自分に吐き気がした―――やめて、こっちに来ないで、あっちへ行って!

「よっ、元気してたか」

 真横に立った男は、遠慮なく華子の肩をぽんっと叩いた。瞬間、華子の全身を電流のようなものが駆けめぐった。それが嫌悪感だと悟るのに一秒もいらなかった。華子はスッと身を引き、男から一歩遠ざかった。

「久しぶり。そっちこそ元気にしてた?」

 にっこりする華子に、男は口元に笑みを浮かべながらも眉をひそめた。華子がなぜ余所余所しい態度を取るのか分からないといった様子だ。相変わらず鈍感な人……私が別れを告げた時もそうやって、自分は何も悪くないみたいに、ただ困り果ててみせるだけで、本当は浮気を隠していたくせに、最後までそのことを打ち明けなかった―――最低の男!

「ごめんなさい、急ぐからこれで」

 華子は平然と言ってのけた。だが、くるりと背を向けたとたん、膝から崩れ落ちそうになった。気丈に振る舞おうとする意志に反して、身体はすでにキャパを超えていたらしい、足にまったく力が入らない。

「あっ―――」

 華子はとっさに腕を伸ばした。視線の先にあるのは、未だにチキンを求める客が列を成している光景だ。誰も華子の方など見ていないし、気づいてもいない。そうして助けもなく逃げ場もない現実が、華子を恐怖の底へと突き落とした。

 その時、ぐっと腕をつかまれた。華子は目を見張った。そこにいたのは彼だった。脱いだ白帽子を空いた手に握りしめ、幼い顔に、複雑な葛藤の色を浮かべている。

「あの、すみません!」

 言うなり彼が走り出した。力いっぱい手を引かれて、華子はほとんど引きずられるようにして床を蹴った。通路にひしめく人々が気色ばんで二人を振りかえる。肩やひじがぶつかり、彼はそのたびに「すみませんっ、通してください! すみませんっ」と謝った。華子は泣きそうになった。どうしてこんなに一生懸命になってくれるのか、どうしてこんなに彼の手は温かいのか。

 ―――どうしてこんなに、胸が苦しいのか。

「こっ……ここまでくればもう、大丈夫ですよね」

 息を切らしながらそう言って、二カッと笑う彼のこめかみから汗が流れた。なんだか子犬みたいだと思いながら、華子は屈んで、しばらく肩を弾ませた。

 二人は外に出ていた。風は冷たいが、コートの中は汗だくで、熱を冷ますのにはちょうどいい。やっと息が整うと、華子はようやく真っ直ぐに立った。膝の震えはもうない。

「あ、すげえ、キレ―」

 顔を上げた彼が、幅広い歩道の中央を見つめて呟いた。眩しそうに細める目の先には、大きなツリーが優しい光に包まれてある。その周りに、親子連れやカップルや、友人同士で遊んでいる人々などが集まり、スマホで写真を撮るなどして楽しげに時を過ごしていた。

「ありがとう……助けてくれて」

 華子が彼の方を向くと、彼もまた華子の方へ顔を向けた。瞬間、どちらからともなく笑い出していた。なんだか妙に爽快な気分だった。

「余計なことかと思ったんですけど、前はちゃんと助けられなかったから」

 彼は照れくさそうに言った。華子は一瞬キョトンとしたが、すぐにあの失態に思い至り、うっと首をすくめた。

「いや、あれはその……私の方が、逃げちゃったから」

「ははは。ですね」

 無邪気に笑っている。他意はないらしいが、華子にとってはバツが悪い。その時、ふと気がついて言った。

「あ、仕事は? いいの? まだ途中だったんじゃ……」

「まあ、よくはないですけど。どうせ上がりの時間だったし、大丈夫ですよ。俺、あそこの人たちに気に入られてますから」

 いたずらっぽく笑う彼は、小さな子どもみたいだった。なんだか気が抜ける。でも不思議だ。こうして彼と話すのは初めてのはずなのに、もうずっと以前から慣れ親しんでいる間柄と錯覚しそうだ。

 けれど、夢はいつか覚めるもの……それがどんなに甘美なものでも。

「えっと、それじゃあこれで……」

 言いながらも華子は複雑だった。なんとなく、これきりになるのが惜しいような気がしてしまう。そんな自分を愚かだと思いつつも、彼に惹かれている自分を否定することが、どうしてもできない。いや……そもそもこんな考えを起こしていること自体がありえない。だって相手は子どもなのだ。それもおそらくは一回りくらい年下の。

「ありがとう。さよなら」

 さらっと別れを告げる華子に、彼は面食らったように「あ、はい」と答えた。そのまま彼を置いて、横断歩道に向かって歩きはじめると、切なくなるほどの喪失感がわきあがってきて困惑した。それと同時に涙が溢れて止まらなくなった。すれ違う人たちの視線を感じながら、華子は自分が独りぼっちだと痛烈に思い知った。この先、唯一の誰かと笑い合うことなどあるのだろうか。もう一生、ないのではないだろうか。

 近づいてくる足音に気づいたのは、赤信号が青になり、渡ろうとした瞬間だった。背後で「あの!」と彼の声がして、ぐんと腕を引かれた。華子は驚いて振り返った。

「お礼、してくれませんか」ぽつりと彼が言った。

「え……?」

「あなたを助けたお礼……ラーメン一杯でどうです?」

 外灯に照らされた彼の顔は、寒さのせいか赤く火照っている。けれど耳の先まで真っ赤で、目を逸らしているのはきっと、寒さのせいだけではないだろう。それに気づいた華子の口元は自然とほころんだ。

「はい、喜んで」

 そう答えずにはいられなかった。今日くらいは……素直でいたい。いさせてほしい。もしもサンタクロースがいるのなら。

 クリスマスの夜、華子は心からそう願った。

                           おわり


 はあ~終わった、やっと終わった……。ここまでお付き合い下さいました方、お疲れ様でした(笑)と同時にありがとうございました。かなり思いつきで書きだした物語であったが故の見苦しさが、つたない文のそこここにあったかと思われますが……そこはどうか広い心で許してやってくださいませ(泣)。いや、連載って大変ですね。とにかく一つのお話を練って続けてゆくというのは、本当に根気の要ることだなあと……今さらのように思いました。noteで活躍されている方々もきっと、常日頃からこのような葛藤と戦っているのでしょうか。いや私と比べるのも恐れ多いことではありますが。ああでも、また機会があれば長いお話も書いてみたいです。その時またご縁がありましたならば、どうぞよろしくお願いいたします。

 はあ~それにしても肩こった。




 

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