少年心Aを残して生きられるか。

また泣く君が存在した東西南北すら危うい世界線で、
すべて均等に美しく映った情報のアンドロメダを二つの観測の目が、自身の芽が大木の位置を選択する余地もなく「ここだ」と植え付ける。

おぎゃあと生まれた瞬間に名前という「ブランド」を刻印された事すらも知らずに、既にブランドを確立した大人たちにどうあるべきかを叩き込まれる様は、想像するだけでも悍ましく思う。

だが同時に美しいのではないのだろうか。

万物を創造した人物が誰であろうと。
偶然という親だろうと。
僕らが生まれて今この瞬間の1ピクセルを集めて情報を知覚するという事は、一つの物事に多くの見え方が隠れているというが。

歴史的な偉人達も、名著を残した哲学者も。

「人たるが正しい様は何様」か

を一同一様に追い求める様は美しい以外に表現のしようが無いほど一貫している。

果たして魚や鳥は考えて魚や鳥たる由縁を生きているのか。

蟻はこぞって「蟻が蟻たる由縁はここに有り」と同じ習慣を悩みぬいて行動出来ているのだろうか。

もしかすると。我々はとんでもない生き物なのかもしれない。

だからこそ思うのだ。

川底を舐めるように見つめ続け、ビー玉を眺めるが如く地球儀を眺め、草木の中の小さな生物を探すために四つん這いになる様は今の自分より間違いなく優秀な人間なのだと。

それらが薄れ、崩れ行く自分の中の世界は誰かが用意した世界に行けと言われている様にも思え、一歩踏み出すか悩むが。

あと少しだけこの世界に居たいと思う。

せめてまだ重力を感じ、踏みしめている今は「未だ童心は存在する」と教えてくれている様にも感じるから。


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