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【人生最期の食事を求めて】濃厚なカレー南ばんに宿る老舗蕎麦店の矜持。

2023年12月9日(土)
翁そば(東京都台東区浅草)

上野に降り注ぐ朝の日差しは、あたかも春の装いのようだ。
ロングコートやダウンジェケットを着用する姿が目立ったが、その陽気に表情を緩ませ軽やかな足取りで歩みを進めていた。

東京で芸術の一端に触れるならこの街に限るのだが、およそ30年振りに訪れてもその賑わいは途絶えることを知らないようだ。
しかも、「モネ展」の人気は凄まじく、入場制限と人の群れの中で鑑賞するモネの絵画はどんな印象に変わるのだろう?

オーギュスト・ロダン作「考える人」
オーギュスト・ロダン作「カレーの市民」

上野からかっぱ浅草方面に向かって歩みを進めた。
そう言えば、と私の中で何かが動いた。
浅草にカレー南蛮蕎麦で有名な店を思い出した。
老舗蕎麦屋「翁そば」は、1914年(大正3年)に創業という歴史を有し、地元住民はもちろんのこと、浅草芸人にも愛され続けている庶民派である。

国際通りから六区ブロードウェイ商店街に入り、さらに細い路地裏の小径に向かうと、その店は静かに佇んでいる。
11時30分前だった。
列を作る人数が5人であることを確認して安堵しつつ、高齢の男性客に次に私は付いた。

翁そば

翁そばの向かい店が開店準備を始めていた。
立ち飲み屋とその隣の店の店主のようだ。
「翁さんも急に行列が増えたよね」
と立ち飲み屋の男性店主が朴訥に呟いた。
「そうだね、なんかインターネットのクチコミってヤツで急に増えたんだってさ」
どことなく江戸っ子の口調の女性店主が応じた。
「そのクチコミってのは、すごいチカラを持ってるもんだね」

『クチコミの威力は計り知れないんですよ』
と私は心の中で彼らに応じた。
『スマートフォンというソーシャルなメディアは消費者や利用者の声や反応を具に拾い上げ、場所や時間を問わず次なる利用者を形成するんですよ。確かにステルスマーケティングやサクラレビューというグレーなマーケティングも現れて、その信憑性は疑わしいものなど良し悪しがあるのは確かです。ですが、今の時代はWEB集客から逃れられないのです。ですから、デジタルを味方につけてください』

11時45分とともに、快活な女性スタッフが暖簾を掲げた。
人数を確認しながら次々と店内に招き入れてゆく。
「店内が大変混み合いますので相席でお願いいたします」
と神妙な口調で案内されると、隣に高齢の男性客が座っていた。
店内に入れた客の順番に応じて注文を尋ねていった。
私は、迷いなく当然のように「カレー南ばん大盛」(750円)に「あげ玉」(50円)のトッピングを告げた。

店内

演芸の告知ポスターや日めくりカレンダーが掲げられた年季の入った店内はこの地の歴史に根づいた片鱗が随所に見受けられ、それを見渡すだけでどこか懐かしい郷愁の風情に浸ることができる。

すると、隣の高齢の男性客にもりそばが届いた。
女性スタッフが「二枚目は1枚目が食べ終わりそうな時に持ってきますね」と付け加えた。
高齢の男性客は軽く頷くと手慣れた手つきで蕎麦を持ち上げ、高齢には似つかわしくない勢いで啜り上げた。

カレー南ばん(750円)

と、そこへカレー南ばんが私の目に置かれた。
表面張力でこぼれ落ちることのない汁の色合いは漆黒までと言わないまでも、黒褐色の様相を呈していて大きな器から溢れ出すことを静かに我慢しているように思えた。あげ玉が散らばる下で鶏肉が浮遊しているほかは何も見えない。
汁の中に箸を閉じて麺を引き上げようとすると、強烈なとろみが箸と絡まり抵抗を企てているかのようだ。
汁がこぼれず、さらに跳ねないようにゆっくりと麺を引き上げると麺がカレーの薫りと湯気を着飾って現れた。
その麺は蕎麦ではなく、うどんと見紛うほど太打ち麺である。まずは麺に息を吹きかけ、そっと口元に運ぶ。
カレーはさほど辛いわけではなく、むしろ口当たりとしては優しい。麺は噛み切ることは容易いが、その肉感は豊かで口内で膨れ上がるばかりだった。
カレーはスパイスを抑制した蕎麦屋風の深みのある出汁でまとまり、食べ進めても飽きることもにない。
汁をひと口も飲んでいないのに、麺を食べていくほどに溢れんばかりの汁がなくなっていくのだった。

隣の高齢の男性客は二枚目も呆気なく食べ終えると、
「ごちそうさん」と枯れた声を放ちながら会計を済ませて消えた。

私も競うように蕎麦を黙々と啜り上げていると、新たな客がすぐさま私の隣の席に座った。

残りの汁は僅かしか残っておらず、二口ほどで飲み干した。

会計を済ませると、快活な女性スタッフが、
「本日はお寒い中お待ちいただき、ありがとうございました」
律儀に発した。

私は満ち足りた気分のまま隅田川まで足を伸ばした。
まさに6度目のアルベール・カミュの傑作「異邦人」を読んでいることもあり、
ベンチに腰かけ、束の間だが主人公のムルソーさながら太陽を浴びた。
そこには、小説の舞台アルジェリアの激しい灼熱はない。
だが、そこには微睡みを誘う心地良い陽光が待っているような気がした……。

隅田川


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