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【孤読、すなわち孤高の読書】マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

キリスト教信仰と資本主義の繁栄との関係を説いた、社会学の巨人の書。

[読後の印象]
当時の私は金が欠乏していた。
しかし、アルバイトなどという俗世の拘束に身を置く気もさらさらなく、ただ時間だけは不気味なほど有していた大学一年の夏、私は灼熱の陽光に狂わんばかりに焼かれながら、新宿駅東口の紀伊國屋書店に足を運び、小銭を握りしめてこの書を手に入れたのである。

何故に、長く重苦しいタイトルの書を求めたのか?
それは、思えば行き当たりばったりの気紛れか、あるいは暗闇の中で手を伸ばしたような衝動であったかもしれぬ。
どうせ読むならカール・マルクスにまで触れようとしたのだが、学生の限られた財布はその高嶺の書を拒んだ。
されば、と代替の手段としてこの書に手を伸ばしたのだ。
しかも当時、私は「聖書」にも手をかけていた。
そこに見出すべき信仰の彼岸と資本主義という現世の繁栄とが、いかに交わるものか、或いは相反するものか──このタイトルが放つ暗い輝きに、何故か抗えぬ引力を感じたのだ。

そして、その衝動に従い、猛暑の中で意を決してこの書を購入した。
この書が、あの夏休み中の私の時間と思想を終焉へと導いたことを今も記憶している。
本書は、宗教的倫理がいかにして人間の内面に宿り、現代の経済秩序の精神的基盤を築いたのかを解き明かすマックス・ヴェーバーの名を世に広めた書である。

この内容が指し示すのは単なる信仰の次元を超えて、宗教が人間の行動と社会全体にいかに深く食い込んでいるかという事実であり、それは驚くほど厳粛な視線で近代資本主義の成り立ちを見据えている。
本書においてヴェーバーが特に眼差しを向けるのは、カルヴァン主義を中心とするプロテスタンティズムの禁欲的精神である。
彼は、プロテスタントが掲げた「予定説」と「天職」の概念が人間の行動をいかに抑圧し、しかし同時に刺激し、禁欲と勤勉とを伴う新たな価値観を創出したかを指摘する。
カルヴァン主義における予定説は救済の有無が神により決定済みであるという無情な教義であるが、それは信者たちに世俗的成功の中に神の意志を求める必然を生じさせた。
人々は自己の職分を神聖な使命と受け入れ、自己の心を律し、ただひたすらに禁欲と倹約に励んだ。
それは神の審判に耐え得る証であると、彼らは信じたからである。
かくして蓄財と勤勉が手を取り合い、豊かさを生み出していく一方、その豊かさ自体を目的とせず、蓄えられた資本は冷たくも厳粛な論理に従い、再投資の循環へと飲み込まれていく。
この宿命的な営みこそが近代的な資本主義精神を生み出し、経済活動の合理性を神聖視する土壌を形作ったのである。

ヴェーバーは資本主義を単なる経済構造ではなく、一つの倫理的・宗教的営みとして捉える。
その視点は、資本主義が無味乾燥な制度としての機能を越え、信念と倫理の粘着質な結びつきの上に築かれていることを暗示する。

この冷徹なる洞察は、我々に働くとは何か、生きるとは何か、そして資本の奔流の中に潜む矛盾を突きつけてやまない。

今や肥大した資本主義が格差の亀裂をさらに深め、環境という神聖なる舞台すらも侵食しつつある現実において、我々人類は厳然たる代償の影と向き合わざるを得ない。
その激烈な代償の前に、我々はその端緒を解き明かす覚悟を問われているのだ。
この書を再び手に取り、そこに潜む初源の問いに立ち返ることこそが、現代を生きる我々の責務であろう。

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