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【人生最期の食事を求めて】牛タンに屈することのないとんかつの意地。

2023年6月24日(土)
「とんかつ かつせい」(宮城県仙台市)

おそらく地元民にとって、牛タンはもはや手に届かぬほどの高みへと昇華した贅沢品のひとつになってしまっただろう。
それは観光客とて同様で、観光という非日常性が高額の牛タンを導くのであって、日常においては庶民のものではないのだ。

ただ、仙台に連泊していると何を食するべきという選択は、実は難しい。
確かにラーメン消費量において仙台は、2022年1〜9月のランキングにおいては第3位に入るほどラーメン好きなのだが、個人的主観としてラーメンの気分ではない以上、何か別の物を欲してしまうのは許していただきたい。

中華そばの支出額 最新ランキング【22年1~9月】

時折雨粒が散るように落ちる梅雨空の下の駅周辺を歩きながら、過去の記憶を辿った。
こだわらなければ選択肢など有り余るほどある。
なのに、どこか決めあぐねたまま歩き続けるほかなかった。

何か舞い降りるように、私の中でとんかつの文字が踊り回った。
仙台はとんかつの名店が揃う街である、という私的見解を有している。
中でも、「とんかつ かつせい」は言わずと知れた名店として知られていて、ミシュランガイド宮城2017に掲載されたことによって、迷惑なほどの行列を作るに至った店である。

ミシュランガイドに掲載されたからと言って、私にとってそれは低価値である。
純粋にとんかつの妙を楽しむこと。
それまでである。

土曜日のアーケードの雑踏は、とてつもなく歩行困難を迫る。
歩く人々は思い思いに散り散りで、私はその空隙を縫うように歩き、アーケード内の路地から雑踏を回避した。

五橋方面に向かって歩き進んだ。
東北随一の高さを誇る仙台トラストタワーが目の前に迫って来ると、ビルの高層階から突き出たように虹のかけらが曇天が覆う空に浮かんでいた。
やがて古びたマンション郡の横道をすり抜けた。

東北随一の高さを誇る仙台トラストタワーを横切る虹

11時30分頃であった。
そこにはすでに列を成す人々の背中が見えた。
並んでまで食事を欲することを良しとしないものの、この店のとんかつの記憶と魅力はそれを凌駕した。
ともあれ、とんかつ店の回転は悪いことは容易に想像がつく。
約20分ほどだろうか?
ようやく店内に案内されると、一番奥の座敷席に案内された。

昼前からすでに行列が
入口の古風な佇まい

冷たい番茶を運ぶ朗らかな女性スタッフに「ひれかつ定食」と告げた。落ち着いた照明に包まれた昼間とは思えない暗い店内の中で、静かに食している者も待ちわびる者も皆静謐を保っている。厨房では、夫婦と思われる高齢の大将と女将さんがとんかつを揚げ、切り裂き、野菜を盛る作業を寡黙に続け、注文が入る度毎に、「はい、ひれかつ!」、「はい、ロースカツ!」と注文を確かめるように気丈な声で連呼する。

どれも試みたいメニュー

朗らかな女性スタッフがひれかつの載った皿を、さらにご飯と漬物を、そして味噌汁を運んできた。
ひれかつにソースをゆっくりと垂らし、先にキャベツ、ポテトサラダ、トマトを食しながらその様子を窺った。
小粒な姿も肉の厚みも昔と変わっていない。
やがて最も小粒なひれかつを口内に運んだ。
衣に閉じ込められた肉汁の凝縮が静かに迸り、肉の旨味自体がご飯の融和を求めて迫る。
幾分柔らかいご飯は肉の旨味を吸い込んで、底知れない海の深みに引き込んでいくようだ。
そこには真似のできない、計算不可能の職人技が控えめに主張しているように思えてならなかった。
不意に食べながら思った。
『この古風な味わいの継承は、誰がするのだろうか?』

すると、カウンターに置かれた薄ピンク色の公衆電話がベルを鳴らした。
朗らかな女性スタッフがすぐさま受話器を取って応対した。
この公衆電話さえ古風そのもので、時代を遡って古風なとんかつの愉悦に浸るまでだ。

このピンク色の公衆電話も現役として活躍している

とんかつは、確実に減ってゆく。今日の昼食の選択は誤りではなかったという揺るぎない確信の中で、美味としか言い様のない最後の一片に箸で持ち上げた。人間の欲望は移ろいやすい。しかし確実に言えることは、美味の普遍性こそ生の根幹と死の回避を願う原点のようなものだということだ。

開け放たれた入口の暖簾が風で揺れていた。
その隙間から新たな行列の姿が垣間見えた。
食べ終わって早々に、行列を少しでも減らすために会計を済ませた。

『ひれかつとロースカツのミックスも悪くない』と、内心思った。
が、次はいつ訪れることができるのだろうか?

ひれかつ定食

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