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《田中一村展-千葉市美術館収蔵全作品》

 ひさびさの千葉市美術館。リニューアルしてから訪れるのは初めて。


 千葉市美術館では、今月末まで同館所蔵の田中一村作品が全作品展示されている。晩年の奄美大島での制作が広く知られる彼だが、その移住前まで20年間住んでいたのが千葉だった。

 彫刻師であった父から書画の訓練を受け、幼少期から才を発揮した一村(当時の画号は米邦)は、東京美術学校にも一発合格。しかしながらわずか2ヶ月で退学する(表向きの理由は「家の都合」)。だがその年の10月には個人展も開かれ、その展覧会の支援には財界著名人らも名を連ねたという。
 そうした順風満帆な画家としての船出だったが、一村は画風の変化を志す。細密描写を採り入れた表現で思いのままに描こうとしたのだが、この作風が周囲の支援者に受け入れられない。さらには20歳前後には母と弟、27歳で最大の理解者であり後援者であった父を失う。美校中退もあって中央画壇との距離が開く中、周囲の後援もほとんど失った一村。30歳となる1938年、叔父であり、その後の最大の理解者・支援者となる川村幾三氏を頼り、残された家族とともに千葉市へと移り住んだ。

 千葉市美のコレクションはこの移住以降、千葉期の作品が中心となる。ほぼ全てが個人からの寄贈・寄託された作品によって形成され、2018年度には叔父の居た川村家に所蔵されていた作品群(川村コレクションと呼称)も寄贈された。この寄贈も記念した今回の展覧会。当然ながら川村コレクションからの初展示のものが多く目を見張る。
 個人蔵だった作品の多くには周辺作品と言われがちな職人的な仕事も多い。千葉での一村は、周囲の人々のために様々な作品を制作した。観音図・季節ものの掛け軸・襖絵など本業の絵描きの仕事に近いものから、父から学んだ木彫を生かした帯留め、更には傘・着物などの装飾まで手がけた。こうした私的な交友の中で制作された作品は小規模なものが多いが、画家の名声に関わることなく、受け取り手が大切に保管したため現在まで至ったものが多い。
 一方で川村コレクションにはこうした作品に加え、模索期の習作や、より個人的な目的で作った色紙絵など、一村自身の画風を究めた作品が多く、この時期の画風について示唆を与えてくれる。

以下、題名を太字にした作品の画像は
下記公式ホームページより閲覧が可能です。

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 千葉に移り住んで以降、中央画壇から距離をとってしまい、身近な人々への制作を増やした一村だが、決して画壇での入選や評価から無縁に生きようとしたわけではなかった。
 画号を「柳一村」に改めた1947年以降、継続的ではないが幾度か出品をしている。川端龍子が主宰する青龍展では、1947年に『白い鳥』を出品し入選。翌年にも2作出品し1作が入選する。しかしながら一村は片方の落選に納得できず、この入選を辞退した。以降、日展や院展へも年を隔てつつ出品を試みているが、どれも落選している。

 院展落選後に一村はすぐに奄美への移住を決意し、それに先立って落選し手元に残った作品を全て焼却した。この頃の充実した作例が殆ど現存しないことは、千葉期の一村について語ることを難しくしている。

 しかしながら千葉市美術館に近年寄贈・寄進されてきた作品によって、この頃の一村には、奄美での作風を予期させる要素が既に多々健在であり、それがこの時代に培われたものであったことがこの展覧会を通して認めることができる。

 千葉においても彼は、画集や写真集などの書籍を積極的に買って研究を続け、周囲の人々へ作る作品ではこれらを参照・引用しながら制作した。日本画の正当な訓練を積んでいないはずの彼にとっては更なる鍛錬の時間にもなっただろう。更には当時としては新しいメディアである写真へも関心を向け、制作の参考写真としてだけでなく、芸術写真と言えるような写真も残されている。
 ルソーのジャングルを描いた作品を思わせる、奄美期の質感を持って迫ってくる動植物のイメージは、日本画として異色で、作風が一気に変化したようにも見えてしまうが、本展覧会で見られる千葉期の作品からは、既にそこに見られる傾向は見てとれる。画風の転換を図り細密描写を多用した20代前半に製作した《椿図屏風》は千葉市美所蔵の一村作品で唯一の購入作品だが、その見る者に迫ってくる圧迫感は奄美期の作例を思い起こさせるだろう。豪華な金屏風に描かれるのは、画面いっぱいに埋め尽くされた濃緑の葉、そしてその合間から顔を出す、白と桃色のビビッドに映える椿の花。花の美しさとは別、もはやグロテスクともいえるような質感が作品を印象付ける。
 興味深かったのは、院展で落選し焼却された《岩戸村》の写真と考えられるものだ。《椿図屏風》と同様、画面に余白はほぼない。しかしながら画面構成は幾つかのモチーフから整えられた印象をうける。中央には岩場が画面上端いっぱいにまでそびえたつ。画面中段、水面のような部分で岩場は遮られ前景へと繋いでいる。前景左には枝が描かれるが、それは明るい色彩で太く縁取られているようだ。小さいモノクロ写真のため細部までは分からないが、作品は細やかな色調ではなく、広めの色面を用いながら構築されているよう。思い起こすのは津田青楓の初期のデザイン画。ステンドグラスか七宝かのように色面を並べ夕景を示した図案があるが、それのように《岩戸村》でも天岩戸に満ちる光が演出されていたのではないだろうか。
 宮崎県の天岩戸を描いた《岩戸村》は、直前の西日本での写生旅行・取材をもとにして描かれている。この旅行での経験を題材に描いた色紙絵は、川村コレクションとして今回展示されている。色紙絵は千葉期の初期から川村氏らに渡していたものだが、この旅行で描いた色紙絵では、それまで以上に作品に色彩感が溢れている。鳴門・室戸・高千穂・阿蘇など各地の風景はその湿っぽさや風まで伝わるような表現で描かれる。輝きを放つような色彩への関心も強く感じる。《岩戸村》にも同様の色彩感が満ちていたと考えるのは決して突飛な考えではないはずだ。
 彼が心血を注いだであろうこれらの作品は、千葉期における一村の発展の集大成ともいえるべき作品だったに違いない。

 この写生旅行で見た美しい自然は恐らく大きな契機だった。院展に落選した後、一村は奄美への移住を決意する。到着の年、千葉の川村氏へと送った色紙絵は、やはりその写生旅行の際と同様、鮮やかな色彩に満ちた作品で、同様の感動があったことを感じ取れる。
 奄美への移住後、見合いをしに千葉に戻ってきた際に描いた作品、《仁戸名蒼天》も展示されている。作品は、画面上部の角が丸く削られて、形式面での象徴的な雰囲気をもつが、主題となるのは山の木々、そしてその上に広がる広く青い空である。形式や題材からはドイツの画家フリードリヒの《山上の十字架》(1808)を少し想起するが、大きく異なるのは作品に解放感、そして光が満ちていることだ。ここでは岩絵具を塗り重ねて油絵のような質感をも感じられる。光の輝きに呼応する色調の変化も描かれる。彼の中で表現に変化が生じていることは間違いないだろう。

 この後再び奄美に戻った彼は、完全な移住を決意した。数年間の染色工としての労働への専念で金銭を貯め、その後数年間の絵画制作への専念で作品を描く。それを二回繰り返し、個展を開こうとしていた。最初の絵画への専念期間中に描いたのが、《アダンの海辺》だった。
 画像などで見るとその色彩の鮮やかさに一瞬たじろいでしまうが、実際に見るとむしろ色彩はさらに優しい印象を受ける。熟れたアダンの実も浮き出すことなく大気のうちに描かれている様な印象だ。
 中央から左へと大きく捻じらせた根から、根元で分かれて再び右へと大きく旋回する幹の先に熟れたアダンの実が生っている。その葉は上方に冠のように伸びるものもあれば、画面右端へと横断しきってその先が大きく隠れているものもある。他方の分かれた幹はまっすぐに伸び、そのまま空高く、雲の上方へと視線を導く。中景から後景を成す海岸の自然描写は、砂の細かな塗り重ね、波のきめ細かい表現、曖昧な水平線から昇る幾段にも重なる雲と、どの部分も真に迫るものだ。それなのに圧迫感が和らいでいるように感じるのは、そのすべてが広い空間で、穏やかな光の中に包まれているからだろう。

 千葉市美術館の所蔵作品を続けて見た後では、《アダンの海辺》は千葉期における制作の前進によって導かれた作品として見ることが十分に可能だろう。彼らしい植物表現の自在なトリミング、細部までこだわられた表現は彼の初期からの傾向と見てとれるが、《岩戸村》と思われる写真に見られたような日本画的な画面構成のエッセンスはより強まっているように感じられる。一方で同時に感じられるアダンの実の不思議な浮遊感。穏やかながら海からの風を感じさせる波と雲の存在は、実の浮遊感を心地よい大気の中に包み込む。それは、彼が写生旅行の色紙絵や、一時的な千葉への帰還の際の《仁戸名蒼天》に見られた大気や光を感じる姿勢と共通しているだろう。《アダンの海辺》は、千葉を経た田中一村の画風がここに極まった作品である、と言っても過言ではないのかもしれない。

 千葉市美術館の所蔵作品展である今回の展示では、奄美時代の充実した作品は殆ど展示されていない。実を言えば筆者は奄美時代の作品については殆ど知識がない。美術の教科書の表紙として印象に強く残っていた作品であった《アダンの海辺》の掲載されたチラシを見て、今回の展覧会に駆け付けたのだった。
 今回の展覧会の最後にはアーカイブとして、没後開かれた展覧会や関係イベントのチラシ・ポスターなどが展示されている。生前にはほとんど認められてこなかった田中一村が、没後どのようにして人々に知られていったかを見ることができる。展覧会のチラシの中心をなすのは「孤高の画家」「悪魔」「閻魔大王」といった過激なキャッチコピーと、奄美時代の作品群だ。これらの作品が目を引くことは容易く想像できる。こうした形での画家の評判の高まりが次なる展覧会を呼びこみ、更なる研究・作品の発見につながっていったことは間違いなくプラスに働いたであろうが、千葉市美術館に千葉期の作例が十分に集まってくるほどに、田中一村という画家の本質は、その奇抜さや過激さにはないように思われるのである。
 ふと思うのは、彼が洋画の人間だったら。こうした作風であっても決して落選続きではなかっただろうし、認められない時代が長くとも、彼の画風を受け止める若い作家たちも周囲にいた事だろう。中央画壇から離れていた一村が他の画家とどういう関係にあったのか、展覧会では殆ど触れられない。しかしながら千葉での私的な制作を見ていれば、孤高性を欲するような人柄の画家とも思えない。何か侘しさをも感じてしまうものがある。
 千葉市美術館による田中一村の今回の展覧会からは、孤高の画家とも称された一村のもつ「人間らしい」側面を見つけることができるだろう。千葉期の一村をじっくりと見ることは、彼がこの時代、長く苦しくもがきながらも新たな表現を獲得したことを確信させてくれる。一時的な流行となり得る奇抜性を持つ画家としてではなく、より充実した画家としての発展が認められる日本画の画家として、田中一村の千葉期が正しく評価されることを通して認められることを祈るばかりだ。


2021. 02. 22

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《田中一村展 ―千葉市美術館収蔵全作品》
 千葉市美術館
(京成 千葉中央駅より徒歩10分)
 会期:~2月28日(日)(会期中は無休)
 入場料:一般600円、大学生400円(同時開催の「ブラチスラバ世界絵本原画展」との共通チケットあり)

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