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【読書】『子どものための哲学対話』永井均


こんにちは、花車です。


『子どものための哲学対話』(永井均 著)を読んだ感想文です。必ずしも共感は得られないと思うのですが、せっかくなので投稿します。人からの評価を気にする、かつての優等生の誰かに届くと良いなと思っています。


★★★

 「なにか意味のあることをしたり、ほかのだれかに認めてもらわなくては、満たされない」のは「下品」、「下品な人は、道徳的な善悪を重視しがち」で、その理由は「自分の外側にしか、たよるものがないから」。
 ペネトレの言葉にどきっとした。耳が痛かった。仕事をしながら、「誰かのために役立てているか」、「自分の部署に貢献できているか」、「関係者に嫌な思いをさせていないか」といったことを常に考えている私は、「下品」なんだと気付いた。
 自分で言うのもなんだが、小さい頃から優等生だったと思う。先生に叱られるようなことはほとんどせず、勉強に真面目に取り組んだ。将来の選択肢を広げるため、いわゆる良い高校、大学へと進み、「人々の当たり前の生活を支えたい」との動機で就職先を選んだ。
 勉強は、テストで良い点を取るのが嬉しかったという面も否定はできないけれど、基本的には楽しかったからやっていたと言えると思う。部活動もそうだった。中学生、高校生くらいまでは、努力して何かができるようになることが純粋に好きだった。
 しかし、大人になるにつれて、頑張ろうにもそうできる環境にない人が、世の中にたくさんいることを知った。私が結果を残せているのは、自身の努力だけではなく、いや、自身の努力よりもむしろ、環境などの他の要因に恵まれているからだと改めて認識し、恵まれているからには努力しなければ、人の役に立たなければ、人に迷惑をかけないようにしなければと考え、人のために自分が苦労すること、我慢することもある程度は仕方ないと思うようになっていった。
 仕事においても、就職したばかりの頃は、出会うものすべてが新鮮で、それ自体が楽しいと感じられることも多かったものの、少しずつ年次を重ねて複雑な業務や連絡調整に携わるようになると、関係者からの評判や上司からの評価、部下からどう見られているかばかりを意識している自分に気付いた。「こんなことして本当に意味があるのかな」と思いながらも、目の前や遠くの「誰か」の要望に応えるために奔走する毎日は、見せかけの充実が感じられる日もあったけれど、疲れを覚える日の方が多くなってきていた。
 ペネトレとぼくの対話を読みながら、ふと、就職活動中、「苦労して成長しなければならないという考えは捨てていいんだよ。どこで働いている自分が一番自然にイメージできるか考えてみて。」と声を掛けてくれた人がいたことを思い出した。
 一冊読み終わる頃には、もう少し力を抜いて、やっていること自体を、その過程を、もっと楽しんでみようかなと感じた。
 「ひとから理解されたり、認められたり、必要とされたりすることがいちばんたいせつなことだっていうのは、いまの人間たちが共通に信じこまされている、まちがった信仰なんだ」というペネトレの言葉に、勇気をもらえた気がする。
 かつて優等生だったあなたへ、今も優等生気質で、自分のことより誰かのことを考えて、少し疲れているかもしれない。自分が楽しむより、誰かの役に立たなければと自分を追い込んでいるかもしれない。
 この本を読んで、深呼吸してみてほしい。人の役に立ったり、人から認められたりすることばかり意識せず、目の前のことを楽しんでいいのだとほっとできると思う。
 人のために苦労して評価される人は強いけれど、誰にも褒められなくても、自分で自分に「大丈夫」と言える人はもっと強いと思う。
 歌とダンスが好きでアイドルになった、絵を描くのが好きで画家になった、ピアノを弾くのが好きでピアニストになった。こういうケースではなくても、自分の仕事が好き、それ自体が楽しいと思える人は、結果として誰かを笑顔にできるのではないだろうか。
 この本を時々読み返しながら、一人ひとりが肩の力を抜いて、楽しく生きていけたらと願っている。

★★★


最後までお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう!

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