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認知症

記憶とは非常に曖昧なものである。というのも、その記憶を作る元になっている私達のものの見方がそもそもいい加減であるからだ。

私達は、物事を見たいように見る。同じことが目の前で起こったとしても、人それぞれに様々な先入観を持って、その事実と対峙するため、ときには全く違う判断を下すことさえある。

黒澤明監督の「羅生門」は、まさにこのような、人々の認知やその記憶の曖昧さが主題になっている。ある殺人事件の現場に居合わせた数名が、それぞれ全く違った証言をし、結局何が本当なのかは分からずじまいに終わるというストーリーなのであるが、これは、記憶にもとずくと、いかに事実が”藪の中”に消えていくかを物語っている。

認知症と老化による物忘れの違いの一つに、「認知症の人は、忘れたことの自覚が無い」というものがある。記憶がなくなったことにすら気がつけないということだ。

「無自覚な記憶の喪失」。しかしこれは、認知症患者でない人々にも、無関係な言葉ではないと思う。

「羅生門」の例にもあるように、人の認識と、それをもとに生み出される記憶は非常に曖昧なものである。しかし、当人たちは、普通、その記憶が正しいと信じて疑わない。

つまりここには、「無自覚の事実の改ざん」が行われているわけであり、これは、言い換えると、「無自覚の事実の喪失」とも呼べる。

つまり、認知症患者は「無自覚に記憶を喪失」しているが、それ以外の人々も「無自覚に事実を喪失」している、ということになる。

私達は普通、記憶しているものを事実として疑わないわけであるから、「記憶≒事実」が成り立つ。そうであるのならば、認知症患者とそれ以外の人々も同じく「≒」で結ばれるということにはならないだろうか。


正しい認知は不可能である。そういった認識から出発していく勇気を持ちたい。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!