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【惜しい風景】 シリーズ化決定!


惜しい風景」とは、「万人に素晴らしいとされる風景の中に、人間生活に必要な構造物が立っており、その構造物を風景の観賞者が取り除きたいと思ってしまう風景」と定義する。「また、それら構造物はアンテナや住居のように、平時は我々の暮らしを支えるものであって、観賞者の勝手都合のいい思惑と日常におけるそれらの恩恵の度合いとの隔たりが大きいほど、当該風景に分類される。したがって企業や商店の看板のような、設置による受益者が限定的なものは、当該風景の構造物にあたらない。


惜しい風景をめぐる事情

さて、ちょっとしたクイズ。素人写真が文字通り、素人くさく見えるのはどうしてだろうか? 撮影機材のせいか? そうしたお金で解決できることではなく、もっと基本的なことが原因だと思う。

隅々まで何が写っているかを意識していないからなのだ。

撮影のプロに聞けば、画角の辺の部分までしっかり意識しながら撮っていると、大抵が口を揃える。「写真は引き算」と言われる。撮りたいメインテーマを決めたら、それに関係のないものはできる限り画面に入れないよう、構図決めをする。背景のよくボケるレンズで撮影した初心者は、上手く撮れた気になるようだが、じっさいは背景の余計な物に強いボカシが掛って、自動的に引き算されただけなのだ。プロの撮影家は、目に映る風景、ファインダーに入る風景の仔細にわたって気を遣っている。

そういった、撮影現場ですでに緻密な構図決めができる「風景に敏感な人」に限らず、「鈍感な人」でも、出来上がった写真を見れば、多かれ少なかれ画中の障害物に気が付く。環境変化めまぐるしい現地では、ヒトは見たいもの以外に焦点が当たらないよう、都合よく脳を働かせて消している。一枚の写真の限られた枠内に風景が収まったとき、「コレさえ写ってなければなァ」と思う。「コレ」があるせいで「惜しい風景」になってしまう。そんな「惜しい風景」は世の中にゴマンとある(はずだ)。「惜しい風景」シリーズではこうした、残念要素がせっかくの良い風景に紛れ込んだ例を、蒐集していく。

ところがここで注意したい。定義にもあった通り、「惜しい風景」というのは実にエゴイスティックな考え方でもある。たとえば電柱の地中埋設や建造物の高さ規制、看板の設置可否の判断が、景観上の理由で行われている。そればかりが理由ではないが、景観保護といえばそれらのキーワードが想い起こされる。それらキーワードは一緒くたなニュアンスで扱われてしまっているようだが、ほんとうは個別に見ていくと、その邪魔者度合いが異なるのではないだろうか。「景観保護のため」という言葉を盾に改善工事や規制が行われる一方で、それが地域における部外者の、やや身勝手な判断に晒されていないか。「醜景警察」の執拗な「取り締まりのえじき」になっていないだろうか。


惜しかった伽藍風景

撮影者にとって「惜しい」けれども、ふだんはそれのお世話にならないと生きていけない。そういったインフラ的構造物を、撮影のときだけ構図の邪魔だというのは虫が良すぎる。この考えは何を隠そう、自分の体験を通して生まれた。

11月に京都の郊外のお寺に、紅葉の撮影に行った。行楽などという生ぬるい撮影旅行ではなく、早朝5時半ごろに街灯もロクにない山へ入って、山中から紅の朝日に染まる眼下の伽藍を観に目ざす行程だ。同伴の撮影仲間との待ち合わせは3時半過ぎ。待ち合わせ場所から山へは徒歩で、うだうだ喋りながら歩いて行った。山中に入れば、クマの目撃情報もあるような場所なので、遭遇の恐怖との戦いだ。クマ鈴、ヘッドライト、その他音の鳴るもの。クマはヘビを怖がるというにわか仕込みの知識から、身につけたベルトはすぐに振り回せる用意で。おまけに、足下も決してよろしくない。

目的の場所に到着すると、色の褪せた青い闇の中に伽藍の黒い塊が、辛うじて見えた。前もって下見に来たときの記憶から、手前の茂みをある程度のハイアングルでかわし、5mほどの立ち位置の幅の中で、絶妙な画角が得られる場所を探った。同伴者とあーでもない、こーでもないと話しながら、夜明け前後のホンの一瞬の独特の色味をもった光を待った。

東の空が白んでくると、全天に明るさが増し、サッパリとした青の中に、鉛色の伽藍と、真紅の深い紅葉が浮かび上がった。青はやがて紫がかり、紅葉の紅をさらに深める。刻一刻と変わる色を掴まえようと、ひたすらシャッターを切った。お互い、「左の隅に見える屋根の破風。あそこに足場が掛ってますねェ」とか、「今のあの雲、いい感じ! 紫立ちたる雲の…ってやつですね」とか言いながら、切った。

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そこで途中気になったのが、画面右上に見える通信基地局だった。求める画角からしてどうしても隠せない。「あれ、どうにかならんのですかね」と言うと、相手も頷いた。ところがふと、「とはいえ、普段アレのお世話になっておきながら、都合の悪いときだけ失くせなんてのも虫が良すぎる」という考えも湧いた。思ったことを話すと相手は失笑したが、自分はかなり真面目にそう考えた。

先日、そのとき撮った作品を別の会で披露する機会があり、見た人からやはり、基地局が目につくと指摘があった。けれども、こちらは「しめた! よくぞお聞きくださいました」という気分になった。それはそうだ。敢えて、基地局を入れた写真にして、自分のオリジナルの写真を撮ったのだから。痛烈な皮肉が裏テーマにある、傑作なのだと自負している。


景観論はどれほど勝手か

カメラを始めて、もう13年になる。大してコンクールにも応募せず、ボチボチと今のインスタブームが来る前から続けてきた。撮影上いらない構造物をいかに隠すかとの戦いでもあった。ただひたすら、自分が好きな風景(煎じ詰めればアングルのことであって、漠然と捉えた風景ではない!)を求めて撮ってきたが、「惜しい風景」ゆえに、泣く泣くボツにした風景写真もあった(それを消さなきゃ、今ごろたくさんのシリーズをここでお見せできたのに…)。

風景に対して、それだけの経験ゆえに自分は敏感なほうだ。幼少期に漠然と好きだった風景を、いま改めて根拠づけて理解したいと思っているし、デヴェロッパーの手でまちづくりを謳い造成された街並みや、江戸を主題にしたテーマパークの風景の、どこか空々しい感じは何から来るのかというのも、分析している。電線電柱のある景色も、場合によっては良いように見えることもあるし(少なくとも自分はそう感じている)、綺麗に整理されて造成された街並みにかえって不安感を覚えることもある。だから、世に言われる風景論・景観論で、懐疑的になってしまわざるを得ない語りも、しばしば見かける。

「絶景」という言葉だって、「惜しい風景」と同じく、地域にとってのヨソ者の勝手な感想に過ぎない。絶景を辞書で調べてみると、「すばらしい景色。絶勝」(デジタル大辞泉)、「よそでは見られない(=絶)すばらしい景色」(Oxford Languages)とある。たいへん曖昧な説明だ。「すばらしい」という感想は、人それぞれで違うはずだ。つまり、絶景は主観が強く、「観た者本位」の言い方なのだ。

そのうえ、「よそでは見られない」と、ご丁寧に説明を付け足しても不十分だ。世の中に、似た景色や見分けのつかない景色はあるけれど、小石の配置や木の生育ぐあい、建物のシミや日の当たり方(上空からみた配置・方角)がまるっきり一致する景色はほぼ皆無といえる。要は、どの景色も「よそでは見られない」し、誰か一人の心には響く「すばらしい」ものかもしれない。渋谷スクランブル交差点だって、ただの交差点だが、外国人にとったら、大勢の人々が一気に行き違うあの交差点はすばらしいし、どこにもない「絶景」になってしまう。冒頭にあげた「惜しい風景」の定義を考えるとき、ちょうど「絶景」という言葉を入れようとしたが、諸々の判断から絶対に入れないことにした。

また一般的に、アンテナや基地局のある風景が良くないとされるのは、時代的背景に由来するかもしれない。もし、人工衛星が基地局になり、地上の基地局が全て撤去される時代が来たならば、基地局のある「2020年的風景」が、ある時代の人たちにとって懐かしいものとなるだろう。看板がある風景を思い浮かべて欲しい。今でこそ、大村崑(※人名は全て敬称略)の描かれた栄養ドリンクのホーロー看板は、街並みにノスタルジックさを加えており、取り払うべきどころか、良いアクセントにもなり得ている。ところが、かなり遡った話になるが、石川栄耀(1893-1955)らが戦前から巻き起こした「都市美運動」という都市景観を問う運動では、看板は槍玉にあげられた。レトロな看板が木造建築の街並みにプラスの効果をもたらすケースさえあるのに、かつては醜悪な景観のモトなのだった。

風景を前にして「絶景かな、絶景かな」と発するのは、将来や過去のパラダイムも顧みず、目の前にある風景が至上だと思う、極めて視野の狭い自分本位の感想なのだ。決して、観光客が「絶景かな」と言ってはいけないというわけではない。まず、観光パンフレットやガイドブック等で、使って欲しい表現ではないといいたい。


「惜しい風景」シリーズ始めます

単なる美醜をあげつらう景観論ではなく、地域生活や通時的な視点を持ち合わせた、多方向の景観論が必要だ。安易な景観計画や映えスポットの盲目的な設置を問い、その一方で生活上必要な構造物の設置における配慮や工夫も忘れられない。そうした考えを背景とする「惜しい風景」は、「(それを観に来たヨソ者にとっては)惜しい風景(だが)」という補足がつく言葉なのだ。「惜しい風景」シリーズが発見され次第、また紹介したい。



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