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二度停学になった不良高校生が、学年一位になった話

はじめに

本書に書かれている話は、全て僕自身が経験した実話です。

今回は、高校生時代にあったお話をさせていただきます!


筆者のあらすじ

小学生・中学生時代は全く勉強をしていない学生であったが、高校時代に入り、猛勉強をし、愛知大学法学部へ進学をする。勉強後、全国模試の偏差値が勉強前と比べ、30以上上げることができた。

 小学生までは、人の気持ちを考えない、いわゆるガキ大将で、小学4年生の頃に、その罰が当たったのか、紫斑性腎炎という大きな病気にかかり、半年間の入院生活を送る。

 その後、心は段々と弱くなり、中学生にして初めて『いじめ』に直面する。『死』を意識していたが、親友である友人に助けてもらい、徐々に仲の良い友達が増えていく。

 中学2年生の頃に両親の離婚が重なり、自分の人生がどうでもよくなり、不良(ヤンキー)となる。

 中学不良時代は毎日のように喧嘩の日々を過ごす。喧嘩、万引き、暴走族を立ち上げるなど、毎日好き放題に過ごしていた。

高校進学をするつもりはなかったが、父の説得により、名前を書けば入れるような底辺高校に進学することになる。

 高校進学をしてからも、ヤンキーを継続し、地元で最強の暴走族を潰す。

高校入学をしてから3ヶ月の間に、二度の停学処分をくらい、退学処分ギリギリのところで、ある一人の先生に出会い、勉強に目覚め、人生が180度変わる。勉強に目覚めた後、国際弁護士を目指し、愛知大学法学部に進学することになる。

愛知大学法学部に進学後、日本以外の世界を知るため、大学4年生の頃に一年間、休学をし、アジアとオーストラリアへバックパッカーの旅に出る。

 海外から帰国後、国際弁護士資格の壁の高さに大きく躓く。挫折を味わい、自分の目標を見失った結果、大学5年生の頃に、中途退学をする。

 その後、建設業界に就職するが、仕事がハードかつ人間関係に悩み、鬱病になり、二年を経て、離職する。

鬱病になった後、大学在学中にご縁を感じた長野県で心を癒そうと、なんのツテもコネも仕事もないまま、長野県へ移り住む。

 長野県へ移住、教育サービス業である塾運営会社に就職し、最速最短で課長職に就く。

 入社三年目に結婚をし、その後、三人の子を授かり、順風満帆な人生を送っていた頃、ある日妻がマルチ商法の商品にはまっていることに気が付くが、時すでに遅し。妻との関係がうまくいかず、離婚をすることになる。

 離婚後、子供達と会うために転職をし、現在に至る。


高校時代

◇つっぱり

 高校の入学式が始まり、僕は「初めになめられてはいけない」と、髪の毛を真っ赤に染め、襟足を肩まで伸ばしたウルフヘアーで登校した。

髪の毛の色が明るかったので、高校の先生に校門で止められ、「明日までに必ず染め直して来い」と言われた。

H高校には、I中学からは、れいな、水田、竹中が入学していた。

周りを見渡すと、ギャル男みたいな、髪の毛の色が真っ金々やら真っ茶々色の集団が、20~30名、リーゼントの眉なし集団が10~15名、アイパーやパンチパーマが数名いた。

 入学式が始まり、生徒達の後ろの方で大声で怒鳴っている先生がいた。

怒られている生徒は、『日野』というアイパーがかかった眉なしで、日野は先生に対して暴言を吐いていた。終いには、日野がキレて、先生を羽交い絞めし、複数の先生に止められていた。そいつはN中学のナンバー2で、喧嘩がかなり強かった。

日野は、入学式初日に無期停学処分をくらっていた。

「兄ちゃんが言っていたように、ここにはあほみたいなやつばっかいるな」と思っていると、日野が暴れている姿を、腕を組みながら冷静に、にらみ顔で見ていた男がいた。そいつは一際背が高く、眉毛が太く、ただならぬオーラを纏っていて、どこか気になっていた。

 クラス発表が終わり、教室の前に座席表が貼り出されていた。

僕の学年では、クラスは全部で6組まであり、一組から二組に上がるにつれて成績が上がっていた。僕は入試当日、外国人のトミーに問題の答えを教えてもらっていたので、一組ではなく、二組に入ることができた。れいな、水田、竹田は一組だった。

二組には、僕が知っている人は誰一人いなかった。僕は、「クラスの中でもなめられるわけにはいかない」と思い、「全員敵だ」と思わせんばかりのメンチを男女関係なく切っていた。

僕の席は、廊下側の後ろから二番目で、斜め後ろには、さっきいた、でかくガタイのいい男がいた。名前を『翔太』といった。

◇恩師との出会い

 しばらくして、担任の先生が入ってきた。先生は20代後半で、背が高く、どう見ても『体育の先生』というような、バキバキの体つきだった。

その先生は、教室に入るやいなや、関西弁で自己紹介を始めた。

「どうも!!僕の名前は、木村拓哉です。違うか!」

「・・・しーーーーーん。。。」

クラスの誰一人反応しなかった。というより、唐突すぎて、『できなかった』。

僕は、心の中で「この空気の中、この先生は度胸があってすごいなぁ」とひそかに思っていた。

先生は当時、本来であれば担任を持つことはなかったのだが、大人の事情で例外的に担任を持つことになった。先生は、大学卒業まで水泳に没頭していて、中学のときには、誰もが知る有名選手とオーストラリアの強化合宿の選抜に選ばれており、日本ランカー17位ほどの実力者であった。

僕が今まで会った先生は、「自分を守るために余計なことをしない」「僕のような面倒くさいやつとは関わろうとしない」「綺麗事ばかり言う」先生しかおらず、僕の先生のイメージはそういうイメージしかなかったが、この先生には、初めのつかみから、ほかの先生とは何かが違う印象を持った。

ただ、僕はどんな先生でも、しょせん『学校の先生』でしかないと思っており、僕は自分の都合しか考えなかった。

先生の名前は、はたや先生といった。

 高校入学後、僕は部活には入らず、竹中や水田、水田の知り合いの不良グループの『さとる』や『安藤』、れいなとその友達のギャル軍団と一緒に行動していた。

授業は寝る。休み時間になれば、屋上へ行き、飯を食ったり、ボールを家から持参して、遊ぶ。高校生になっても、中学のときと同じことをしていた。ただ、高校生ともなれば、騒ぎを起こせば停学になってしまうことは分かっていたため、明らかにばれるような悪事はしなかった。

◇携帯事件

 高校入学後、一回目の試験中、隣のクラスで携帯の着信音が鳴った。

試験官の先生は各教室にいたのだが、隣のクラスのおじいちゃん試験官は、僕の教室に入って来るやいなや、僕の方を見て、

「この辺で音が鳴った!!」

と言い出した。

近くの翔太の顔を見て、

「いや、明らかに隣のクラスで鳴ったよな?」

と言うと、翔太も

「明らかに隣で鳴ったって!俺らのクラスじゃないって」

と言ったが、おじいちゃん試験管は、僕のクラスに向けて、

「このクラスで携帯電話を持っている者は全員机の上に出せ!!」

と急に怒りながら、言った。

僕は、携帯を出すことで、「先生が携帯を確認して、着信履歴があるかどうかを見るだけ」だと思ったので、潔く携帯を机の上にたたきつけた。僕が携帯を出すと、携帯を持っていた他の生徒も同じように携帯を机の上に出した。

僕は、おじいちゃん試験管に、

「先生、鳴ったかどうか確認して、見てみてよ!着信履歴なんてないって!」

と言った瞬間、おじいちゃんは大声で、

「全員停学だー!!!!」と言った。

「・・・はーーーーー!!??」

携帯を出した人数は17人。クラス全員で35人程だったので、二組はクラスの約半分が停学になった。その中には翔太もいた。

全員別室に移動になり、テストも途中から全員受験できず、その日に受験できなかったテストは全て0点になった。

僕に下された停学処分は「停学一週間」だった。

僕は、「試験中に携帯を触っていたわけでもないのに、携帯を持っていただけで停学になること」に納得がいかなかった。

 停学中は自宅待機が『絶対』だったが、そんなことはお構いなしに、夜中にバイクでふらふらと走ったり、レンタルビデオ屋の前で、高校の不良集団とタバコを吸いながらたまっていた。

するとそのとき、高校の先生とたまたまばったり会ってしまい、こっぴどく叱られた後、停学一週間を追加されてしまった。

 停学二週間になってしまった僕は、追加された課題を適当に終わらし、学校へ行った。

 僕の停学が解かれたときには、すでにクラス全員の停学が解かれていた。翔太もすでに停学が解かれていて、翔太から、

「停学最悪だったな。なんでじょーじだけ二週間だったの?」

と話しかけられたのをきっかけに、翔太とは仲良くなっていった。

◇心友

 翔太は僕の地元から、少し離れた場所に住んでいて、それまで僕が知らなかった地域に住んでいた。翔太の身長は高校1年生の時点で190㎝近くあり、腕の太さは尋常じゃないぐらい太かった。腕が太いくせに中学はサッカー部出身で、高校もサッカー部に入ったが、携帯事件で停学になったことと、部活のことで部活の顧問と意見が合わず、サッカー部をクビになったそうだった。

翔太とはヤンキー話がよく通じ、中学のときに僕が一度喧嘩をしてボコボコにした、いつも特攻服を着ながら、彼女とにけつをしている「特攻服チャリ野郎」を知っており、翔太も一度ボコボコにしたことがあったそうだった。

翔太とは当時流行っていた肩パン仲間になり、休み時間になれば廊下に出て、いつも本気で肩パンをし、「先に痛いと言ったほうが負け」という意味の分からない勝負をしていた。

 その頃、れいなと、あまりうまくいっていなかった。僕は、極度のやきもちやきだったため、れいなと会う度に「男と話すな」と怒っていた。僕が、学校内で、少しでもれいなが他の男子と話している姿を見ると、休み時間に、トイレにその男を呼び出し、説教をしていた。

そんなことばかりしているので、高校内では「じょーじの彼女に話しかけたら、じょーじに殺される」と噂になり、女子でさえも、れいなに話しかけることが少なくなった。そんな様々な僕の理不尽なことに、れいなは嫌気がさしていた。

高校入学後、二回目の試験。

前回の停学の反省の色など全く見せず、携帯で答えを調べながら試験を受けていた。

僕は、翔太と「秘技!ローテーション!」などとわけの分からない名前を付けた、「各自、問題を解き終わった後、お互いの解答用紙を回し、お互いの分からなかった場所をお互いの答えで埋めること」をしていた。

お互い『あほ』なので、結果は言わずもがな、二人共、全く同じ解答用紙で、二人とも全科目7点以上の点数は取ったことがなかった。

「クズは何をやってもクズなんだ」

 古典の先生が、授業中に、僕達のことをよく『クズ』と言っていた。

自分自身に価値を感じていなかった僕は、先生に何と言われようが、気にすることはなかった。

◇文化祭

 夏休み前に、夏休み後の文化祭で行う出し物を決めるホームルームがあった。

はたや先生が「二組の出し物はダンスにする」と言い、今まで『ダンス』というものに触れたことがなく、ダンスをあまり見たこともなかったので、僕には、「なんかいやだ」という感情しかなかった。

 夏休みになり、一番初めにしたことは、髪の毛の色を真っ金々にしたことだった。

夏休み中の予定は、クラスの文化祭の出し物であるダンスの練習がほぼ毎日強制的に入れられていた。練習初日は行く気がしたため、学校に練習しに行った。ただ、髪の毛を真っ金々にしたのがばれると怒られるので、頭にタオルを巻いて学校へ行った。

 遅刻して体育館に入ると、クラスのみんながダンスの練習をしていて、初めて見るダンスの講師の先生がいた。

その先生の名前は『ちあ』先生と言い、先生はセクシーな格好をしていて、声が大きく、とてもパワフルな印象だった。ちあ先生は僕の目を真っすぐ見ながら、

「あなたがじょーじくんだね。私は、みんなの文化祭を成功させるためにダンスを教える講師のちあです。よろしくね!」

と握手をし、僕に話しかけた。

女性の方にパワフルに声を掛けられたこと自体、初めてだったので、僕はとても緊張し、少し嬉しかった。

ただ、ダンスというものは「踊れる人は楽しいのだろうが、踊れない人は全く楽しくないものだ」と思っていたため、当然すぐにうまく踊ることができない僕は、「踊れない自分は格好悪い」と思い、二日目の練習からサボっていた。

この頃の僕は、『努力』という概念がそもそもなく、『できるかできないか』でしか物事を判断しなかった。元々色々なことに対しての能力も高くなかったので、そうやって考えることしかできなかった。

 僕はダンスの練習には参加しなくなり、久しぶりに矢田と遊んだり、どこかに喧嘩を売りに行ったり、中学のときの野球部の連中と夜中集まり、朝まで遊んでいた。

 ある日、朝目覚めると、携帯に着信が20件ほどあった。

「誰だ?」と携帯を確認すると、その20件の着信は全て「はたや先生」からだった。

「誰がダンスの練習なんか行くか。全無視してやる」と僕は思っていた。

ダンスの練習に一度も参加していなかった、同じクラスの荒井と翔太に連絡した所、二人とも同じようにはたや先生から連絡があったようだった。はたや先生の着信は毎日のように続いた。

『荒井』は、翔太と仲良くなり始め頃、翔太と話しているとき、荒井が僕達の方に近づいてきて、急に屁をこいて、その屁を自分でにぎりっ屁し、「いい匂い!」と言いだし、「こいつは普通ではない」と思ったのがきっかけで、徐々に仲良くなっていった。

 そんな夏休み中のある日、僕は、れいなと些細なことで喧嘩になった。喧嘩をする頻度はとても多かったが、このときの喧嘩の原因は、不良集団の一人とよく休み時間に、廊下で座り込んで話していて、それを僕が怒ったからだった。

その日、僕はれいなに「帰る」と一言言って、家に帰った。

 その次の日の夜中に、野球部連中とレンタルビデオ屋の前でたまっていると、れいなの話になり、その場にいた水田が、

「そういえば今日同じクラスの高森とれいなが、一緒に手繋いで、遊んでるとこ見たけど、じょーじ、れいなと別れたの?」

と聞いてきて、その瞬間、僕の怒りが頂点に達した。

『高森』とはH高校の中では世渡り上手な性格で、フットワークが軽く、どの集団にも属しておらず、僕はあまり好きではないタイプだった。

れいなと話しているときに、自分から怒って帰り、しかも理不尽なことで怒ってしまった自分も悪いと思ったが、四六時中、「高森とれいなが手を繋いでいたということ」が頭から離れなくなってしまった。

僕の頭の中では、「文化祭のダンスを成功させて、れいなにカッコいい所を見せてやる。れいなから仲直りをしようと言って来るまで待とう」と考えていた。

 いてもたってもいられなくなった僕は、荒井と翔太に連絡し、「三人でダンスの練習に参加しよう」と誘った。自己都合でしかなかったが、二人共「じょーじがそういうのなら」と承諾してくれた。真っ金々の髪の毛を黒くし、次の日からダンスの練習に参加することにした。

 ダンスの練習に途中参加した三人は、みんなとは別のメニューを別の場所で練習していた。下手糞ながらも、みんなで練習し、同じ目標に向かって取り組んでいる時間は、『青春以外の何物』でもなく、とても楽しかった。

はたや先生は、クラス全員に、「何か一つのことにきちんと取り組み、成功体験をさせたい」と考えて、厳しく指導していた。

 文化祭当日、僕達は体育館で全校生徒に向けて、ダンスを発表した。曲は二曲で、覚えた振付を必死に見せた。ステージ上で踊っているときは、初めて経験する何とも言えない高揚感に満ち溢れていて、「この感覚が『幸せ』というものなのか」と感じていた。

ステージをはける際に、はたや先生とすれ違い際に、僕は、

「はたや先生、(こんな素晴らしい経験をさせていただいて)ありがとう」

と言ったことは今でも忘れられない。

はたや先生はこのとき、「これでじょーじは、今後悪さもせず、何か一つのことに打ち込んでくれる」と確信し、安心したようだった。「じょーじがそうなっただけでも、ダンスの練習は価値があった」と思ったようだった。

 ダンスは見事に成功し、ステージから降り、控室に戻る途中、れいなが体育館の外で泣き崩れているのを不良集団が囲んでいる姿が横目で見えた。

「ざまぁみろ。かっこいい俺に感動したんだろう。お前が違う男と遊んでいる間、俺は陰で努力をしていたんだ。俺の所に戻ってくるのは今のうちだぞ」と思っていた。

 文化祭が終わり、僕はクラスのみんなとの距離が縮み、楽しい毎日を過ごしていた。れいなと仲良くしていた高森は顔が広く、不良集団にも顔が利いており、不良集団と仲が良かったので、この頃から僕は不良集団に敵対心を抱くようになった。そのため、いつも翔太と荒井と学校生活を送っていた。

◇無期停学事件

 ある日、昼飯を買いに一階の購買にパンを買いに行くと、二階の階段で、気合の入ったギャル男がこちらを見て、ガンを飛ばしてきた。

僕はそいつに近づき、

「なんかようか?」

と言うと、そいつは、

「あっ!?お前誰に喧嘩売っとんのかわかっとんのか!」

と言うので、

「お前なんか知るか!お前こそ誰に喧嘩売っとんのかわかっとんのかコラ!」

と胸ぐらを掴んで、思いっきり壁にぶつけた。そうすると、そいつは「ふっ」と笑い、

「お前今日の17時に校門で待っとけ」

と言ってきた。

僕はワクワクしながら、その日の17時に翔太と校門前で仁王立ちをし、先ほどのギャル男が来るのを待っていた。

「仲間でも連れてくるのかな」と思っていたが、ギャル男は一人で現れ、僕に近づくやいなや、

「今日はごめんね。もう喧嘩は売らないでね」

と言い、頭を下げてきた。

意味不明の出来事だった。

このことはあっという間に、校内全体に広まった。

購買にパンを買いに行くときなどに、2・3年生の先輩と会う度に、「じょーじはやばい」「誰も手を出してはいけない」「君は既にH高校の番長だ」などと称賛の声を受けていた。

気合の入ったギャル男は当時高校3年生で一年留年しており、親がやくざなので、先輩の周りの誰一人として、「そいつに喧嘩を売ってはいけない」と恐れられていたようだった。そんなことはお構いなしに1年生にもかかわらず、喧嘩を売った僕に、ギャル男はビビったそうだった。

 ある日、昼飯前の授業終わり、廊下で翔太と肩パンをしていると、高森を含む不良集団8名が購買にパンを買いに行こうとしていて、こちら側に歩いてきた。向こうも、「僕が不良集団に敵対心を抱いていること」は気づいていたため、こちらにガンを飛ばしながら、歩いているのを僕達は気づいていた。

不良集団は、明らかに僕の方を見て、指をさしながら笑って、歩いていた。

僕は高森とれいなのこともあったため、そのことに無性に腹が立ち、「不良集団が購買のパンを買ってきて、帰ってきたら全員ボコボコにする」と決め、翔太に「俺、あいつら戻ってきたら全員殺すわ」と宣言していた。

僕は廊下で、一人で仁王立ちをして、不良集団を待っていた。

不良集団が、購買で買ったパンを手に持ちながら、僕の方へ歩いてきた。

僕は不良集団の一人、安藤に、

「おい、お前ら俺のほう見て指さして笑っとったろ?」

と聞くと、安藤は

「は?笑ってねーし」

とそっぽを向いたので、僕は安藤の胸ぐらを掴み、耳元で、

「お前らなんて全員俺一人でいつでもやったるぞコラ!」

と大声で叫ぶと、安藤は、

「ちょ、我慢できんわ」

と言って、不良集団の一人に購買で買ったパンを渡そうとした瞬間、僕の喧嘩スイッチがオンになり、安藤の腹を膝蹴りし、強烈な右フックをかますと、右フックが良い所に入ったのか、安藤はそのまま床に倒れこんだ。

倒れた安藤の腹をサッカーボールキックで蹴り、顔を2・3発踏んだ所で、僕は不良集団の方を見て、

「お前らも全員かかってこいよ!!」

と言うと、

「ごめん。じょーじ。俺らはお前とはやる気がせんから勘弁してくれ」

と謝ってきた。

安藤を見ると、ぴくぴく動いていて、口から血の泡を吹いて倒れていた。

廊下中血まみれだった。

久しぶりに喧嘩をして、すっきりしながらトイレで顔を洗っていると、顔に一発殴られていたことに気が付いた。当時僕は歯科矯正をしていて、口の中にその矯正の針金が突き刺さっていることに気付いたが、そんなことはお構いなく、口の中に突き刺さった針金を手で外し、針金を元に戻した。

 教室に戻り、何事もなかったかのように、お弁当に入っている、ちゃーちゃんが作ってくれた大好きな卵焼きを食べながら、翔太と話していると、はたや先生が鬼の形相をしながら、僕の方へ走って来た。

「じょーじ。ちょっと来い」

昼飯途中だったが、僕は、はたや先生に付いて行った。

まずは保健室へ行った。

はたや先生は真っすぐ僕の目を見て、

「今廊下であったことを全部話せ」

と言った。

僕は隠すことなく、廊下であったことを全て先生に話した。

安藤は意識がなく、これから救急車で運ばれるようだった。

 はたや先生のヒアリング後、父を校長室に呼び出され、校長先生、はたや先生、教務主任の三人から事情聴取をされた結果、僕に対して、退学処分を命じられた。

 その後、父の車で一緒に帰っている途中、父は、

「お前は悪ない。お前の好きなようにせぇ」

と僕に話し、僕も高校をやめる覚悟でいた。

その夜、翔太から連絡があり、「僕が高校を辞めるんだったら、翔太も辞める」と言っていた。

 次の日、学校から僕の携帯に着信があった。昼まで寝ていた僕は、起きて学校に電話を掛け直すと電話の相手は、はたや先生だった。

先生が言うには、どうやら僕は退学処分ではなく、無期停学処分で済むみたいで、「無期停学の課題を今すぐにをやれ」ということだった。

 父の仕事が終わり、父にそのことを話すと、

「お前の好きなようにしたらええ」

と言うので、僕は「俺が高校辞めたら翔太も辞めてしまって、翔太の親にも迷惑が掛かってしまう」と思い、課題をさっさと終わらせて、高校へ行こうと思った。

 無期停学の課題は、一回目の停学のときの課題量とは比べ物にならないくらい多かった。

国語・数学・英語・理科・社会はなぜか、教科書約100ページほどをノートに5回書き写す『作業』で、体育や家庭科、美術も同じような課題だった。

 一方、安藤は僕との喧嘩の後、救急車で運ばれ、3日間ほど入院した。安藤の親から僕の父に、「慰謝料や治療費を払え」と催促の連絡があったようだが、父は、「こどもの喧嘩に親が出てくるな!」とブち切れて、治療費や慰謝料など一切払わなかった。

安藤も僕と同じように無期停学処分をくらったが、安藤は、課題量を見て、「到底終わらない」と感じ、退院してから一週間後、自主退学をした。

 無期停学中、自宅謹慎で外にも行けず、前回の停学のときのようにバイクで走っている所を見られたら、今回ばかりはさすがに退学になると感じ、必死で課題を毎日20時間ほど進めた。寝る時間は毎日2時間程度で、トイレと風呂と飯以外は、全て課題の時間にあてた。

長い時間机に座って、字を書いたことや何か物事を考えたことなど、それまでなかったため、課題をやっているときは、すごく新鮮な時間に思えた。

◇愛情

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